トマさんが紹介知れくれたレオ・レオーニの『どうする ティリー』です。
レオ・レオーニの作品は、これに限らず『ギヴァー』のジョナス的な役割を主人公が担っているものが少なくないと思いますが、ティリーは大きな壁(それは、誰がいつ作ったものかわからない!)の存在をまったく意識しない他のねずみたちと違い、強く意識し、そして壁の向こう側に何とかして行きたいと強く願う存在です。ティリーは、クリシュナムルティが言っていた「絶えず探究し、絶えず観察し、絶えず学んでいる」存在でした★。実際に、仲間たちの協力も得て、のぼってみたり、くぎでさしたり、そして夜は眠らずに壁の向こう側の世界を夢見たりしました。
そんなある日、壁の近くでミミズが地面に潜っていくのを見かけました。「これだ!」とティリーは思い、夢中で穴を掘り始め(一人でというよりは一匹で)、そして壁の向こう側にたどりついたのです。壁の向こう側にも、自分の同じ普通のねずみたちがいました。そして、壁のこちら側と向こう側のねずみたちの交流が始まったというお話。
さて、ジョナスは自分がいたコミュニティと「よそ」との間の交流を作り出すことはできるのでしょうか?
★ これは、「探究のサイクル」であり、これができる人を「自立した探究者」ないし「自立した学習者」と言えると思います。残念ながら、これらも日本の教育の目標には掲げられていません。ですから、12年あるいは16年以上学校や大学で過ごしても、「自立した探究者/学習者」「自立した市民」は期待できない状態が続きます。ほとんど、ティリー以外のねずみたちを育てることが目的になっているかのようです。それこそ、『ギヴァー』で描かれている世界と言ってもいいかもしれません。
2010年10月23日土曜日
2010年10月20日水曜日
英知の教育 5
しばらく続いてきたクリシュナムルティの2冊の本の紹介は、今日で終わりです。
以下は、短い引用が続きますが、それぞれ大事なことを投げかけてくれていると思います。全部とまでは言わないまでも、『ギヴァー』と関連するものがほとんどでもあります。
139 精神が、言葉の真の意味において学びはじめるのにふさわしい土台を確立できるのは、比較することの愚かしさに気づいて、比較していない状態にあるときです。
143 共感をどう行動に移すかは、ひとえにその思いの強さにかかっているのです。競争は、極めて破壊的なもの。
148 全体を見ることの大切さ
170 私たちが必要としているのは、むしろ指導者からの自由だ。
171 どんな種類の理想も非常に雄大だからだ。理想は事実を見ることを妨げる。しかるに、正しい方向への運動となるエネルギーを解放するのは、事実への関心と事実の理解のみである。理想は単に様々な種類の逃避を生むだけだ。
これは大きなものから小さなものに目を移すことではない。なぜならこの学校は、世界で起こっていることの縮図だからだ。
173 もし何か新しいものを発見したければ、古いものを手放さなければならない。
177 思いやりの関係
179 他人と分かち合いたいと望む精神の状態
共にある経験をしつつあるということ。教師と生徒の間の信頼関係
198 観察し、考えること、鋭敏な精神、静謐な精神を持つこと、感じやすく、鋭敏で、強健な身体を持つことが必要だ。
→ これらのどこまでが今の学校でやれているかな~、と思ってしまいます。
もちろん、学校だけに問題があるわけではなく、社会全体にここに書かれているような関係や状態が希薄というか、ないことが問題なわけで...まさに「学校は、世界で起こっていることの縮図」です。
217 反抗には2種類ある。一つは暴力的反抗。これは、単なる反発にすぎない。もう一つは、英知の反抗。それは自分自身の思考と感情を理解することから生ずる自己認識の道である。体験を素直に直視し、いやなことも避けて通らないようにすれば、われわれの英知は大いなる覚醒を維持できる。このような高度に目覚めた英知こそは直感であり、それが人生のおける唯一の導きの杖である。
→ 『子供たちとの対話』の13~14ページに出てきた「反逆」よりは、「反抗」の方がいいですが、まだそれでも...という気がします。
英知を可能にする教育を提供する場としての学校がいかに少ないことかを考えさせられます。担っている人たちのほとんども、そして一度はそこを通過したことのある人たちも(要するに、すべての人たちが)、英知の必要性を認識していないという大きな問題が横たわっています。
『ギヴァー』の中で、レシヴァーの求められるのは、「知性」「正直さ」「勇気」そして「叡智」でした。そして、「愛」も。
