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2020年6月29日月曜日

「日本兵の方が恐ろしかった」 75年前の沖縄戦

 太平洋戦争末期、激戦地となった沖縄県糸満市。住民の多くは「ガマ」と呼ばれる洞窟内に逃げ込んだが、追い込まれた日本兵が住民を追い出し、殺害することもあった。語り部を続ける大城藤六さん(89)は「米兵より日本兵の方が恐ろしかった」と振り返り、戦争の真実を伝える教育の重要性を強調する。
 1945年5月、「鉄の暴風」と呼ばれた米軍の砲撃が激しさを増す中、同市真栄平に住んでいた大城さんは親族27人や同じ集落の住民とともに大洞窟「アバタガマ」に避難していた。しかし、撤退してくる友軍を迎えるためとして、日本兵からガマを出るよう求められた。軍刀をガチャガチャと鳴らし、威圧的に迫る将校が怖かった。
 投降直前に身を潜めていた排水溝を指し示す大城藤六さん=17日、沖縄県糸満市 親族らと大きな石でできた古い墓の中に移ったが、そこに砲弾が命中。14人が即死し、大城さんも膝を負傷した。その後防空壕(ごう)に逃げたものの6月22日、目前に米軍の戦車が迫った。一族の最年長だった伯父は、持っていた手りゅう弾による自決を提案。戦時中の教育で、投降すれば殺されると皆が信じていたからだった。反対した大城さんは、男3人で防空壕を脱出し、排水溝に身を潜めた。
 大城さんは同24日、投降した。先導してくれたのは米国で暮らした経験を持つ集落の男性医師。「出てこい」と呼び掛ける米軍が決して残虐ではないことを説明し、捕虜となるよう勧めた。実際、投降後米兵は丁寧に接してくれた。一方で防空壕に残った10人ほどの親族は投降に応じず、投げ入れられた発煙弾の煙を吸い込み妹4人が亡くなった。
 沖縄県糸満市真栄平の集落を歩く大城藤六さん。米軍の砲弾から身を守るため、数十人の住民が奥の路地に隠れたが、戦後遺体となって見つかった=17日、沖縄県糸満市 日本兵の残虐さにがくぜんとすることも。自宅から3軒隣では、家主の男性が日本兵に殺された。防空壕から出るよう求められ、方言で意思疎通ができないと刀で首をはねられたと目撃者から聞いた。「やはり日本軍は住民を守らない」と思いを強くした。
 戦後は糸満市で中学校の教師に。平和の在り方をより深く考えようと、2004年からは講習を受けて戦争体験の語り部を始めた。平和祈念公園にある「平和の礎」に戦没者の氏名を刻む事業や、県史編さんのための聞き取り調査にも加わった。
 「日本は負けない神の国と教わり、皆が当たり前に信じていた。ばかげていた」と振り返る。「虐殺やガマの追い出しなどの事実を教科書に載せ、悪いことは反省しないといけない」と訴えた。
 「本土側からすれば沖縄は捨て石。よくもあんな惨めな戦争をやらかしたと思うよ」。

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 いまも沖縄の「捨て石」状態は変わっていません。米軍基地は、あって当然という対応しかできないのが日本の政治であり、そして私たちです。

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