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2019年2月20日水曜日

日本はプラスチックの消費大国


年間に約300億枚のレジ袋を消費


微小プラ、すでに人体に 貝からも検出 健康への影響は

ギヴァーのコミュニティーと、私たちの社会を比較したときに、大きく異なることの一つは、ごみ(とくにプラスチック)です。 日本社会には、溢れていますが(それなしでは、暮らしが成り立たないぐらいに!)、ギヴァーのコミュニティーではほとんど見かけないと思います。ゴミもプラスチックも。

もちろん、根っこにあるのは生き方そのものです!

2019年2月19日火曜日

『ギヴァー』と関連のある本 124


13歳の少年が、カナダの森林地帯に飛行機で脱落してしまい(パイロットは、心臓発作で死亡)、54日間もたったひとりで生き抜いた物語です。(左側の数字は、ページ数です。)

60 ブライアンは以前、パーピッチという男の先生に国語を教わっていた。パーピッチ先生の口ぐせは、「積極的なれ、前向きに考えろ、状況をしっかり把握しろ」だった。パーピッチ先生はそういう言い方をした。
62 (そして、自分の持ち物を全部出して、草の上にならべた。)さあ、これでぜんぶだ。いや、ちがう。もうひとつあるじゃないか。持ち物はこれでぜんぶだけれど、まだほかに、自分というものがある。パーピッチ先生はブライアンたちに向かって、くり返し言った。「きみたちのもっとも貴重な財産は、きみたち自身だ。そいつを忘れるな。自分自身が、最高の宝なんだ」
(自分以外の最高の宝は、原書のタイトルになっている「手斧」でした。)

100 (手斧を使って、火を起こした後に)ぼくには友だちができた。ようやく、仲間ができた。腹をすかせてはいるけれど、いいやつなんだ。友だちの名は“火(ファイア)”だ。(これが、蚊の大群やけものから救ってもくれた。)

117 (自然の中で生きるすべを徐々に身につけていく。ある意味では、原始時代の狩猟採集民=最初の科学者+エンジニアになっていく! → このテーマに関心のある方は、『遊びが学びに必要なわけ』がおすすめです。

123 ブライアンは、(カメが生んだ)卵を小さな砂浜からそっくり隠れ家へうつし、寝場所の近くに埋めなおした。運んでいるとちゅうで、卵をもうひとつ食べたいという気持ちをおさえるには、ありったけの意志の力が必要だった。

125 ぼくは、前とはちがう。ものの見方も、音の聞き方もちがっている・・・いまでは音がすると、聞きながらそうとはせずに、音の正体を知ろうとするだろう。枝が折れたり、風が動くと、さっとふり向き、音のしたほうを見つめるだろう。まるで、心の目が音波の進んできた道を逆にたどるとでもいうように、その音の正体をつきとめるだろう。
 (都会人から自然人への変化。現代文明に浸りきった人間から、原始の人間への回帰。)

225 ブライアンに起きた変化の多くは、半永久的なものになるだろう。まわりで進行中のできごとにたいする観察力と、それに反応する能力が鋭敏になったが、これはおそらく一生ついてまわるはずだ。また、前よりも思慮深くなった。これからは、なにか話す前に、ゆっくり考えるだろう。(食べ物はどんなものでも、かつてきらいだったものでさえ、ブライアンにとって喜びの種でありつづけるだろう。)

162 一日一日がたがいにかさなりあい、とけあうように過ぎていった。だから2、3週間もすると、時がたったことを示すものは、戸口のそばに毎日つける印だけになってしまった。でも、ほんとうに時をはかるものさしになるのは、日数ではなく出来事だった。一日というものには意味がなかった。おぼえておく価値はなかった。日がのぼって、沈む。そのあいだが明るいというにすぎない。
 けれども、出来事のほうは、脳裏にくっきりと焼きついた。だから、それを利用して時間をおぼえることにした。起こったことを学び、記憶し、心のなかの日誌につけておくことにした。 ~ 『ギヴァー』でも、記憶は大きなテーマの一つ!

171 なにをやるにもがまんが必要だ。待つときも、考えるときも、正しいことをするときでさえもそうだ。食べ物のことだけじゃない。生きることすべてに、がまんし、考えることが必要なんだ。 ~ そして、数多くの苦難(ムースや竜巻に襲われたりすること)に遭遇し、それを乗り越えることも含めて・・・・しかし、その竜巻が、湖に沈んだ飛行機を水面に浮かせてくれることになった!

193 (すぐには、飛行機のところに行こうとせずに、優先順位を考えて、計画して行動する。まさに「積極的なれ、前向きに考えろ、状況をしっかり把握しろ」を実践! その結果、サバイバル用品の入ったバッグを回収することができ、「非常用発信機」をそうとは知らずに作動させて、自分の位置を近くを飛んでいた飛行機に知らせることになって、救出されることにつながった!)

