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2014年4月28日月曜日

『無境界』 その1



『グレース&グリット』の著者のケン・ウィルバーの本です。

アイデンティティのことや、境界線のことなど、『ギヴァー』のストーリーにもろに関係することですし、いまの日本およびそこの住人である私たちにも深く関係するテーマを扱っていると思ったので、読んでみました。(例によって、数字はページ数です。)

15 「私は誰か? 真の自己とは何か? 私の根源的アイデンティティは何か?」という質問に答えるときに決まって起こるプロセスを見てみよう。
   自分のアイデンティティはすべて、その境界(自分の体験の全領域を横切る線や境界を引いている。その境界の内側にあるものはすべて「自分」を感じ、外側にあるものは全部、「非自己」と感じる)をどこに設けるかにかかっている。
16 つまり、「自分自身」ということばを吐くときには、自分であるものと自分でないものとのあいだに境界線を引いている。
   アイデンティティの危機は、その線をどうやってどこに引くかを決められないときに起こる。要するに、「あなたは誰か?」とは、「あなたはどこに境界を設けますか?」という意味である。
17 境界線は、しばしば移行する。引きなおすことができる。~ 逆に言えば、極めてあいまいなもの!! 至高のアイデンティティの体験では、自分のアイデンティティの境界が全宇宙まで拡大する。もはや境界線は存在しない状態。

第2章 1半
34 人生はすべて対立からなっている
   大切なものはすべて一対の対立の一半なのだろうか? 決定や欲求は対立に基づいているのか?
   空間の方向はすべて対立: 上下、内外、高低、長短、南北、大小、ここ対そこ、頂対底、左右
   肝心なことはすべて対立: 善悪、生死、苦楽、神対悪魔、自由対束縛。
35 社会的、美的価値観も対立: 成敗、美醜、強弱、賢愚。
   もっと抽象的なものも: 論理学は真実対虚偽を、認識論は外観対リアリティを、存在論は存在対非存在を扱うものである。

   自然の中に対立はない。確かに、大きな木と小さい木、強い熊と強くない熊はあるかもしれないが、木や熊はそんなことは気にしていない。

36 また自然界にも生死がある。だが、これもまた、人間界のような恐れを担ってはいない。年老いた猫は来るべき死の恐怖にさいなまれているわけではない。静かに森に入り、木の根元にうずくまり、死んでいく。瀕死の駒鳥は柳の木にやすらかにとまり、日没を見つめる。そして、もはや光が見えなくなったとき、最後に目を閉じてしずかに地面に落ちる。人間の死の直面の仕方となんと違うことか。

37 自然が人間の頭脳をも生み出したのだ。

39 われわれの生活はおもに境界を設けることに費やされている。われわれが下すあらゆる決断、行動、ことばが意識的、無意識的な境界の構築に基づいている。
   アイデンティティのことを言っているのではなく、決断を下すというのは、何を選び何を選ばないかの境界線を引くことである。
   われわれの生活がさまざまな境界を設けるプロセルであることは明らかである。
   境界は、単に内側と外側を区切るものに過ぎない。

40 境界線が対立をつくり出す。
   われわれが対立の世界に住んでいる理由は、生活が境界を設けるプロセスだから。

44 不安・不満の時代

47 対立の内なる統一は、東西の神秘主義者に限られた考えではなく、現代物理学者たちも唱えている。
   20世紀最大の哲者の一人のアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドは、すべての「究極的要素は本質的に振動である」ことを示唆する「有機体」と「振動的存在」の哲学を打ち出したのである。
48 つまり、われわれが分けることが不可能だと考えている原因と結果、過去と未来、主体と客体のようなあらゆる物事は、波の峰と谷のような単一の振動なのだ。 ~ すべては波

2014年4月20日日曜日

情報も、食糧と同じ、切実な問題


非公開の空港図、グーグルが流出 安易な情報提供に潜む危険
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140412-00000099-san-soci
メールで陳謝するグーグル
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140419-00050052-yom-sci

そういう私も、こういうニュース・ソースに注意すべきでしょうか





食糧と情報以外に危ないものは?




ほとんど同じレベルで、教育、環境、福祉、財政(経済)、政治が
思い浮かびます。最後の政治などは、危ないどころか、すでに機能
しているとは言えないのでは?

