それを誘発しているのは、元々の語源である「アカウンタビリティー」を「説明責任」と訳してしまった誤訳にある!!
その結果が、いまも(そして過去はもちろん、未来にも)政治の世界で繰り返し起こし続ける過ちを繰り返す元になっています。いまは、統一会問題であり、元首相の国葬問題などです。
アカウンタビリティーのとてもよい説明を、ある教育書(英語の本なので、仮訳)で見つけましたので紹介します。
アカウンタビリティーとは、完璧を執拗(しつよう)に追い求めることではありません。それは、健全でもなければ、達成できることでもありません。アカウンタビリティーとは、私たちが教える生徒一人ひとりの成長に責任をもち、すべての生徒と協力して彼らの成長のために価値ある目標を設定し、教室で何を表現し、何をしたいのかを常に意識しながら、ベストを尽くすということです。それは、生徒一人ひとりがどのように成長しているか(あるいはしていないか)、そして私たちがプロとしての展望においてどのように成長しているか(あるいはしていないか)を、正直かつ誠実に、そして定期的に検証することを意味します。つまり、生徒の成長を最大化し、専門家としての自分自身を強化するために、何をどのように行うかを調整することなのです。ハッティによると、教師の基本的な仕事は、自分の授業が生徒の学びと成長に与える影響を評価することです。「汝の影響を知れ」と彼は助言しています。この意味で、アカウンタビリティーは、成長マインドセット(成功や失敗の両方から学ぼうとすることによって、より強く、より良く、より賢く、より自己実現に近い状態になるという信念)の現れであるとみなすことができます。学び手中心の教室におけるアカウンタビリティーの範囲は、学び手中心の可能性に対する私たちの感覚が広がり、教室が生徒の声と選択の幅を広げるにつれて拡大していきます。 (以上、その本の49ページからの仮訳)
ニュアンスとしては、「説明責任」よりも「結果責任」に近いでしょうか?
ちなみに、上に書いてあるようなことは、日本の教育では当たり前のことでしょうか? それとも、まだ知られていないことでしょうか?
残念ながら日本の政治の世界では、まったく見られないことでしょうか?
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