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2026年5月29日金曜日

『ギヴァー』と関連のある本142 『クスノキの女神』東野圭吾著

 しばらくぶりの関連ある本の紹介です。前作の『クスノキの番人』を読んだ時はそれほど感じませんでしたが、今回その続編の『クスノキの女神』を読んで142番目の関連ある本に認定しました。

  東野圭吾のクスノキ・シリーズと、ロイス・ローリーの『ギヴァー』は、いずれも「記憶」を物語の中心に据えながら、まったく異なる世界観と倫理観を描き出しています。三作に共通するのは、記憶が単なる情報ではなく、人間の痛みや喜び、過去の重み、そしてコミュニティーのあり方そのものを形づくるものとして扱われている点です。どの作品でも、記憶を背負う者はコミュニティーの中心にいながら、同時にその外側に立たされるという独特の孤独を抱える。しかし、その孤独の意味づけは作品ごとに大きく異なります。

『ギヴァー』では、記憶はコミュニティーが恐れ、隔離し、管理しようとする危険物として描かれています。痛みや混乱を避けるために、コミュニティーはすべての記憶を一人の記憶保持者(リシーバー)に押しつけ、他の人々は無痛で均質な生活を送る。記憶を背負う者の孤独は制度によって強制され、逃れられない。記憶は抑圧された真実であり、それを取り戻すことはコミュニティーの秩序を揺るがす反逆である。ローリーは、記憶の喪失を「人間性の危機」として描き、記憶を取り戻す行為を倫理的覚醒として位置づけているかのようです。ジョナスのコミュニティーからの脱出は、記憶保持者”としての自分自身の解放だけでなく、コミュニティー全体の解放でもあるかのように・・・

これに対して『クスノキの女神』では、記憶は人と人をつなぎ直すための媒介として肯定的に扱われています。物語には認知症カフェや記憶障害の少年が登場し、記憶の喪失が家族や周囲の人々の関係をどう揺さぶり、どう再構築させるかが丁寧に描かれています。番人や女神が記憶を預かるのは、自分たちのコミュニティーや関係を管理するためではなく、失われつつある物語を受け渡し、つながりを守るためです。記憶を背負う者の孤独は、制度による隔離ではなく、他者と深く関わるがゆえに生まれる静かな孤独であり、それは悲劇ではなく成熟の証として描かれています。記憶は継承されるものであり、共有することで癒しと再生が生まれるかのように。

 クスノキ・シリーズの著者である東野さんの身近に認知症を患った人がいたのかは分かりませんが、ローリーさんは自分の父親が認知症になったことを公言していました。そういう人が身近に存在したり、増えている社会のあり方を考えるための本としても、ぜひご一読を!

 なお、詩や物語を書く才能のある女子高校生と脳の障害で記憶を失っている中学生(しかし、絵を描くのはうまい)の二人が協力して、記憶の助けを借りながら絵本『少年とクスノキ』をつくり上げる部分は圧巻です!

2026年4月15日水曜日

【自転車青切符導入に不満の声が続々】「行政は先にやるべきことがあるだろう」

https://news.yahoo.co.jp/articles/3683d7360dd257082cade5d588a1cd7d5b53a134

に書かれていることを読んで、教育(テストや教科書など)や最近、高市さんが政治でやろうとしていることも同じだな~、と思ってしまいました。

2026年1月28日水曜日

また、うっとおしい選挙の季節になりました! → 「効力感」について考える

  回を重ねるごとに、うっとおしさが増しています。党首や幹部、そして候補者たちが発する言葉が「ほぼウソ!」というのが伝わってきてしまうからです。ほとんど、「壊れたテープレコーダー」(いまは、この表現の代わりに何というのでしょうか? 「エンドレス再生みたいに、同じことを繰り返す」)のように! 「うっとおしさ」と同じレベルで、どんどん「虚しさ」が肥大化しています! これだけ巨額な税金を無駄に費やしても、何も変わらないのですから。

 今朝読んでいた文章に、次のようなものがありました。

 

集団としての効力感があるからこそ、私たちは協働し、集団としての影響力を発揮することができ、現代の世代とこれからの世代のために、より充実し、公平で、変革的な教育システムを築くことが可能になります。

 

これを読んでの私のコメントは、「ウ~ン、逆に、集団としての効力感なしでは、それらを得るのは難しい! それが、日本の教育の現状」でした。そして「政治の季節」とは言えない今の「選挙の季節」のなかでは、「教育」の部分は、そのまま「社会」や「政治」に置き換えることができます。

悲しいです、集団としての効力感を失っている学校や社会は! 個々人としての効力感は、まだ失っているとは思いませんが、それをもっている人はドンドン少なくなっており、その人たちの頑張りでなんとかもっている学校や社会と言えるでしょうか?