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2013年11月29日金曜日

老いるということ


 パブロ・カザルスの第2弾です。(出典は、『パブロ・カザルス 喜びと悲しみ』アルバート・E・カーン著。数字は、ページ数です。)

7 私はこの前の誕生日に93歳を迎えた・・・人が仕事を止めずに、周囲の世界にある美しいものを吸収しつづけるならば、年齢を重ねることが必ずしも老人になることでないことがわかるのだ。少なくとも、普通の常識的な意味で年をとることにはならない。私は多くのことに今までこれほど感激したこともないし、人生は私にとっていよいよ魅力的なものになっている。

10 仕事をしていれば人は年をとらない。そういうわけで、私も仕事を止めることなど夢にも考えることはできない。引退という言葉は今も将来も、私には縁がないし、私にはそんなことは思いも寄らぬ考えである・・・精神の続く限りは。私の仕事は私の人生である。仕事を離して人生を考えることはできない。いわば引退なるものは、私には棺桶に片足を入れることなのだ。仕事をし、倦むことのない人は決して年をとらない。仕事と価値のあることに興味をもつことが不老長寿の最高の妙薬である。日ごとに私は生まれかわる。

 年を取るにつけ、こういう言葉が身にしみます。
 果たして、カザルスの言葉をうらやましいととるか、当たり前ととるか、それともかわいそうに、ととるか?
 最初の人にとっては、定年は極めて残酷なものかもしれません。
 それとも「ハッピー・リタイアメント」でしょうか?

2013年11月27日水曜日

パブロ・カザルスの母の言葉


今だからこそ、響く言葉!

母にとって最高の掟は個人の良心だった。
母やよく言ったものだった。
「私は法律は重んじないのが主義ですよう」
また、母は法律には役に立つのもあるが、そうでないものまる、だから善い悪いは自分で判断しなければならないとも言っていた。母は特定の法律はある人たちを守るが、他の人には危害を加えることを知っていた。今日のスペインでは法律によって守られるのは少数者で、多数の庶民は法律の被害者である・・・母は常に原則に従って行動し、他人の意見に左右されることはなかった。己が正しいと確信することを行ったのである。

弟のエンリケにスペイン陸軍から召集令状が来たとき、
「エンリケ、お前は誰も殺すことはありません。誰もお前を殺してはならないのです。人は、殺したり、殺されたりするために生まれたのではありません・・・・。行きなさい。この国から離れなさい」
それで弟はスペインを逃げ出して、アルゼンチンに渡った。だが11年間、母は弟と合わなかった。・・・私は思うのだ、世界中の母親たちが息子たちに向かって、「お前は戦争で人を殺したり、人から殺されたりするために生まれたのではないのです。戦争はやめなさい」と言うなら、世界から戦争はなくなる、と。
       (『パブロ・カザルス  喜びと悲しみ』
         アルバート・E・カーン著、14ページ)

2013年11月13日水曜日

安倍さんの「道徳の教科化」

皆さんは、小・中学校時代に体験した道徳の授業を、どれくらい覚えていますか?

一昨日のトップ・ニュースの一つは、「道徳、教科に格上げ 有識者会議案」でした。

この有識者会議の中に、現場の教師は何人いると思いますか?
おそらくいないから、こういう提案になるんだと思います。

しかも、人選は安倍さんがやりたいことをやれるようにするための「お墨付き」を出すことが目的の人選になっていると思います。
なにせ、安倍さんが大好きな分野の一つですから。前政権の時は、実現できなかったので、今回はなんとか実現すべく、見えないところですでに動き出していたわけです。

これで道徳も、教科書+テスト、ということになるのでしょうか?

基本的には、私が長らく関わっていた環境、人権、平和などと同じで価値と行動を扱うテーマですから、なかなか教科になりにくいという部分はあります。が一方で各教科が価値と行動を扱わない/伴わないでいいかというと、すべて伴わないと本来は困ることでもありますから、やれないことはないというべきでしょうか? でも、教科書+テストにすることがいいことなのかどうかは、また別問題です。

でも、日本では常に教科=教科書+テストのセット化されて捉えられます。とても悲しいことですが・・・・・。要するに、政治家も、有識者も、マスコミも、そういう頭しかないというか、そういう体験しかしていないわけです。 いつまでも、戦前のままというか、明治の初期のままというか。


教えること、学ぶこと、教育の価値観が博物館的に古いままが続いています。

『ギヴァー』のコミュニティは、この辺に関しては、毎晩の感情共有や、間違いを犯した時の公式謝罪、ミスや規則違反の際の処罰等で対応しているようですが、表面的にはそれで事なきを得ているように見えても、根本のところではジョナスのように満足を得られていない人が少なくないことが伺われます。

安倍さんの努力、これとまったく同じことをやっているようにしか見えません。

2013年11月7日木曜日

映画化最新情報・配役決定


来年8月15日封切りを目指して、すでに南アフリカのケープタウンでロケがはじまっています。

配役も決定です。
当然のことながら、若い俳優が中心ですが、オスカー俳優が2人も登場します。
ギヴァー役のジェフ・ブリッジズと、最長老役でメリル・ストリープです。

で見られます。



2013年11月5日火曜日

『ギヴァー』と真逆な世界

 前は『チェロの木』で紹介しましたが、絵本『ルリユールおじさん』で有名な(そして、ゴッホと宮澤賢治をライフワークにしている)いせひでこ作の『大きな木のような人』を読みなおしました。2度目です。1度目には気づかなかったことに気づきました。
 『ギヴァー』とは、真逆な世界を描いているのでは、と。