(ちなみに、英知と叡智は同じことを指すようです。)
以下は、短い引用が続きますが、それぞれ大事なことを投げかけてくれていると思います。全部とまでは言わないまでも、『ギヴァー』と関連するものがほとんどでもあります。
139 精神が、言葉の真の意味において学びはじめるのにふさわしい土台を確立できるのは、比較することの愚かしさに気づいて、比較していない状態にあるときです。
143 共感をどう行動に移すかは、ひとえにその思いの強さにかかっているのです。競争は、極めて破壊的なもの。
148 全体を見ることの大切さ
170 私たちが必要としているのは、むしろ指導者からの自由だ。
171 どんな種類の理想も非常に雄大だからだ。理想は事実を見ることを妨げる。しかるに、正しい方向への運動となるエネルギーを解放するのは、事実への関心と事実の理解のみである。理想は単に様々な種類の逃避を生むだけだ。
これは大きなものから小さなものに目を移すことではない。なぜならこの学校は、世界で起こっていることの縮図だからだ。
173 もし何か新しいものを発見したければ、古いものを手放さなければならない。
177 思いやりの関係
179 他人と分かち合いたいと望む精神の状態
共にある経験をしつつあるということ。教師と生徒の間の信頼関係
198 観察し、考えること、鋭敏な精神、静謐な精神を持つこと、感じやすく、鋭敏で、強健な身体を持つことが必要だ。
→ これらのどこまでが今の学校でやれているかな~、と思ってしまいます。
もちろん、学校だけに問題があるわけではなく、社会全体にここに書かれているような関係や状態が希薄というか、ないことが問題なわけで...まさに「学校は、世界で起こっていることの縮図」です。
217 反抗には2種類ある。一つは暴力的反抗。これは、単なる反発にすぎない。もう一つは、英知の反抗。それは自分自身の思考と感情を理解することから生ずる自己認識の道である。体験を素直に直視し、いやなことも避けて通らないようにすれば、われわれの英知は大いなる覚醒を維持できる。このような高度に目覚めた英知こそは直感であり、それが人生のおける唯一の導きの杖である。
→ 『子供たちとの対話』の13~14ページに出てきた「反逆」よりは、「反抗」の方がいいですが、まだそれでも...という気がします。
英知を可能にする教育を提供する場としての学校がいかに少ないことかを考えさせられます。担っている人たちのほとんども、そして一度はそこを通過したことのある人たちも(要するに、すべての人たちが)、英知の必要性を認識していないという大きな問題が横たわっています。
『ギヴァー』の中で、レシヴァーの求められるのは、「知性」「正直さ」「勇気」そして「叡智」でした。そして、「愛」も。
(ちなみに、英知と叡智は同じことを指すようです。)
2010年10月19日火曜日
英知の教育 4
106 思うに正しい教育とは、決まりきった習慣 ~ いかに立派で気高いものであれ、いかに技術的に必要なものであれ ~ にはまらないように精神を養うこと、知識や経験によってではなく、それ自体としてとてつもなく生き生きした精神を養うことなのである。
107 私は知識に反対しているのではない。しかし学ぶことと知識を習得することとは違う。知識の蓄積しかないところでは、学びはやむ。少しも獲得がないときにのみ、学びがあり得る。もっぱら知識が重要になるとき、学びはやむのだ・・・世界中で行われている教育は単なる知識の習得に過ぎない。それゆえ精神は鈍化し、学ぶことをやめてしまう。そして、その獲得物が生き方を指示し、それゆえ経験を限定するようになる。これに反して、学びは限りない。
111 目先のことしか関心を示さず、長期展望を持とうとしない教育関係者。
121 私の関心は、精神を目覚めさせ、精神をとてつもなく生き生きとさせておくことにあるのです。精神は知識によって生き生きとさせておくことができると私たちは言います。それゆえ、私たちは知識を詰め込むのですが、それはかえって精神を鈍らせるのです。時間の中で働く精神は、依然として限られた精神です。しかし時間の中で働かない精神は、とてつもなく機敏で、とてつもなく生き生きしているので、その生気を、まだ捜し求め、探究している無垢な精神に与えることができるのです。・・・学びは時間の外になるのです。
→ 結果的にやってはいけないことを教育システムとしてやり続けている、ということ。取り返しがつかなくなることはさけなければ!!!