もちろん、なげくだけでは何の足しにもなりません。

自分にできると思うことをやるしか。

2014年4月19日土曜日

食べ物の危機

『ギヴァー』の世界で、食糧生産をどうしているのかは描かれていません。
つくられたものが、各家庭に宅配されているところは描かれていましたが。
気象までコントロールしている世界ですから、食糧生産も、それを使っての食事も、すべて管理されていることは想像できます。

私たちの世界では、近年増加している
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140419-00000023-jij-n_ame
http://www.jiji.com/jc/d4?p=tri413&d=d4_gg
http://koide-goro.com/?p=2068
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1310977588
など、人間が食べるものの危機には事欠きません。
もちろん、食べ物の放射能汚染問題もあります。

安全なものを食するために、私たちにできることは・・・・

2014年4月12日土曜日

映画の『ギヴァー』の最新情報

『ギヴァー』の映画のトレーラーが公開されています、
と『ギヴァー』 の本の担当者の人が教えてくれました。
https://www.youtube.com/watch?v=oYZxZups06w

「トレーラー 」という言葉を知らなかったので、
調べてみたら「予告編」のことでした。

それを使った新評論のブログもぜひご覧ください。

2014年4月8日火曜日

『ギヴァー』と関連のある本 103



死との関連で『グレース&グリット』ケン・ウィルバー著を読みました。
graceは、恩寵、神の愛(寛大さ、優しさ、柔軟性、上品さ、美しさ)という意味。gritは、勇気、根性、気概。それぞれ、全部含まれている気がしました。トレヤは、ガンで亡くなった著者のケン・ウィルバーの奥さんの名前です。

上巻
70~1 illness sicknessの違い
  疾患には、特別な意味はない。山が善でも悪でもないように、ただ存在するだけ。
  病は、患者が自分の社会や文化の、その疾患との関わり方と直面する部分のこと。それは、特定の社会が疾患の各々に結びつける判断、恐れ、希望、神話、物語、価値、意味といったすべてのものと直面する。

80~82 病気の、11の異なる捉え方: キリスト教原理主義、西洋医学、カルマ理論、心理学、グノーシス派、実存主義、ホリスティック医学、魔術、仏教、現代科学

98 行動(何をするか)vs. 存在(どう在るか)  前者は男。後者は女。
 行動は、生産、つくり出す、達成、攻撃的、競争的、権力階層、未来志向、規則・判断。現状を「より善いもの」に変える試みを重視。
 存在は、現状を喜んで受け入れることにあり、何をなしうるかによってではなく、あるがままを受け入れることにある。関係性、包含性、受容、共感、愛。

167 瞑想リトリート(10日間) ~ 日に10時間の呼吸
    見守る感覚
168 エネルギーを感じられるようになる

下巻
4 トレヤの変化=再生
10 西洋医学は種が尽きた
62 3年目からの治療法

128 要求の多い患者 > (医者にとってはありがたい)よい大人しい患者
129 楽しめる患者  > (医者にとってはありがたい)よい大人しい患者  ~ 要するには、後者であり続けることは、本人にとってはもちろん、医者にとっても、医学界にとっても、社会にとってもよくないということ

156~7 「私とは誰か?」 昔は自己と他者との間に区別をつけていた。そのことが、本当の自分自身に親切にすることをさまたげていた。この区別の中に閉じ込められていると、もし他人に親切にすると、自分が損をしたように感じるし、逆に自分に親切だと、自分がけちでさもしい人間に思えてしまう。でも、もう、そんな思いを手放して、人に与えることが楽にできるようになった。なぜならそれは、自分と他人を同時に楽しませることだからだ。

175 トレヤは現在を生きることによって、未来をあてにして生きるのを拒むことによって、まさに死を自覚して生きるようになったのだ。死とは、未来をもたない状態だ。

 エマソンの一節:
   私の窓の下に咲く薔薇は、昔の薔薇やもっときれいな薔薇とは関係がない。それらはただ、そこにあるがままの薔薇であり、今日という日を、神とともに過ごしている薔薇だ。彼らにとっては時間など存在しない。ただここに薔薇があるだけ、そしてその薔薇は、一瞬一瞬が完璧な存在なのだ。だが人は、先送りにしたり、思い出したりする。げんざいに生きることなく、自分を取りまく豊かなものを無視して、回顧のまなざしで過去を嘆き、爪先立ちで未来を予測しようと試みる。人間も時間も超えた現在の中で自然と共に生きないかぎり、幸せにも強くもなれない。

220 情熱的な無執着

325~6 ゲーテの作品の一節: 「熟したものは、みな死を願う」
  トレヤの人生を要約する言葉 ~ 「恩寵と勇気。あること」と「すること」。平静さと情熱。明け渡しと意志。完全な受容と猛烈な決意。こうした魂の2つの側面、彼女が全人生をかけて闘い取り、そしてついにひとつの調和した全体性に統合することができた、この2つの側面 ~ これが、彼女が後に遺そうとした最後のメッセージだった。

2014年4月4日金曜日

物(人)の価値は何で決まるの?

