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2011年11月16日水曜日

『司馬遼太郎の風景』②

『司馬遼太郎の風景』を読み続けています。第2弾は、「北のまほろば+南蛮のみち」です。


37 稲作が、国家と不可分の関係にある。
   「人間の最大の敵が人間」になるという、皮肉な運命を背負い込んだ。

38 急ぎすぎた日本 ~ 中国が数千年かかって築き上げた文化を、日本はほんの数百年に圧縮して、「稲作国家」を現出させた。こうした性急な社会の変化が、日本の歴史に不幸な事態をもたらすことになった。
  コメ至上主義社会の不思議 ~ 米ができにくいところでも、米をつくる!

40 柔軟性を欠いた津軽 (江戸政権も)

42 これが、戦後の日本のあやまちの遠因になっている。

43 日本人の体質
 「大多数がやっていることが神聖であり、同時に脅迫である」と思い込む日本人の病的体質は一向に治っていない。治っていないどころか、ますますエスカレートしている。
 一億総じて同じ目的に突進していなければ生きられない民族なのかもしれない。
 「お家やお国のためならどのような理不尽にも耐えて忠誠を尽くす」は、戦後の日本にも、企業がその精神を肩代わりしている。

45 そういう縛られた国民性から解放されなければならない時。

71 陸羯南、三宅雪嶺、志賀重昂、長谷川如是閑

85~6 古代において、日本列島の住民の血は大いに混じり合っていた。 それが、徐々に純血主義に。純血は、響きはいいが、内実はひ弱い。国際性に欠けた閉鎖社会。

→ ここまでは「北のまほろば」として津軽について、縄文時代の青森について、古代から中世にかけての十三湊についてなどを考察しています。古代の津軽は、決して野蛮な採集社会ではなく、広い地域(海外までを含めて)と広域していた豊かな地域であることに、司馬さんは想いを馳せています。そして、この地域を貧しくした主要因として稲作をあげています。

 以下は、「南蛮のみち」、とくにバスクに焦点を当てた部分です。
 なぜ、バスク人たちは地球の果ての日本に来続けるのか?
 ちなみに、elsewhere(どこか違うところ)は、ギヴァーのテーマの一つです。

127 聖フランシスコ・デ・ザビエル

130 1925年に来日したソーヴール・カンドウ神父

174~5 日本という異郷でくらし、そこで悔いのない生涯をおえることができたのも、この町(=バスクの中の小さな町)の生家における少年時代が充実していて、記憶が年々光にまで高められていたためであったかと思われる。
  少年時代が充実していると、それが精神の支えとなって、人は遠くに羽ばたける。

200 ザヴィエルの日本人:

  日本人は、傲慢で怒りっぽい。
  欲は浅く、はなはだ物惜しみしない。
  他の国について知ろうとする切ない欲求がある。
  嫉妬を知らない。
  盗むことを憎む。
  貴人をたおせば、りっぱな騎士とみなされる。
  音楽・演劇を愛する。賭博をさげすむ。宗教心はつよい。

205 バスク人の意識や性格とその風土は密接に結びついている

210 太宰治 と 陸羯南 にこだわっていた司馬遼さん

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