135 私たちは、教師と生徒との間の適切な意思疎通の確立について話し合い、共感の状態においてはじめて、生徒が学びはじめるのにふさわしい、従来とは異なった雰囲気や環境が作り出されることを知った...思うに、学びは、教師と生徒が共感の状態があるときにのみ存在しうるのだ。それは私と皆さんとの間にも言える。「コミューニオン」=意思疎通すること、触れ合うこと、ある気持ちを伝え、それを分かち合うこと。そしてその状態で、その一体感の中ではじめて、教師と生徒が共に学ぶことができる。
→ 教える/学ぶにおいては、関係性がとても重要。
というよりも、何事にもこの関係性、意思疎通、コミュニケーションが成り立つかどうかが鍵のような気がします。これが成り立たないことによる弊害は計り知れないものがあると思います。
それは、ジョナスのコミュニティにも言えることですし、私たちにも。
107 私は知識に反対しているのではない。しかし学ぶことと知識を習得することとは違う。知識の蓄積しかないところでは、学びはやむ。少しも獲得がないときにのみ、学びがあり得る。もっぱら知識が重要になるとき、学びはやむのだ・・・世界中で行われている教育は単なる知識の習得に過ぎない。それゆえ精神は鈍化し、学ぶことをやめてしまう。そして、その獲得物が生き方を指示し、それゆえ経験を限定するようになる。これに反して、学びは限りない。
111 目先のことしか関心を示さず、長期展望を持とうとしない教育関係者。
121 私の関心は、精神を目覚めさせ、精神をとてつもなく生き生きとさせておくことにあるのです。精神は知識によって生き生きとさせておくことができると私たちは言います。それゆえ、私たちは知識を詰め込むのですが、それはかえって精神を鈍らせるのです。時間の中で働く精神は、依然として限られた精神です。しかし時間の中で働かない精神は、とてつもなく機敏で、とてつもなく生き生きしているので、その生気を、まだ捜し求め、探究している無垢な精神に与えることができるのです。・・・学びは時間の外になるのです。
→ 結果的にやってはいけないことを教育システムとしてやり続けている、ということ。取り返しがつかなくなることはさけなければ!!!
135 私たちは、教師と生徒との間の適切な意思疎通の確立について話し合い、共感の状態においてはじめて、生徒が学びはじめるのにふさわしい、従来とは異なった雰囲気や環境が作り出されることを知った...思うに、学びは、教師と生徒が共感の状態があるときにのみ存在しうるのだ。それは私と皆さんとの間にも言える。「コミューニオン」=意思疎通すること、触れ合うこと、ある気持ちを伝え、それを分かち合うこと。そしてその状態で、その一体感の中ではじめて、教師と生徒が共に学ぶことができる。
→ 教える/学ぶにおいては、関係性がとても重要。
というよりも、何事にもこの関係性、意思疎通、コミュニケーションが成り立つかどうかが鍵のような気がします。これが成り立たないことによる弊害は計り知れないものがあると思います。
それは、ジョナスのコミュニティにも言えることですし、私たちにも。
2010年10月18日月曜日
英知の教育 3
72 教育に終わりはない。教科書を読み、試験に合格すれば、それで教育が終わるというものではない。人生の全部、生まれてから死ぬまでが学びの過程なのだ。学びは終わりを持たず、それが学びの超時間的性質である。
73 イメージなしで(言葉なしで)見る。ものごとがそのあるがままにある。
75 好きですることを、見つけ出す
→ この捉え方の違いによって、失っているものの多さに頭が行ってしまいます。
77 正しい教育とは、教科書をカバーすることではなく、問題が起こるたびに君たちがそれを理解するのを助けることであって、それには優れた精神が必要だ。すぐれた精神とは、論理的に考える鋭い精神、何の信念も持たない精神のことだ。なぜなら信念は事実ではないからだ...君たちがほんとうに心から好きでできることを君たち自身が見つけるのを助けることだ。
→ 単なる「問題解決能力」とは違うようです?!