昨日の「絵」続きです。
以下のような記事がありました。


イタリアの捜査当局は2日、1970年にロンドンで盗まれたポール・ゴーギャンの静物画を伊南部シチリア島で発見したと発表した。所有していたのは元工場労働者の男性。同時に盗まれたピエール・ボナールの作品とともに、75年に競売で計4万5千リラ(約3千円)で購入し、自宅の台所に長年飾っていたという。  
ロイター通信によると、当局はゴーギャンの作品だけで少なくとも1千万ユーロ(約14億円)の価値があるとみている。  
ゴーギャンとボナールはともに19世紀にフランスで生まれた。2作品は盗難直後に伊北部トリノの列車内で発見されていた。遺失物係に届けられ、価値に気づかれぬまま保管された後、競売にかけられたという。  
男性は当時、トリノで自動車大手フィアットの工場に勤務。自宅のテーブルに合うと考え、絵を買った。引退後、シチリアに転居していた。男性の息子が絵画の目録で似た作品を見つけ、鑑定を依頼していた。(石田博士)


同じ絵でも、ゴーギャンという名前があるないかで、価値が片や約3千円、片や約14億円。
いったい、何じゃそりゃ!!! としか言いようがありません。

名無しなら、本当の価値のわかる人はいない?
それとも、名前のある時の値段がそもそもおかしい?

これなんか、プロのスポーツ選手で起こっていることと同じですね?


少なくとも、画一化の『ギヴァー』のコミュニティにはないことです。

2014年4月3日木曜日

『ギヴァー』と関連のある絵


『レンブラント 影のドラマ』利倉隆(構成・文)の中で、紹介+解説されていた絵です。(実物の「石橋のある風景」は、こんなに明るくなく、もっと暗いはずです。)


 利倉さんは、この絵に以下のような文章をつけています。

「自然の力を暗示しながらオランダの田園の風景を写し取った絵と読むこともできますが、別のドラマが暗示されているという見方もあります。
それは・・・・川の水は流れゆく人生のシンボル。
そこにかかる橋はキリストを意味し、
左手から橋に向かってとぼとぼと歩む小さな小さな人影は
その安全な橋を渡って、右手はるかに見える教会の塔へ、
つまり人生の善き旅人はやがて天国にたどりつくというものです。
これがただひとつの絵の読み方とは言い切れませんが、
写生ではなく、画家の想像によって再現された風景画なのでしょう。」

を読んで、『ギヴァー』に首っ丈の私は、ジョナスの旅を思い出してしまったのです。

そもそも、よくよく見ないと橋の左側を歩いている人影には気づきません。
その「ジョナス」が、コミュニティからの逃避行の末に(雪のスロープを下り降りるところが橋??)たどり着く平和な世界を暗示しているかのような・・・しかし、その後ろはまた暗いのですが・・・

また、利倉さんは指摘してくれていませんが、人影は一人だけでなく、川の前景にも船に乗った2人が描かれています。歩いている人よりも、はるかに大きく見えます。この2人は何を象徴しているのか?

さらには、橋の下にも船が浮いています。ということは、必ず人がいるわけで・・・

ちなみに、このシリーズ(イメージの森のなかへ)は、おすすめです。
私自身、他には『フェルメールの秘密』しか読んでいませんが、ルソーの夢、レオナルドの謎、ゴッホの魂、ブリューゲルの宴、モネ 水の妖精、ミネランジェロの創造、スーラ 光の詩人などがあります。


2014年4月1日火曜日

『ギヴァー』と関連のある本 102



100万回生きたねこ』です。かいた人は、佐野洋子。
この絵本、娘がたしか2~3歳ぐらいの時に好きで、何回も読まされ、そのうちに私が好きになってしまい、子どもが生まれた家族に、この絵本をやたらとプレゼントしていた時期が2年ぐらい続きました。

でも、いま読んでみると、これってオメデタイ本でしょうか?

物語は、100万回生きて、100万回死んだねこのお話。
100万人の飼い主たちは、ねこが死んだ時に泣きましたが、ねこは1回も泣きませんでした。
ちなみに、ねこは飼い主たちも、飼い主が関係することも、すべて嫌いでした。
そして、ある時、飼い主のいない野良猫になりました。そして、自分が何よりも好きなねこに。
しかし、自分を無視する白いうつくしいねこに会って、そのねこを好きになり、家族をつくりました。
そして、その白ねこが死んだ時に、はじめて泣きました。100万回も。(今までの分、すべてを?)
ねこは、白いねこの隣で、静かに動かなくなりました。
ねこは もう、けっして生きかえりませんでした。

これは、愛の本? それとも、死の本? 両方?

子どもが好きな理由と、大人が好きな理由と、高齢者が好きな理由とは違うでしょうか?
それとも同じでしょうか?

『ギヴァー』の世界には、愛はありません。泣くということもないのだと思います。
しかし、死は確実にあります。