2012年11月15日木曜日
『ギヴァー』は、ディストピア小説?
もちろん、何をどう読むかは読み手それぞれの自由であるという大前提のもとで★、
『ギヴァー』をディストピア小説やSFと捉えて読んでいる人が結構多いことに驚きます。(単に、そう捉え方をする人たちが書評を書くタイプの人たちなのかもしれませんが。)
もちろん、そういう色眼鏡を通して見ることの面白さや得るものもあるとは思いますが、私のようにその色眼鏡がかけられない者からすると、「もったいないな~」と思うばかりです。(少なくとも、書評を読む限りは。)
著者本人がSFもディストピアも描くつもりはまったくなかったのですから。★
そもそもジャンルに分けることの意味は何なのでしょうか?
読み手にとって、それはプラスになるのでしょうか? それとも、マイナスになってしまうのでしょうか?
★ このことからも、読むものというのは、著者本人の思惑とは別次元のものであることがよくわかります。読者の自由なわけです。なのに、私たちは国語の授業では「作者の意図は?」ばかりを考えさせられます。授業ですることと、私たちが実際にすることは、ほとんど逆さまです。
話が逸れてしまいました。別に学校の授業が正しい、と言いたいのではありません。
色眼鏡を通して読むことの是非について考えたかったのです。
それは、社会を色眼鏡で見ることにつながってしまう可能性もあるからです。
もちろん、人は何らかの色眼鏡でしか読めないし、見られない部分は否定できませんが、できるだけ色眼鏡の色を薄くする努力はし続けたいものです。
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