色がらみで、前回の続きです。
私が、なぜ『心のなかの身体』(マーク・ジョンソン著)という本を手に取ったのかは、いまとなっては覚えていないのですが、最初に読み始めたときは、チンプンカンプンですぐに図書館に返してしまいました。
でも、「わかりにくい文章を繰り返し読むことで、ひょっとしたらわかるかもしれない」事例というか、そういう文章を読んでいる時に頭の中で考えていることを口に出して考えてみる題材として使えるのではないかと思って、また借りてきました。
繰り返し読んででも、まだなかなかわかりません。私の理解力不足です。想像力不足です。(←これらこそが、まさにこの本のテーマなのですが・・・)
さて、色についてです。
195 カンディンスキーは色の一つひとつに働く力を説明している。黄色は「せっかちでうるさい」。赤色には「限りない暖かさがある」が、黄色がもつ「無責任な訴えかけ」はない。青色がもたらすのは、「無限への呼びかけ」であり、「純粋な超越の希求」である。説明はまだまだ続くのだが、われわれの目的からすれば、カンディンスキーの個別的な分析が正しいかどうか、あるいは色の効果は普遍的なのかという天は重要ではない。決定的に重要なのは、色は孤立して存在するのではなく、他の色との関係で存在するという点である。これが、力の複雑な相互作用を成り立たせているのである。
→ ジョナスがまずは見た赤色の分析を著者のローリーさんは知っていたのでしょうか?
確かに、一つだけ見ても、大きな意味はない! そして、その色をあえて消し去った社会をどう解釈すればいいのでしょうか? 相互作用を成り立たせなくしている社会?
さきほどの「わかる」「理解する」「想像する」に関連して、
英語では、当たり前というか、普通に使われることなのですが、
Understanding is seeing. (理解するとは見ることである。) 226ページ が出てきます。
I see. という言葉を英語圏の人はよく使いますが、意味するところは「私は見えます」より「私はわかりました/私は理解できます」の方が圧倒的に多いです。それぐらい、わかる=見える=理解する、なわけです。
日本語には、これに類する使い方はあるのでしょうか?
ジョナスのコミュニティーで、色を見ないという選択をしたということは、理解力を制限することにつながっていないでしょうか? それとも、意図的に理解力を低く押さえるため??
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