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2013年5月30日木曜日

戦闘機のうるさい騒音



 数日前には、東電の電気量値上げのおかしさ(昨年の9月1日から、平均8.46%のはずが、実質は20%以上という状況)について紹介しましたが、今日は、ここ数日とてもうるさい戦闘機の話しです。それも、一日に2~3回ではなく、7~8回です。(私が住んでいるのは、東京都府中市です。)
皆さんの住む頭の上は、大丈夫ですか?

 幸いなことに、通常は、ほとんどこの音を聞かなくていい地域に入っているようなのですが、どういうわけかある特定の時期に限って、頻繁にあの極めてうるさい戦闘機の音が聞こえてきます。旅客機は、これと比べると比較にならないほどの小さい音です。まだ、ヘリコプターの方がうるさいぐらいでしょう。(こういう音を、毎日のように米軍基地や航空自衛隊を抱えている地域の皆さんは聞いているんだろうな~、とも思わせてくれます。)
あまりのうるささに、市役所の担当者に電話をした時は、上空はるか上の騒音は自分たちの管轄外の話しになってしまうらしく、お手上げ状態のようです。
要するには、米軍は、そういう日本国民のことなどこれっぽっちも考えずに、平気で飛び回っているというのが日本の現実ということになります。(それとも、まさか自衛隊?)

 そういえば、『ギヴァー』のオープニングの部分が、まさに今日書いたことと同じようなシーンで始まっていました。

2013年5月28日火曜日

東電の実質的な値上げ率



 値上げ後の料金と、その前3年間の平均とを比較してみました。結果は、

 12月末  7.56%
  1月末 20.13%
  2月末 39.60%
  3月末 26.39%

 驚くべき上げ幅になっています!!!

 過去4年間の使用量の増減は気候の変動ぐらいで、震災=東電の原発事故以降は使用量をかなり抑えていますが、この結果でした。(実際、去年の数字は、2年前や3年前よりもかなり少なくなっていました。)
にも、かかわらずこの数字!!
 東電が言っている値上げ率と大分違います。
 いったい、原因は何?

2013年5月25日土曜日

アベノミクスならぬ「アホノミクス」



 日本のいまの好景気に、イカサマ臭さを感じていましたが、一応の専門家もアベノミクスならぬ「アホノミクス」と称して、その危うさをこきおろしています
 その危うさの中には、なんと政治家や官僚たちの見得の張り合いも含まれている、というのですから、いつまでたったらマシになってくれるのか、とガックリです。
 民主党時代は日本としての国家の借金が大きくクローズアップされていましたが、今回は最大の赤字予算を組んでもニュースにすらなりません。これも、「アホノミクス」の一環?

 貨幣経済自体が存在しているとは思えない「ギヴァー」のコミュニティでは、こういった投機まがいのことは起こりえるはずがありません。

2013年5月24日金曜日

セクハラ



 これって、どこか橋下さんの「慰安婦」発言に通じる部分が・・・★
 しかも、記事に書いてあるように、日本柔道は、数ヶ月前に15人の女子選手たちがコーチ陣を告発したばかりでした。
 これは、柔道に限らず、日本の多くの組織や村(原発村も含めて)に巣食っている悪い病気の一つのような気がします。この場合の「これ」は、「強い/上の立場いる者のやりたい放題」と「弱い/下の立場にいる者の泣き寝入り」の状態のことを指しています。
 こちらのニュースとも関連します。
 悲しいかな、こういうのが後を絶たない体質を私たちの社会はもっているということです。

 こういう問題というか病気というか体質は、「ギヴァー」のコミュニティにもあると思いますか?

