今回も長いです。
第4章 無境界の自覚
82 統一意識とは真の領域には境界がないという単純な自覚である。
統一意識とは、無境界の自覚なのだ。
いうのはやさしいが、無境界の自覚とか統一意識をしかるべく話題にのせることはきわめて難しい。これは、ことばが境界の言語だからである。これまで見てきたように、ことば、シンボル、思考は、それ自体境界以外の何ものでもない。考えると同時に、ことばや名前を使うと同時に、すでに境界がつくりあげられている。
83 重要なのは、主体と客体、自己と非自己、見る者と見られる者のあいだに境界がない、ということである。
90 体験=自己
第5章 無境界の瞬間
108 統一意識とは時をもつ時間的なものではなく、永遠かつ時のないものである。それははじまりも誕生もしらず、また終わりも死も知らない。つまり永遠の性質を完全に把握しないかぎり、「リアリティ」の意味を捉えることはできないのである。
109 永遠とは果てることのない時間の自覚ではなく、それ自体まったく時間をもたない自覚だからである。永遠の瞬間とは、過去も未来も以前も以後も、昨日も明日も誕生も死も知らない、時のない瞬間である。統一意識のなかで生きるとは、時のない瞬間のなかで、また時のない瞬間として生きることである。
110 現在の瞬間は時のない瞬間であり・・・永遠に浸ることであり、鏡をとおって不生不死の世界へ入ることである。
112 永遠とは、この現在の時のない瞬間の本性である。
「過去と未来の対を超える」通路となる大いなる解放は、いま以外ない。
113 にもかかわらず、このいまだけに完全に生きている人の数はほんとうに少ない。われわれは昨日に住み、果てしなく明日を夢見る。そして、時間という拷問の鎖と実在しない物事の幻によって自らを縛る。記憶と期待という空想の霧のなかにエネルギーを散逸させ、生きた現在の根本的リアリティを奪い、「見せかけの現在」にしてしまう。それは、一、二秒しかもちこたえることのできない痩せ細った現在であり、永遠の現在の青ざめた影にすぎない。
われわれの抱えている問題がすべて時間の問題であり、また時間のなかの問題であると神秘主義者は主張している。・・・・われわれの抱えている問題はすべて時間に関連したものである。悩みとはつねに過去と未来に関したもので、過去の行いを嘆き、その未来の結果を恐れる。罪の意識は過去と不可分につながっており、落ちこみや悲しみや後悔による苦悩をもたらす。それと同様に、あらゆる懸念は未来に対する思いとつながったものであり、恐れと悲惨と不安を運ぶ雲を呼び寄せる。
114 現在そのものには根本的な問題はない。そこには時がないからだ。
116 過去と未来はない。過去と未来は永遠のいまのうえに重ねあわされた象徴的な境界の幻想の産物にすぎない。この象徴的な境界は、永遠を分裂させ、昨日対明日、以前対以後、過ぎ去った時対来るべき時に見せる。このように、永遠のうえの一つの境界としての時間は、解決すべき問題ではなく、最初から存在しない一つの幻想にすぎないのだ。
119 過去を直接体験できないとしても、記憶が実際の過去の知識を与えてくれると思い込む。私が過去のことを考えているときに思い出しているのは、特定の記憶だけであり、その記憶自体も現在の体験である。
120 過去は現在のなかでのみ、そして現在の一部としてのみ、知られるのだ。
われわれが「過去」と呼ぶものが実際に起こったときには、それは現在の出来事であった。すなわち、いかなる時点であれ、私が現実の過去を直接自覚することはないのである。それと同様に、私が未来を知ることもない。唯一知っているのは予期とか期待だけであり、それらもまた現在の体験の一部である。予期とは記憶同様、現在の事実なのだ。
過去を記憶、未来を予期として両者を現在の事実ととらえることは、あらゆる時間外間存在していると見ることにほかならない。
121 すべての時は、いま、現在の瞬間に含まれている。
いま以外の時はない。
外観が何であれ、あなたが唯一体験しているのは永遠の現在である。
しかし、一般にほとんどの人が、現在の瞬間を永遠の瞬間とは感じない。われわれは現在の瞬間をおそらく1,2秒しか続かない過ぎゆく現在、痩せ細った現在と感じている。
122 別のいい方をすると、現在の瞬間を境界づけられた限られたものと感じるのである。過去と未来にはさまれているように思うのだ。事実と記憶/象徴の混同をとおして、われわれは時のない現在の一つの境界を設け、それを分断して過去対未来という対立に仕立てあげ、時間を過去から「過ぎゆく現在」をとおって未来へと向かう一つの動きととらえる。永遠の領域に境界をもちこみ、自らを閉じ込めてしまうのである。
123 現在は過去と未来によってサンドイッチの状態にされ、あらゆる側から制限されている。限定され、取り囲まれ、制限されているのだ。開かれた瞬間ではなく、握りつぶされ、押しつぶされた瞬間、すなわち、ただ通り過ぎるだけの過ぎゆく瞬間なのだ。過去と未来があまりにも現実的に思えるために、サンドイッチの中身である現在の瞬間は、薄いスライスにされてしまい、われわれのリアリティは中身のない両側のパンだけになってしまう。
だが、記憶としての過去がつねに現在の体験であることがわかれば、この瞬間の後ろにある境界は崩れ去る。この現在の以前には何もなかったことが明らかになるのだ。同様に、予期としての未来がつねに現在の体験であることがわかれば、この瞬間の前にある境界は吹き飛ぶ。われわれは前後に何かがあるという重荷がすべて、突然、即座に、完全に消え去る。この現在はもはや縁取りをされたものではなくなり、拡大されてあらゆる時間を満たすようになる。
124 この今の姿勢は、無境界の瞬間である。
125 対立からの解放
126 記憶が現在の体験の外に存在すると思いこんでしまうために、記憶=自己も同様に、現在の体験の外にあるように思えてしまう。そうなると現在の体験である自己が、現在の体験をするようになる。記憶が現在の瞬間の後ろにある過去の体験であるという感覚は、自己が現在の体験の後ろにある個別の実体であるという感覚とまったく同じものである。観察者が「いま」の外にあるように思えるのは、記憶を実際の過去の体験と思ってしまうためである。観察者とは記憶である。記憶が「いま」とは別に思えるとしたら、観察者も自らを「いま」とは別と感じてしまう。
127 だが、それと同じ理屈で、あらゆる記憶が現在の体験であることが理解されれば、自己が現在と離れたところに存在しているという考えの基盤は完全に崩壊してしまう。
ということで、メモはとったもののどれだけ理解しているかは、はなはだ疑問です。
でも、『ギヴァー』の扱っているテーマと関係が深いことだけはわかります。
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