控えめに、『ギヴァー』と間接的に(?)関連のある本として紹介します。それも、もう64冊目になります。
牧野富太郎の存在をたまたま、テレビのドキュメンタリー番組で知りました。
図書館で借りられる牧野富太郎関連の本を読んでみた中で、一番ピンと来た本が『牧野富太郎 ~ 私は草木の精である』渋谷章でした(左側の数字はページ数です。『ギヴァー』との関連で抜き書きしました)。他によりよい本をご存知の方は、ぜひ教えてください。
12 (神秘的/不可能とも思える彼の存在は、むしろ当然なことであることがわかる、)そして何よりも牧野富太郎の人間的魅力がその中心にあることに気が付くことだろう。さらにその魅力の中心には、一つのことに情熱的に打ち込んだ人が例外なくそうであるように、熱心さと集中力、それに自分自身を裏切らない誠実さがあることにも気が付くことだろう。牧野富太郎の生涯は、単なる植物学者の一生でもなければ、一愛好家としての一生でもない。彼の生涯をたどることによって“絶対の探求”を身をもって示し、自分に与えられた生を一つのことだけに費やした人間の本質と実在を明らかにする貴重な経験をすることになるのである。
13 明治維新に幼年期を過ごす ~ 日本は新しく生まれ変わろうとしていたのある。こうして牧野富太郎は何もかもが新しくなった日本で、一生を送ることになったのであった。
14 当然ながら植物学の世界にも時代の波は押し寄せてきた。しかしながら新生日本の植物学者はどのような生涯を送るべきかということを牧野富太郎以前に身をもって示せた人間はまだ一人も居なかった。そして牧野富太郎にとって、もしこのような見本が必要であるなら、彼自身がそうならなければならなかった。そのため牧野富太郎は自分の価値観、世界観に従って自分の生涯を決定しなければならなかったのである。肩書も資格も、彼は必要とはしなかった。だから彼は全く自由な立場で生涯を送ることが出来たのであったそして、これが彼の生涯を通しての立場でもあった。
24 伊藤塾での体験 ~ この塾では、町人の出身者は下座の者とされ、士族の子である上座の者に礼儀を尽くさなければならなかった。この身分の違いだけは牧野富太郎の努力でも覆すことが出来なかった。彼の学力には、上座の者も一目置くほどのものがあったにもかかわらず、彼が上座の扱いを受けることはなったのである。おそらく牧野富太郎が生涯にわたって権威や肩書というものを必要以上に避け続けた背景には、少年の頃伊藤塾で体験しなければならなかった自分というものへの不信感が秘められていたことだろう。(中略)牧野富太郎はこのような大人の世界を絶対に許さなかった。
28 彼の本格的な勉強は、小学校をやめたからこそ始めることが出来たといってもよいからである。これ以後、彼がとった勉強方法は独学であった。これは場合によっては最も苦しい勉強方法であると同時に、最も楽しい勉強方法でもある。場合によっては最も不安な勉強方法であると同時に、最も自信にあふれた勉強方法でもある。場合によっては最も危険な勉強方法であると同時に、もっとも効果のある勉強方法でもある。ただはっきりしていることは、本当に自らすすんで勉強をしようと思っている人にしか、この勉強方法がとれないということだ。牧野富太郎が小学校をやめたのは、そこで学問が行われていたためではなく、学問が行われていなかったためであったことは明らかであろう。
32 生まれながらの教師 ~ 良い教師というものは、決して生徒に自分の知識を押し付ける指導はせず、生徒自身があこがれるような見本をもって示し、自分の専門については非の打ち所がない知識をもっていなければならない。
33 牧野富太郎は、佐川小学校で良い教師だった。以前、この小学校で(生徒として)不愉快な思いをしたことがある彼は、悪い教師というものがどのようなものかということをよく知っていたからである。かつて生徒の立場から厳しく教師を批判していたのに、今度は彼が批判される立場となった。彼は教師の立場ではなく、生徒の立場でいつも考えるようになった。・・・教えること、そのものを楽しんだ。
43 彼には、植物に関することなら、どのような人からも、心から学ぼうとするだけの寛大さと情熱とがあった。そして知識を得る手段を書物だけに限定してはならないという反省も得た。植物を前にして、植物を知ろうという人々は、皆同じ価値があるのだ。<接し方の違いがない。>
52 学者の3つの顔: ①自分の知識と権威を認める一般人に見せる気さくで慈愛に満ちた顔と、②自分と同じ地位のものに見せる傲慢な顔と、③自分の地位を脅かす実力をもった者に見せる憎悪に満ちた冷酷な顔、である。
132 優秀な教育者とは、決して弟子を指導したり、知識を押し付けたり、自慢したりはしない。本人自身が身をもって示すことにより、他の人々に自らの意志でそのような人物になりたいという強い願望を、自分の力で押さえ付けることができないほど呼び起こせる人なのである。
191 植物をトータルの捉えようとしていた牧野富太郎!
213 彼の生涯と植物学の研究とを見て気が付くことは、彼自身の植物に関する知識への絶対的な自信である。彼は自分自身に誠実であったが故に、自分に一番適したことを知ることが出来たし、自分に一番適した生き方を選ぶことも出来た。そして彼自身、遺文が植物のことに関しては、この世界で一番詳しい人間であり、少なくともそのような人間になれることをよく知っていたのである。そのため、誰も牧野富太郎のことを認めなくても、彼は気にしなかった。彼は自分自身に対する自信が余りに大きかったために、他人の非難も、不幸な運命も、彼の自尊心を傷付けることは出来なかった。