 柔道の1992年バルセロナ五輪銀メダリストの溝口紀子氏(41)は23日、都内で開かれたシンポジウムで、全日本柔道連盟(全柔連)の現職理事が柔道関係者の女性にわいせつ行為をした疑いがある、との事例を報告した。
この女性は全柔連のセクハラ防止対策の作業部会に、「泣き寝入りしたくない。本人に(事の重大さを)自覚してほしい」と訴え、理事の名前を明らかにした上で厳しい対応を求めた。この理事は同日夜、読売新聞の取材に対し「分かりません。2年前のことは覚えていません」と話した。
 溝口氏と、元選手のこの女性から相談を受けた境田正樹弁護士らによると、30歳代の元選手は2011年12月、大会の打ち上げ後、都内の地下鉄駅エレベーター内で70歳代の男性理事と2人きりになった際、無理やり体を触られるなどしたという。元選手はトイレに逃げ込み、携帯電話で友人に助けを求めたところ、トイレ前で理事が「出てこい」と叫んでおり、友人と2人で近くの交番に駆け込んだ。被害届は出さなかったという。
 被害にあった後、全柔連の別の理事に訴えたが取り上げてもらえず、溝口氏らに相談してきたという。全柔連がセクハラ防止対策を行う作業部会を作ったことを知り、約1年5か月後に告発へ踏み切った。同部会は週明けに開かれる。静岡文化芸術大学准教授を務める溝口氏は「(暴力問題を告発した15人の女子選手に次ぐ)16人目の告発というか、爆弾発言になるかもしれない」と切り出し、終了後は「全柔連の一部の理事は知っていたはず。自浄能力がないのは自明」と語った。(2013年5月24日08時47分  読売新聞)


★ 橋下さんは、いろいろなことを悪くしようと思って発言したわけではありません。彼の倫理観から物事(誤解)を正そうと思っての発言だったとは思いますが・・・、本人も思わぬ結果(維新の会の支持率低下や想像もしていなかったロシアの反応まで。それも領土問題まで出してきてしまったのです!!)を招いてしまい、さぞビックリしていることと思います。これで、軽薄な発言の自粛につながるでしょうか? それは、無理でしょう。石原さんにしても、他の多くの政治家にしても、すでに自分で自分に課した役割の一部になってしまっていますから。

2013年5月20日月曜日

大阪市が「学校案内」に学テ成績も掲載


 慰安婦問題でマスコミを賑わせた橋下さんは、以前から学力テスト大好き人間です。
 それが、今回はここまで徹底されるというのです。
 これは、プラス面はほとんどなく、マイナス面満載で、教育という名のもとにしてはいけないことの典型例です。安倍さん大好きのこころの問題なども、同じ範疇に入ります。★
 くれぐれも、他では真似をしないことをオススメします。
 誰にとっても、よくありませんから。
 とくに、当事者の子どもたちと教師には。

大阪市教委は、来年4月から半数の区の市立小中学校で学校選択制が導入されるのに備え、全国学力テストの学校別成績や、高校への合格実績などを記した保護者向け「学校案内」を発行する方針を決めた。

学校の成績を開示するかどうかは各校の校長の判断となるが、市教委は「学校選びの材料にしてもらうため」として、各校に積極的な開示を求める。学校現場からは、学校の序列化を懸念する声があがっている。

学校選択制は、学校間の競争によって学力向上を目指す橋下徹市長の強い意向で導入される。来春市内24区のうち12区で始まり、残りの区も2015年度実施に向けて検討が進む。

来 春始まる12区について、区ごとに小中学校の案内をまとめた冊子を作り、9月に各区内の保護者に配布する予定。各校の教育目標や部活動の状況などに加え、 各校長の判断で、12年度の全国学力テストの学校別平均正答率を盛り込む。校長は、保護者や地域の代表者らでつくる学校協議会の意見を踏まえて判断すると いう。中学校については、卒業生が進学した高校名なども紹介する方針。 2013年5月20日10時10分  読売新聞)

 世の中の動き(もちろん、日本以外の話しですが)は、学力テストを軽視する方向で動いています。それが人の能力で測れるのは、20分の1、せいぜい多くて10分の1ぐらいでしかありませんから、ことのほか強調するものではないわけです。
 競争することがいまの世の中で求められていることでもありません。協調する、コミュニ ケーションが取れる方がはるかに大切です。たとえば、経済産業省が出している「社会人基礎力」を見てください(これは、産業界が雇用する人間に求めるもの ですが、かなりの部分は「社会人」一般に求められるもの、と解釈できます)。いったい、これらのどれだけがテストでいい点を取ろうとする努力で得られるで しょうか?
 これらが身につくような場としての学校が求められているのであって、テストの点数を上げることが求められているのではありません。(それに焦点を当てることによって、人格をゆがめさせたり、身につけるべき能力を無視したりと、マイナス面のほうがはるかの多いのが現状です。)