78 自分自身を知るにはどうしたらいいのか? → 瞑想??
80 愛とは何か知っているだろうか? 人々を愛するとはどういうことか知っているだろうか? 思いやること。
面倒を見る気持ちが愛情の始まりである。ものごとの面倒を見れば見るほど、それだけ君たちは感受性豊かになる。そのように、愛情、優しさ、親切心、寛大さがなければならない。
81 思うに、子どもたちはそれを持っている。
82 君が誰かを愛していれば、責任も義務も犠牲もない。愛するからこそ君はものごとをする。
84 愛は、その中に優しさ、安らかさ、親切、思いやり、そして美がある感情である。愛には何の野心も嫉妬もない。 学ぶことと愛は同じか??
86 まず第一に、機械的な人生を送らないこと。機械的な人生とは、誰かに言われたとおりに何かをすること。
第二に、他人に対し非常に優しく親切にし、傷つけないこと。人々を見つめ、助け、寛大で思いやり深くなければならない。
87 愛がなければならない。さもなければ君の人生は空しい。
人々を愛するとはどういうことか、犬、空、青く霞む丘や川を愛するとはどういうことかを見出すようにしなさい。愛し、感じなさい。
そのとき君は、瞑想とは何か、非常に静かな精神、オシャベリでない精神を持つとはどういうことかを知るに違いない。そして真に宗教的な精神を知ることができるのは、そのような精神だけである。そして宗教的精神、宗教的感情なしには、人生は香りのない花、さざなみ立つ水をけっして知らなかった川床、けっして木ややぶや花を育まなかった大地のようなものである。
→ 「愛」の大切さが繰り返し出てきます。
教育の場で「愛」を扱うことはあるでしょうか? 戦争前・中に「祖国愛」は叩き込みましたが。
愛も含めて、感情的な部分・精神的な部分は弱いままであり続けているのが学校教育です。
そして、他の場でも補われていません。
73 イメージなしで(言葉なしで)見る。ものごとがそのあるがままにある。
75 好きですることを、見つけ出す
→ この捉え方の違いによって、失っているものの多さに頭が行ってしまいます。
77 正しい教育とは、教科書をカバーすることではなく、問題が起こるたびに君たちがそれを理解するのを助けることであって、それには優れた精神が必要だ。すぐれた精神とは、論理的に考える鋭い精神、何の信念も持たない精神のことだ。なぜなら信念は事実ではないからだ...君たちがほんとうに心から好きでできることを君たち自身が見つけるのを助けることだ。
→ 単なる「問題解決能力」とは違うようです?!
78 自分自身を知るにはどうしたらいいのか? → 瞑想??
80 愛とは何か知っているだろうか? 人々を愛するとはどういうことか知っているだろうか? 思いやること。
面倒を見る気持ちが愛情の始まりである。ものごとの面倒を見れば見るほど、それだけ君たちは感受性豊かになる。そのように、愛情、優しさ、親切心、寛大さがなければならない。
81 思うに、子どもたちはそれを持っている。
82 君が誰かを愛していれば、責任も義務も犠牲もない。愛するからこそ君はものごとをする。
84 愛は、その中に優しさ、安らかさ、親切、思いやり、そして美がある感情である。愛には何の野心も嫉妬もない。 学ぶことと愛は同じか??
