五木寛之の『親鸞』上・下の続編の『親鸞』激動篇の上・下を読みました。
本人が、あとがきで「登場人物、背景など、物語作者としてかなり自由に想像力を駆使する結果となったが、あくまで小説として読んでいただければ幸いである」と、書いているように、この本は人物評伝的なノンフィクションではなく、あくまでもフィクションです。
前回の『親鸞』上・下に続き、『ギヴァー』と関連のあると思ったところを抜書きしました。
今回は、前回のようなインパクトは感じなかったので、扱いは「『ギヴァー』と関連のある本」とはしていません。壮年期に入っている親鸞が主人公だからでしょうか?
上
138 300年、500年かかって人の心に根づいたものは、一挙には変わらない。<世のならい>に妥協するわけではないが、自分の考えを一方的に押し付けただけでは世の中は動かないのである。
204 親鸞は、人に語ることは、自分の問いかけることなのだ、と、はっきりと感じた。人に語ることは、教えることではない。それは、人にたずねることなのだ。もっと話したい、と親鸞やつよく思った。
226 野焼き、ということがございますね。いったん焼いてしまう。その焼野原から、新しい芽が生まれてくる。・・・民、百姓も、役人たちも、みな思いちがいをしているのです。それを根底からくつがえして、本当の念仏の意味を語られるには、まず、壊すことが先。こわして、焼野原になった跡に、ちいさな問いが生まれてくる。それでは一体、念仏とはなんだろう、という疑問です。それが第一歩ではありませんか。
下
148~9 ストーリー(それも自分の過去をさらけ出す)と歌の力
243 自力では さとれぬものと さとりたり
他力にすがる ほかにみちなし
309~310 「もし嵐で船が難破したとする。逆巻く波の夜の海で、おぼれそうになっているときに、どこからか声がきこえた。すくいにきたぞ! お~い、どこにいるのだ~、と、その声はよんでいる。さて、そなたならどうする?」
「ここにいるぞ~、お~い、ここだ、ここだ、たすけてくれ~、と声をあげるでしょう」
「そうだ。真っ暗な海に聞こえてくるその声こそ、阿弥陀如来がわれらに呼びかける声。その声に応じて、ここにおります、阿弥陀さま!とこたえるよろこびの声が南無阿弥陀仏の念仏ではあるまいか。この末世にわれらが生きるということは、春の海をすいすいと渡るようにはいかない。私自身も、これまで何度もなく荒れ狂う海の浪間で、自分の信心を見失いそうになったことがある。そんなとき、どこからともなくきこえてくるのが、阿弥陀如来のはげましの声だ。お~い、大丈夫か~、とその声がひびく。は~い、大丈夫で~す、ありがとうございま~す、と思わずこたえる。それが他力の念仏であろう。わたしはそう考えている」
「では、わたくしども呼びかけられる阿弥陀如来のその声は、いつでも、だれにでも、きこえるものなのでしょうか」
「いや、いつでも、だれでも、というわけにはいくまい。波間にただようわれらをすくわんとしてあらわれたのが、阿弥陀如来という仏だと、一筋に固く信じられるかどうかにかかっているのだ。信じれば、その声がきこえる。信じなければ、きこえないだろう」
「では、まず。信があって、そして念仏が生まれるということでございますか」
「そう思う。いまのわたしに、わずかにわかっていることは、まことの信を得るために自分自身を見つめることの大事さだ。このわが身の愚かさ、弱さ、頼りなさ、それをとことんみつめて納得すること。それができれば、おのずと目に見えない大きな力に身をゆだねる気持ちもおきてくるのではあるまいか」
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