表紙の裏には、「その木は、なにも語らない。
       でも、たくさんの物語を知っている」

7ページには、「人はみな心の中に、一本の木をもっている」

49ページには、「大きな木よ。じっと記憶する木よ。
        おまえは見てきたものに、わたしは耳をすます。
        おまえから生まれたことばが、わたしの物語になる」

などと書かれています。

木と人間の大切なつながりが書かれた絵本です。(『チェロの木』も、そして『ルリユールおじさん』もそうでしたが。)

それに対して、『ギヴァー』の世界には木はあります(戦争ごっこのシーンを思い出してください)が、木の色はありません。季節もありません。気を育てるということもありません。世界の中の木を集めるという発想もありません。

『大きな木のような人』の主人公は、日本人の女の子の<さえら>です。(舞台は、パリ?)
フランス語で、<あちこち>という意味らしいです。

そういえば、『ギヴァー』のテーマのひとつが、elsewhere(いずこ)でした。
ここだけは、共通するかも?


2013年11月1日金曜日

『ギヴァー』と関連のある本 99


協力者の矢内一恵さんが、『ギヴァー』に関連のある本を教えてくれ、かつ紹介文まで書いてくれました。(以下に、そのまま掲載します。)

Baby”(Patricia MacLachlan著、邦訳『潮風のおくりもの』)という作品があります。The Giver”と対極をなす本ではないかと感じています。しかし、リンクするところが非常に多いとも感じています。この2冊の本は、プロットはまったく違いますが、どちらの物語にも登場するいくつかのキーワードでお互いに引かれあっているように思います。これらのキーワードが、物語の進行を加速させる上で、重要な役割を担っています。

Baby”はそれだけを読めば、最愛の人を失ったときに感じる悲しみ、虚脱感、そしてその悲しみや孤独とどのように向き合い、乗り越えていくのか、というのが大きなテーマになっています。語られる情景は季節の移り変わりの中のゆったりとした、何気ない日常生活ですが、細やかで、やさしい眼差しに溢れ、まるで手で織物を編んでいくような暖かさがあります。
一方、The Giver”は無機質な光景の中に画一化され管理された日常生活が、感情の起伏を許されることなく描写されていき、読み進めるうちにその違和感は読者にある種の恐怖感と寒々しさを与えていきます。

このように、設定上は対角線上の両極端にありながら、磁石のようにお互いを引きつける働きとなるものが、memory<記憶>でしょう。そのmemoryを軸に、emotions<感情>, words<言葉>,という概念が絡み合い、2つの物語をさらに強く共鳴させているように感じます。
The Giver”の登場人物たちは<記憶>を持たないゆえに、喜怒哀楽を感じることはなく、死を死とも受け取れない、いや受け取る必要のない世界で暮らしています。Baby”の中に登場するbabyは名前をつけられることもなく1日で亡くなってしまいますが、その死の<記憶>は家族に大きな苦しみ、孤独、怒りという感情を残し、それは日を追うごとに大きくなっていきます。

ここで考えさせられるのが、人にとって、人類にとって<記憶>を持つことの意味は何か。The Giver”ではThe Giverその人がwisdom<知恵>だという答えを提示し、<記憶を受け取る人>の必要性を述べていますが、心揺さぶられる苦しみ、痛み、悲しみ、哀しみ、怒り、楽しみ、悦び、などあらゆる感情を体験することなしに、果たして<知恵>が適切に<知恵>として働くことはできるのだろうか、と私は疑問に感じます。
Babyの登場人物が担う<記憶>は、<喜怒哀楽の感情の体験>を通して、「人生を前進させる」という形で生かされ、最後の場面でその効果を発揮していると思います。
<記憶>は「人生」に彩りを与える重要な要素なのです。それが、人類の歴史としてなのか、一人の人生としてなのかは関係なく、常に<感情>とセットでなければならないのだろうと、考えさせてくれます。

この2つの作品のもう一つの共通のキーワードとしてwords<言葉>について少し。言葉には力、あるいは意味が存在するのか。The Giver”の登場人物たちは、言葉の正確な使用法にこだわっていますが、そこに本当の「意味」を見出しているとは思えません。むしろ、衝動の根源となるものを圧殺するための使用法のようにみえます。
Baby”には「Dirge without Music(音楽のない葬送曲)」という詩が作品内に登場します。この詩の登場で、主人公の少女、およびその家族たちが心のうちに閉じ込めていた衝動を一気に開放させていきます。

主に、memory, emotions, wordsを極めて簡単に対比させて考えてみましたが、ほかにも、あらゆる場面において対比させて読むことができ、非常に考えさせられる要素が満載です。現代の私たちに、「人が人であるために…」という課題を、やさしいくあたたかい眼差しで投げかけるbaby、チクリと冷徹な思考で投げかけるThe Giver
<記憶>は<喜怒哀楽の感情の体験>がなければ生まれることはできず、<感情>というスパイスが効かなければ、<知恵>には到達できない。その<知恵>を人類の「叡智」とできるかは、まさしく現代の私たちが下す選択にかかってくるのだろうと思います。感情を経験することがなくとも得られる「知識」との違いが浮き彫りにされる瞬間だろうとも思います。

2作品の個々の世界観を味わい、またリンクする部分で読者の想像的思索を深めるのに、ぜひとも同時に読んで楽しんでもらいたいです。どちらも小学高学年用に書かれた作品ですので、できることなら原書で、そして若い人たちに読んでほしいと、心から願います。