86 まず第一に、機械的な人生を送らないこと。機械的な人生とは、誰かに言われたとおりに何かをすること。
第二に、他人に対し非常に優しく親切にし、傷つけないこと。人々を見つめ、助け、寛大で思いやり深くなければならない。
87 愛がなければならない。さもなければ君の人生は空しい。
人々を愛するとはどういうことか、犬、空、青く霞む丘や川を愛するとはどういうことかを見出すようにしなさい。愛し、感じなさい。
そのとき君は、瞑想とは何か、非常に静かな精神、オシャベリでない精神を持つとはどういうことかを知るに違いない。そして真に宗教的な精神を知ることができるのは、そのような精神だけである。そして宗教的精神、宗教的感情なしには、人生は香りのない花、さざなみ立つ水をけっして知らなかった川床、けっして木ややぶや花を育まなかった大地のようなものである。
→ 「愛」の大切さが繰り返し出てきます。
教育の場で「愛」を扱うことはあるでしょうか? 戦争前・中に「祖国愛」は叩き込みましたが。
愛も含めて、感情的な部分・精神的な部分は弱いままであり続けているのが学校教育です。
そして、他の場でも補われていません。
2010年10月16日土曜日
英知の教育 2
『英知の教育』のつづきです。
40 技術的知識に閉じこもった人生は、非常に狭くて限られた人生である。それは、いずれは多大の悲しみや不幸を招く。
→ 英知が必要ということ。感受性が必要ということ。
41 教師の役割は、部分的な精神だけでなく精神の全体を教育することである。正しい教育は君たちの全存在、君たちの精神の全体を養う。それは、君の精神と心に深さ、美に対する理解を与える。
→ あまりにも知識偏重の現在行われている教育。英知、感受性、精神全体へアプローチする方法をもっていない教育。その結果が、細川さんが『魂のランドスケープ』で書いていたような嘆きにつながっている。
46 他に何かあるかどうかを見出すには、いますがりついているものを手放さねばならない。もし川を渡りたければ、こちら岸から離れ去らねばならない。一方の岸に座ったままではいけない。不幸を免れたいが、しかし川を渡ろうとはしないのが世の常である。君たちは自分が知っているものにすがりつく ~ それがいかにみじめであろうと。そして川の向こう岸に何があるか知らないので、それを手放すことを恐れるのだ。
→ ここでもunlearning(間違って身につけてしまった悪い習慣を手放すこと)の大切さが強調されている。そうしない限りは、一つの物事のやり方(往々にして悪習である場合が多い)からもう一つのやり方(より効果的・効率的・生産的である場合が多い)に移行できない。慣れたいつものやり方の方が安心だから。たとえ、それが効果的・効率的ではないことは薄々知っていても。
50 学びは、恐怖がなく、いかなる権威もないときにのみ起こりうる。
→ イコールなレベルでコミュニケーションが取れるとき!!! それだけでもないような気がする。手放す決心ができた(unlearnした)ときに、新しい学び(learn)も同時にやってくるような気がする。
65 どうしたら自分を変えられるのか?
人はこれからそれへと変わることはできる。が、それは少しも変化ではない。彼らがしたことは、自分はこうあるべきだという観念の投影である。
変化とは、まず実際に「ある」がままのものに気づき、それと共に生きることである。すると人は、<見る>ことそれ自体が変化をひき起こすことがわかるだろう。
→ この辺はまさに、ドロシー・ギルマンさんが体験し、そして『一人で生きる勇気』の中で書いてくれていること。ジョナスも体験したかな?