 最後に、もう一つ『ギヴァー』と『ひとりぼっちの不時着』の関係について・・・両者とも、毎年その年最高の児童文学作品に贈られるニューベリー賞の受賞作品だということです。実は、これまでに『ギヴァー』と関連する本として紹介してきたものの中には、この章を受章している作品が少なくありません。その受賞作と日本語に訳されている本のリストは、http://www.yamaneko.org/bookdb/award/us/newbery/index.htmで見られるので、面白いと思えるものからぜひ試し読みしてください。
 日本には、これに匹敵するような文学賞はあるのでしょうか?

2019年2月12日火曜日

『牧野富太郎 ~ 私は草木の精である』渋谷章


控えめに、『ギヴァー』と間接的に(?)関連のある本として紹介します。それも、もう64冊目になります。
牧野富太郎の存在をたまたま、テレビのドキュメンタリー番組で知りました。
私たちは、野口英世は学び(学ばされ)ますが、牧野富太郎について知っている人はどれほどいるでしょうか? そして、偉人伝では、何をどう(どこまで)知るのかも決定的に重要なのですが、その辺について、紹介する側はどれだけ考えているのでしょうか? この点については、http://wwletter.blogspot.com/2019/01/blog-post.htmlは決定的に重要な気がします(が、日本の教育からはほとんど丸ごと抜けていると思います)。

図書館で借りられる牧野富太郎関連の本を読んでみた中で、一番ピンと来た本が『牧野富太郎 ~ 私は草木の精である』渋谷章でした(左側の数字はページ数です。『ギヴァー』との関連で抜き書きしました)。他によりよい本をご存知の方は、ぜひ教えてください。

12 (神秘的/不可能とも思える彼の存在は、むしろ当然なことであることがわかる、)そして何よりも牧野富太郎の人間的魅力がその中心にあることに気が付くことだろう。さらにその魅力の中心には、一つのことに情熱的に打ち込んだ人が例外なくそうであるように、熱心さと集中力、それに自分自身を裏切らない誠実さがあることにも気が付くことだろう。牧野富太郎の生涯は、単なる植物学者の一生でもなければ、一愛好家としての一生でもない。彼の生涯をたどることによって“絶対の探求”を身をもって示し、自分に与えられた生を一つのことだけに費やした人間の本質と実在を明らかにする貴重な経験をすることになるのである。
13 明治維新に幼年期を過ごす ~ 日本は新しく生まれ変わろうとしていたのある。こうして牧野富太郎は何もかもが新しくなった日本で、一生を送ることになったのであった。
14 当然ながら植物学の世界にも時代の波は押し寄せてきた。しかしながら新生日本の植物学者はどのような生涯を送るべきかということを牧野富太郎以前に身をもって示せた人間はまだ一人も居なかった。そして牧野富太郎にとって、もしこのような見本が必要であるなら、彼自身がそうならなければならなかった。そのため牧野富太郎は自分の価値観、世界観に従って自分の生涯を決定しなければならなかったのである。肩書も資格も、彼は必要とはしなかった。だから彼は全く自由な立場で生涯を送ることが出来たのであったそして、これが彼の生涯を通しての立場でもあった。

24 伊藤塾での体験 ~ この塾では、町人の出身者は下座の者とされ、士族の子である上座の者に礼儀を尽くさなければならなかった。この身分の違いだけは牧野富太郎の努力でも覆すことが出来なかった。彼の学力には、上座の者も一目置くほどのものがあったにもかかわらず、彼が上座の扱いを受けることはなったのである。おそらく牧野富太郎が生涯にわたって権威や肩書というものを必要以上に避け続けた背景には、少年の頃伊藤塾で体験しなければならなかった自分というものへの不信感が秘められていたことだろう。(中略)牧野富太郎はこのような大人の世界を絶対に許さなかった。

28 彼の本格的な勉強は、小学校をやめたからこそ始めることが出来たといってもよいからである。これ以後、彼がとった勉強方法は独学であった。これは場合によっては最も苦しい勉強方法であると同時に、最も楽しい勉強方法でもある。場合によっては最も不安な勉強方法であると同時に、最も自信にあふれた勉強方法でもある。場合によっては最も危険な勉強方法であると同時に、もっとも効果のある勉強方法でもある。ただはっきりしていることは、本当に自らすすんで勉強をしようと思っている人にしか、この勉強方法がとれないということだ。牧野富太郎が小学校をやめたのは、そこで学問が行われていたためではなく、学問が行われていなかったためであったことは明らかであろう。

