アイデンティティのことや、境界線のことなど、『ギヴァー』のストーリーにもろに関係することですし、いまの日本およびそこの住人である私たちにも深く関係するテーマを扱っていると思ったので、読んでみました。(例によって、数字はページ数です。)
15 「私は誰か? 真の自己とは何か? 私の根源的アイデンティティは何か?」という質問に答えるときに決まって起こるプロセスを見てみよう。
自分のアイデンティティはすべて、その境界(自分の体験の全領域を横切る線や境界を引いている。その境界の内側にあるものはすべて「自分」を感じ、外側にあるものは全部、「非自己」と感じる)をどこに設けるかにかかっている。
16 つまり、「自分自身」ということばを吐くときには、自分であるものと自分でないものとのあいだに境界線を引いている。
アイデンティティの危機は、その線をどうやってどこに引くかを決められないときに起こる。要するに、「あなたは誰か?」とは、「あなたはどこに境界を設けますか?」という意味である。
17 境界線は、しばしば移行する。引きなおすことができる。~ 逆に言えば、極めてあいまいなもの!! 至高のアイデンティティの体験では、自分のアイデンティティの境界が全宇宙まで拡大する。もはや境界線は存在しない状態。
第2章 1半
34 人生はすべて対立からなっている
大切なものはすべて一対の対立の一半なのだろうか? 決定や欲求は対立に基づいているのか?
空間の方向はすべて対立: 上下、内外、高低、長短、南北、大小、ここ対そこ、頂対底、左右
肝心なことはすべて対立: 善悪、生死、苦楽、神対悪魔、自由対束縛。
35 社会的、美的価値観も対立: 成敗、美醜、強弱、賢愚。
もっと抽象的なものも: 論理学は真実対虚偽を、認識論は外観対リアリティを、存在論は存在対非存在を扱うものである。
自然の中に対立はない。確かに、大きな木と小さい木、強い熊と強くない熊はあるかもしれないが、木や熊はそんなことは気にしていない。
36 また自然界にも生死がある。だが、これもまた、人間界のような恐れを担ってはいない。年老いた猫は来るべき死の恐怖にさいなまれているわけではない。静かに森に入り、木の根元にうずくまり、死んでいく。瀕死の駒鳥は柳の木にやすらかにとまり、日没を見つめる。そして、もはや光が見えなくなったとき、最後に目を閉じてしずかに地面に落ちる。人間の死の直面の仕方となんと違うことか。
37 自然が人間の頭脳をも生み出したのだ。
39 われわれの生活はおもに境界を設けることに費やされている。われわれが下すあらゆる決断、行動、ことばが意識的、無意識的な境界の構築に基づいている。
アイデンティティのことを言っているのではなく、決断を下すというのは、何を選び何を選ばないかの境界線を引くことである。
われわれの生活がさまざまな境界を設けるプロセルであることは明らかである。
境界は、単に内側と外側を区切るものに過ぎない。
40 境界線が対立をつくり出す。
われわれが対立の世界に住んでいる理由は、生活が境界を設けるプロセスだから。
44 不安・不満の時代
47 対立の内なる統一は、東西の神秘主義者に限られた考えではなく、現代物理学者たちも唱えている。
20世紀最大の哲者の一人のアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドは、すべての「究極的要素は本質的に振動である」ことを示唆する「有機体」と「振動的存在」の哲学を打ち出したのである。
48 つまり、われわれが分けることが不可能だと考えている原因と結果、過去と未来、主体と客体のようなあらゆる物事は、波の峰と谷のような単一の振動なのだ。 ~ すべては波
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