40 技術的知識に閉じこもった人生は、非常に狭くて限られた人生である。それは、いずれは多大の悲しみや不幸を招く。
→ 英知が必要ということ。感受性が必要ということ。
41 教師の役割は、部分的な精神だけでなく精神の全体を教育することである。正しい教育は君たちの全存在、君たちの精神の全体を養う。それは、君の精神と心に深さ、美に対する理解を与える。
→ あまりにも知識偏重の現在行われている教育。英知、感受性、精神全体へアプローチする方法をもっていない教育。その結果が、細川さんが『魂のランドスケープ』で書いていたような嘆きにつながっている。
46 他に何かあるかどうかを見出すには、いますがりついているものを手放さねばならない。もし川を渡りたければ、こちら岸から離れ去らねばならない。一方の岸に座ったままではいけない。不幸を免れたいが、しかし川を渡ろうとはしないのが世の常である。君たちは自分が知っているものにすがりつく ~ それがいかにみじめであろうと。そして川の向こう岸に何があるか知らないので、それを手放すことを恐れるのだ。
→ ここでもunlearning(間違って身につけてしまった悪い習慣を手放すこと)の大切さが強調されている。そうしない限りは、一つの物事のやり方(往々にして悪習である場合が多い)からもう一つのやり方(より効果的・効率的・生産的である場合が多い)に移行できない。慣れたいつものやり方の方が安心だから。たとえ、それが効果的・効率的ではないことは薄々知っていても。
50 学びは、恐怖がなく、いかなる権威もないときにのみ起こりうる。
→ イコールなレベルでコミュニケーションが取れるとき!!! それだけでもないような気がする。手放す決心ができた(unlearnした)ときに、新しい学び(learn)も同時にやってくるような気がする。
65 どうしたら自分を変えられるのか?
人はこれからそれへと変わることはできる。が、それは少しも変化ではない。彼らがしたことは、自分はこうあるべきだという観念の投影である。
変化とは、まず実際に「ある」がままのものに気づき、それと共に生きることである。すると人は、<見る>ことそれ自体が変化をひき起こすことがわかるだろう。
→ この辺はまさに、ドロシー・ギルマンさんが体験し、そして『一人で生きる勇気』の中で書いてくれていること。ジョナスも体験したかな?
2010年10月15日金曜日
『ギヴァー』の感想
A.F.さんが、読んですぐの感想を送ってくれましたので、掲載します。
「ギヴァー」、いい本ですね。設定が面白い。
12歳の儀式のところまでは、現代社会への風刺としての舞台設定を強く感じながら読みました。物語の世界(コミュニティ)は極端な管理社会であるけれども(愛さえないとは恐れいった)、現代社会にも通じる面はありますね。というか管理されたがる人たちもいる?例えば現代でも、結婚サービス会社はデータを元に相手を紹介するし、職業だって適性テストとかある。誰かにこれがいいよと言ってもらえると楽ですもんね。物語の世界では、快適さという束縛と引き換えに選択する自由は失われている。現実の社会では、かつて選択の自由がない時代もあった訳で、それが当たり前とも言えない。自分で選択できるということはときに痛みを伴うけど、幸せなことですよね。
中盤のレシーヴァーの訓練のあたりは、生きる喜びを感じながら読みました。
前に何かの本に、現代の若者は強い刺激(暴力的な映像とかゲームとか、激しい音楽)がないと満足できないが、もっと日常の感覚を研ぎ澄ませた方がいいようなことが書いてありました。今食べている食べ物の味とか、歩くときに頬をなでる風とか…。今日は途中から晴れましたけど、地面には湿り気が残っていて、土のにおいを強く感じることができましたね。私も病気になって前より、日常のささいなことを意識するようにはなったんですけどね。でも、若い人の中には、陽光の暖かさとか家族と過ごすことの喜びとか気付かない人もいるでしょう。この本は児童文学ですが、やはり小学校高学年~中学生くらいに読んでもらいたい本だと思います。あ、こんな見方で世界を見ることもできるんだって。
小学校高学年に読ませたい割には、タイトルがちょっとわかりにくいかな~。もう少しSFっぽいタイトル(サブタイトル)だったらいいのに、と思います。(たとえば「はてしない物語」なんかはタイトルも装丁もワクワクさせてくれましたもんね)
脱出の計画を立ててからは急展開ですね。二人ぼっちの革命。勇気と強さの物語。最後にたどりついた場所はどこなんでしょう。ジョナスがゲイブリエルに与えた記憶はどう作用するのか。ちょっと消化不良の終わり方でした(だからこそ、ああでもないこうでもないと話合うことができて面白いんでしょうけどね)。3部構成になっているようなので、残りの2部が読みたい!いつ邦訳されるんでしょう?!(洋書は手に入りますが…)
この年で読んだからか、人生が変わったとまでは参りませんが(期待はずれだったらごめんなさい)、良書だと思うし、今の日本の子どもたちが読むことができるようになってよかったです!「伝達者の会」は具体的に誰にどんな働きかけをされたのでしょう?○○小にも置いてあるのかな?
