本物と偽物の続きといえば、続きです。
内山興正著の『生命の実物』(=『座禅の意味と実際』)を読みました。
27(24) ふだんのわれわれの生活では、世間との関係(かねあい)、世間体、世間的評価としての自分においてのみ生きています。つまり自分の存在価値、存在根拠、存在確認を、他の中においてのみ見出し、自分というものはそういうものだと決めこんでいて、かえって本当に自己自らを行(ぎょう)じて生きるということを、特別のことのように思ってしまうのです。
→ 悲しいかな、そういう部分が多分にありますね。
そういえば、阿部謹也さん が行き着いた先も「世間」でした。
31(28) 心臓の鼓動は、私が動かそうと思うがゆえに動いているのでもなく、また生理学的、医学的規定によって動いているのでもなく、それゆえまさしくアタマで考え、言葉で規定する以上のところにある力です。しかし、それは事実、私自身において動いているのであるかぎり、これが私の生命の実物であることはいうまでもないでしょう...われわれは呼吸を、私のはからい以上の、何か大きな、事実働いている力にまかせきって眠るのです。
→ すごいことですよね、これは!!
ある意味では、意識していたら、生きていくのが煩わしいわけですから。
33(29) 自己の生命の実物とは「ただかくの如く生きる」そのことです。思うから自分なのではなし、思っても思わなくても自分であるようなものこそ、私のいのちなのだからです。(自分が日本人であり、仏教僧侶でもあるように。)そして坐禅とは、この生命の実物を、まさしく実行することなのです。
→ ジョナスの生き方に通じる部分を感じませんか?
別に足を組んで坐禅をすることだけが、坐禅をすることでもなさそうです。
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