32 生まれながらの教師 ~ 良い教師というものは、決して生徒に自分の知識を押し付ける指導はせず、生徒自身があこがれるような見本をもって示し、自分の専門については非の打ち所がない知識をもっていなければならない。
33 牧野富太郎は、佐川小学校で良い教師だった。以前、この小学校で(生徒として)不愉快な思いをしたことがある彼は、悪い教師というものがどのようなものかということをよく知っていたからである。かつて生徒の立場から厳しく教師を批判していたのに、今度は彼が批判される立場となった。彼は教師の立場ではなく、生徒の立場でいつも考えるようになった。・・・教えること、そのものを楽しんだ。

43 彼には、植物に関することなら、どのような人からも、心から学ぼうとするだけの寛大さと情熱とがあった。そして知識を得る手段を書物だけに限定してはならないという反省も得た。植物を前にして、植物を知ろうという人々は、皆同じ価値があるのだ。<接し方の違いがない。>

52 学者の3つの顔: ①自分の知識と権威を認める一般人に見せる気さくで慈愛に満ちた顔と、②自分と同じ地位のものに見せる傲慢な顔と、③自分の地位を脅かす実力をもった者に見せる憎悪に満ちた冷酷な顔、である。

132 優秀な教育者とは、決して弟子を指導したり、知識を押し付けたり、自慢したりはしない。本人自身が身をもって示すことにより、他の人々に自らの意志でそのような人物になりたいという強い願望を、自分の力で押さえ付けることができないほど呼び起こせる人なのである。

191 植物をトータルの捉えようとしていた牧野富太郎!

213 彼の生涯と植物学の研究とを見て気が付くことは、彼自身の植物に関する知識への絶対的な自信である。彼は自分自身に誠実であったが故に、自分に一番適したことを知ることが出来たし、自分に一番適した生き方を選ぶことも出来た。そして彼自身、遺文が植物のことに関しては、この世界で一番詳しい人間であり、少なくともそのような人間になれることをよく知っていたのである。そのため、誰も牧野富太郎のことを認めなくても、彼は気にしなかった。彼は自分自身に対する自信が余りに大きかったために、他人の非難も、不幸な運命も、彼の自尊心を傷付けることは出来なかった。

2019年2月3日日曜日

『ギヴァー』と関連のある本 123


『漫画 君たちはどう生きるか』(原作・吉野源三郎、漫画・羽賀翔一)の中から、『ギヴァー』に関連すると思った箇所を抜粋します。

●ものの見方について
52ページ: いや、君が大人になるとわかるけれど、こういう自分中心の考え方を抜けきっているという人は、広い世の中にも、実にまれなのだ。(中略)たいがいの人が、手前勝手な考え方におちいって、ものの真相がわからなくなり、自分に都合のよいことだけを見てゆこうとするものなんだ。
114ページ: 「あたりまえのこと」っていうものが曲者で・・・・・ひとつのわかりきったことを、どこまでも、どこまでも追いかけて考えてゆくと、ものごとの大事な「根っこ」の部分にぶるかることがあるんだ・・・・・

 ~ ギヴァーのコミュニティーも、日本社会も、「あたりまえのこと」だらけという感じがします。「根っこ」の部分を見ようとせず。

●真実の経験について
98ページ: 生まれつき目の見えない人には、赤とはどんな色か、なんとしても説明しようがない。それは、その人の目があいて、実際に赤い色を見たときに、はじめてわかることなんだ。――こういうことが、人生にはたくさんある。
 たとえば、絵や彫刻や音楽の面白さなども、味わってはじめて知ることで、すぐれた芸術に接したことのない人にいくら説明したって、分からせることは到底出来はしない。
 殊に、こういうものになると、ただ目や耳が普通に備わっているというだけでは足りなくて、それを味わうだけの、心の目、心の耳が開けなくてはならないんだ。
 しかも、そういう心の目や心の耳が開けるということも、実際にすぐれた作品の接し、しみじみと心を打たれて、はじめてそうなるのだ。
 まして、人間としてこの世に生きているということがどれだけ意味のあることなのか、それは、君が本当に人間らしく生きてみて、その間にしっくりと胸に感じとらなければならないことで、はたからは、どんな偉い人をつれてきたって、とても教えこめるものじゃあない。
103ページ: 世間には、他人の目に立派に見えるように、見えるようにと振る舞っている人が、ずいぶんある。そういう人は、自分がひとの目にどう映るかということを一番気にするようになって、本当の自分、ありのままの自分がどんなものかということを、つい、お留守にしてしまうものだ。

 ~ 実際に赤が見えたジョナスは行動を開始しました!
   私たちは心の目や心の耳は開いているでしょうか?
   学校や社会は、それらを実現するようにしているでしょうか?
   「しみじみと心を打たれ」る体験をどれだけ提供できているでしょうか?
   「本当の自分、ありのままの自分」を消す方向で機能している方のウェートの方がはるかに多くないでしょうか?