「ギヴァー」、いい本ですね。設定が面白い。
12歳の儀式のところまでは、現代社会への風刺としての舞台設定を強く感じながら読みました。物語の世界(コミュニティ)は極端な管理社会であるけれども(愛さえないとは恐れいった)、現代社会にも通じる面はありますね。というか管理されたがる人たちもいる?例えば現代でも、結婚サービス会社はデータを元に相手を紹介するし、職業だって適性テストとかある。誰かにこれがいいよと言ってもらえると楽ですもんね。物語の世界では、快適さという束縛と引き換えに選択する自由は失われている。現実の社会では、かつて選択の自由がない時代もあった訳で、それが当たり前とも言えない。自分で選択できるということはときに痛みを伴うけど、幸せなことですよね。
中盤のレシーヴァーの訓練のあたりは、生きる喜びを感じながら読みました。
前に何かの本に、現代の若者は強い刺激(暴力的な映像とかゲームとか、激しい音楽)がないと満足できないが、もっと日常の感覚を研ぎ澄ませた方がいいようなことが書いてありました。今食べている食べ物の味とか、歩くときに頬をなでる風とか…。今日は途中から晴れましたけど、地面には湿り気が残っていて、土のにおいを強く感じることができましたね。私も病気になって前より、日常のささいなことを意識するようにはなったんですけどね。でも、若い人の中には、陽光の暖かさとか家族と過ごすことの喜びとか気付かない人もいるでしょう。この本は児童文学ですが、やはり小学校高学年~中学生くらいに読んでもらいたい本だと思います。あ、こんな見方で世界を見ることもできるんだって。
小学校高学年に読ませたい割には、タイトルがちょっとわかりにくいかな~。もう少しSFっぽいタイトル(サブタイトル)だったらいいのに、と思います。(たとえば「はてしない物語」なんかはタイトルも装丁もワクワクさせてくれましたもんね)
脱出の計画を立ててからは急展開ですね。二人ぼっちの革命。勇気と強さの物語。最後にたどりついた場所はどこなんでしょう。ジョナスがゲイブリエルに与えた記憶はどう作用するのか。ちょっと消化不良の終わり方でした(だからこそ、ああでもないこうでもないと話合うことができて面白いんでしょうけどね)。3部構成になっているようなので、残りの2部が読みたい!いつ邦訳されるんでしょう?!(洋書は手に入りますが…)
この年で読んだからか、人生が変わったとまでは参りませんが(期待はずれだったらごめんなさい)、良書だと思うし、今の日本の子どもたちが読むことができるようになってよかったです!「伝達者の会」は具体的に誰にどんな働きかけをされたのでしょう?○○小にも置いてあるのかな?
