しばらくぶりの関連ある本の紹介です。前作の『クスノキの番人』を読んだ時はそれほど感じませんでしたが、今回その続編の『クスノキの女神』を読んで142番目の関連ある本に認定しました。
『ギヴァー』では、記憶はコミュニティーが恐れ、隔離し、管理しようとする危険物として描かれています。痛みや混乱を避けるために、コミュニティーはすべての記憶を一人の“記憶保持者(リシーバー)”に押しつけ、他の人々は無痛で均質な生活を送る。記憶を背負う者の孤独は制度によって強制され、逃れられない。記憶は“抑圧された真実”であり、それを取り戻すことはコミュニティーの秩序を揺るがす反逆である。ローリーは、記憶の喪失を「人間性の危機」として描き、記憶を取り戻す行為を倫理的覚醒として位置づけているかのようです。ジョナスのコミュニティーからの脱出は、“記憶保持者”としての自分自身の解放だけでなく、コミュニティー全体の解放でもあるかのように・・・
これに対して『クスノキの女神』では、記憶は人と人をつなぎ直すための媒介として肯定的に扱われています。物語には認知症カフェや記憶障害の少年が登場し、記憶の喪失が家族や周囲の人々の関係をどう揺さぶり、どう再構築させるかが丁寧に描かれています。番人や女神が記憶を預かるのは、自分たちのコミュニティーや関係を管理するためではなく、失われつつある物語を受け渡し、つながりを守るためです。記憶を背負う者の孤独は、制度による隔離ではなく、他者と深く関わるがゆえに生まれる静かな孤独であり、それは悲劇ではなく成熟の証として描かれています。記憶は“継承されるもの”であり、共有することで癒しと再生が生まれるかのように。
クスノキ・シリーズの著者である東野さんの身近に認知症を患った人がいたのかは分かりませんが、ローリーさんは自分の父親が認知症になったことを公言していました。そういう人が身近に存在したり、増えている社会のあり方を考えるための本としても、ぜひご一読を!
なお、詩や物語を書く才能のある女子高校生と脳の障害で記憶を失っている中学生(しかし、絵を描くのはうまい)の二人が協力して、記憶の助けを借りながら絵本『少年とクスノキ』をつくり上げる部分は圧巻です!