前回、二世代ぐらい前までの子育ては「大家族で、おばあちゃん、おじいちゃん、おねえちゃん、おにいちゃんが、お母さん以外にも存在していた」中で行われたということを書きました。
そういえば、この同じ状況はおじいちゃん・おばあちゃんの介護にも当てはまっていたのでした。
しかし、その大家族というかコミュニティが崩壊したことで、最初(?)に切り捨てられたのが、年齢的には両端だったというか、弱い立場にあるものだった、ということだと思います。
『ギヴァー』の作者のローリーさんは、記憶がなくてもいい社会と同時に、誰にもやさしい社会を過去に戻るのではなく、未来に作り出さなければならなかったので、ああいう設定しか選択肢がなかった(思いつかなかった?)のかな、と思うのです。
私たちも、それがいやで壊したものに、今問題が多いからと、単純に戻るわけにはいきません。子育ても介護も二昔前ぐらいまでは、「施設」でするものではなかったのです。それが、家族や地域の崩壊によって、「施設」でするものに転換しました。しかし、その問題点に、ローリーさんは20年前に気づいてしまったようです。
ちなみに、この両端の間にある問題の一つが、部活の体罰だと思うのですが、国民的英雄の王さんの言葉を返すようで申し訳ないのですが、単に「古き良き日本が失われた」と嘆いても、どうしようもありません。単純に、今となっては戻れるわけもないのですから。また、それがベストの方法だったわけでもないですし。
このように、生まれてから死ぬまでに遭遇するさまざまな仕組みが変わってしまったのに、私たちがそれにうまく対応しきれていない問題があまりにもたくさんあります。(要するに、世の社会・経済・政治問題すべて、です。)それらに、「古き良き」に戻るのではない第三の方法を編み出していく必要が求められているんだと思います。それは、過去数十年抱え続けた問題ですが、新年を含めた未来も抱え続ける問題です。
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