2010年10月14日木曜日
『ギヴァー』と関連のある本 47
クリシュナムルティさんは、結構同じようなことを異なる本で繰り返し言っています。そんな中で、私自身の関心から2冊目に読んだのは、『英知の教育』でした。1冊目とオーバーラップする部分もありますが、何度強調しても強調したりない部分が多いです。
17 科学の精神と宗教の精神の調和がとれた人間、それこそがほんとうの人間だ。
19 非常に明晰で、緻密に考え、機敏になることが科学の精神、自分の精神の真相をあばき、言葉を超越し、○○教徒を含めて自分の様々なレッテルをはがすことが宗教の精神。それらを可能にする学校/教育が求められている。
20 英知とは明晰に、客観的に、正気に、健全に考える力のことであり、そのために知識を用いる。英知は、そのなかにどんな個人的感情も、どんな個人的意見も、偏見も、性向も含まれていない。英知は、直接に理解する力である。
次々と付け加えられていく過去としての知識。
英知は、非常に鋭敏で、機敏で、よき気づく精神の性質である。
24 感受性が豊かなことも求められる
→ 「科学の精神」と、知識とは違う「英知」についてはわかりますが、「宗教の精神」についてはまったくといってピンときません。
32 自由は、秩序なしには存在しない。ふたつは一緒になっている。
33 もし君が真に自由でなければ、決して開花できないし、よい人間でありえないし、そして何の美しさもありえないのだ。
34 鳥や花と同じく、人間も自由をもたねばならないのだ。が、人間は自由を恐れている。鳥、川、木などすべてのものは自由を求めており、人間もまた中途半端にではなく、徹底的に自由を求めなければならない。自分が思っていることを表現し、自分が真に望むことをする自由、自主性は、人生においてもっとも大切なことのひとつである。ほんとうに怒り、嫉妬、冷酷、残忍さから自由であること、自分自身の内部で真に自由であることは、もっともむずかしく危険なことのひとつである。
しかし、自分の望みどおりにすることが自由ではない。なぜなら、人間は自分だけでは生きられないからである。自由であるにはとてつもない英知、感受性、理解が必要である。自由は秩序なしにはありえない。
→ 自由の大切さ、しかし自由は秩序とのセットで機能。
ジョナスは、自由と共に英知、感受性、理解をもっていたでしょうか?
この質問は、自分にも跳ね返ってくる質問です。
17 科学の精神と宗教の精神の調和がとれた人間、それこそがほんとうの人間だ。
19 非常に明晰で、緻密に考え、機敏になることが科学の精神、自分の精神の真相をあばき、言葉を超越し、○○教徒を含めて自分の様々なレッテルをはがすことが宗教の精神。それらを可能にする学校/教育が求められている。
20 英知とは明晰に、客観的に、正気に、健全に考える力のことであり、そのために知識を用いる。英知は、そのなかにどんな個人的感情も、どんな個人的意見も、偏見も、性向も含まれていない。英知は、直接に理解する力である。
次々と付け加えられていく過去としての知識。
英知は、非常に鋭敏で、機敏で、よき気づく精神の性質である。
24 感受性が豊かなことも求められる
→ 「科学の精神」と、知識とは違う「英知」についてはわかりますが、「宗教の精神」についてはまったくといってピンときません。
32 自由は、秩序なしには存在しない。ふたつは一緒になっている。
33 もし君が真に自由でなければ、決して開花できないし、よい人間でありえないし、そして何の美しさもありえないのだ。
34 鳥や花と同じく、人間も自由をもたねばならないのだ。が、人間は自由を恐れている。鳥、川、木などすべてのものは自由を求めており、人間もまた中途半端にではなく、徹底的に自由を求めなければならない。自分が思っていることを表現し、自分が真に望むことをする自由、自主性は、人生においてもっとも大切なことのひとつである。ほんとうに怒り、嫉妬、冷酷、残忍さから自由であること、自分自身の内部で真に自由であることは、もっともむずかしく危険なことのひとつである。
しかし、自分の望みどおりにすることが自由ではない。なぜなら、人間は自分だけでは生きられないからである。自由であるにはとてつもない英知、感受性、理解が必要である。自由は秩序なしにはありえない。
→ 自由の大切さ、しかし自由は秩序とのセットで機能。
ジョナスは、自由と共に英知、感受性、理解をもっていたでしょうか?
この質問は、自分にも跳ね返ってくる質問です。
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