その後も、Tさんとの観察についてのやりとりが続いています。
Tさん:
ブログを拝見いたしました。
カンファランスが観察になるんですね。
私が想像していたのと、ずいぶん違います。
カンファランスの実際を私が知らないので、
思いつきませんでした。
ということは、今の日本の学校でカンファランスを実行している
先生方は子どもたちの適性が分かったりするのでしょうか?
(それはすごいですね。私にもカンファランスして
もらって、適性を教えてほしいです。私はいまだに
自分の適性が分からず人生をうろうろしています)
でも、コミュニティの子どもたちはいろんなところで
統制されたりしているので、こちらの世界のカンファランスと
少し違ったものになるのではないでしょうか?
長老といってもやはりコントロールされているんですよね。
うーん。
私:
日本で、観察を含めたカンファランスができる教師は、
残念ながらライティング・ワークショップを実践している
ごく少数の先生だけにとどまっています。
ほとんどの先生は、一斉授業をするのに忙しく、
生徒の話を聞いたり、様子を見たりする必要性すら
感じていないのが現状です。
相手のことを知らない限りは、よく教えることなどできる
はずがないのに。
「コミュニティの人たちは統制されている/コントロール
されている」という意識が、Tさんは強いですか?
私は、ほとんど日本と同じだな~、と読んでいました。
3500人の小さなコミュニティなので、それぐらいしないと
生き延びれないという意味でも。
たくさんの中に埋もれてしまえませんから、自分のいい
ところを開花させるためには、いまの日本よりははるかに
いい仕組みになっていると思うぐらいですが、いかがでしょうか?
小さく閉じた社会の宿命みたいな部分もある気もします。
大きくないなら、かえってその方がいい????
日本の中にも、まだそういうところは結構あるのかも
しれません。
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