★ 先日、提案された「6・3・3制」を弾力的に運用 ~ 「4・4・4制」「5・4・ 3制」も可能に ~ も、この範疇に含まれます。要するに、問題はこういうところにあるんじゃないんですね。制度をいじっても変わりません。混乱するだけ。
 求められているのは、(1)教師や子どもたちを信用し、任せることであり、(2)資質向上を図ったり、コミュニケーションが取れるように最大限のサポートをしたり、阻害要因を撤廃することです。

 こうした諸々のおかしなことは、スケールが大きすぎるから起きることのような気がします。学校の数が、そもそも一つだったりしたら、起こるはずもないことですから。でも、日本は大きいと言い切らずに、スケールを落として考え、かつ行動していきましょう。そうしない限りは、おかしなことをやり続けることが、これまでの経験からわかりきったことなので。過ちを犯し続けるのは、アホです。



iPadで高校教科書表示する


 今日は、ニュース・ラッシュです。
 電子版教科書です。 

 しかし、この一歩先にあるのは、教科書がいままでの役割を終える、ということです。
このネット時代に、唯一絶対の正解を記したものなど、あり得ないのですから。
すでに、教科書が学びを促進する効果よりも、学びを妨げている要素は、すでに数倍(数十倍?)あります。
また、その魅力のなさといったら、たとえようがありません。

 岐阜市の情報処理サービス会社「電算システム」が、教科書出版大手「東京書籍」(東京都)と共同で、米アップルのタブレット型多機能端末「iPad(アイパッド)」に高校の教科書を表示するアプリ(ソフト)を開発した。
 文部科学省の検定を経た高校教科書の電子化は初めてで、教科書の内容を表示するだけでなく、動画やアニメーションを使って学ぶことができる。
 電算システムが開発したアプリは、社会、数学、理科など5教科の9科目。タッチパネルで表示を縮小・拡大できるほか、画面を指でなぞってアンダーラインを引いたり、メモを書き込んだりできる。
 このほか、世界史の教科書では、第1次世界大戦のきっかけとなった「サラエボ事件」(1914年)の映像などが見られ、理科では、細胞分裂の様子をアニメーションで学べる。数学は、一つのアプリに最大で教科書2冊分、問題集4冊分が収められているという。
 アプリ開発は、岐阜県の「GIFU・スマートフォンプロジェクト」の一環で、両社が同県大垣市のソフトピアジャパン内に設けられた交流拠点で出会ったのがきっかけ。2年前から開発し、今年3月から1本4300円で販売。これまでに約500本がダウンロードされたという。
 県では、来年度にiPad導入を予定している県立岐阜各務野高校の情報科など、県内の高校で活用していくことにしている。 (2013年5月20日15時00分  読売新聞)

橋下発言以上(!)に深刻な安倍発言


 ここしばらくマスコミが報道しっぱなしの橋下発言と同じレベルか、それ以上に危険なのが、安倍さんの「侵略の定義は定まっていない」発言でした。同じ趣旨のことは、石原さんも日ごろから言っています。要するに、いま日本はこういう発想しかできない人たちが牛耳る方向に舵を切ろうとしているのです。もちろん、それを可能にしているのは有権者なわけですが。 

 何に突き進んでいるのかを、考えた上での投票行動であってほしいです。
 もちろん、まともな選択肢を提供されていないという大きな問題は、私が選挙権を得てからすでに40年間つづいたままですが・・・・

2013年5月19日日曜日

原子力村の再稼動



 つい先日、震災・原発事故関連の映画を紹介しましたが、まだ、東電の福島原発の処理の見通しが立たない中、すでにほとぼりは覚めたと判断して、日本の政官産学の原子力村は再稼動しています。経済の論理だけから考えると、こういうことになるのだろうと思います。被災地や被害者たち(それが、いまだにどこまでを指すのかすら、はっきりしないのに)への配慮など、あろうはずがありません。

「民間提言」に経産省が関与 原発の再稼働や輸出求める

 【松浦新】電力会社や原発メーカーのトップらでつくる「エネルギー・原子力政策懇談会」(会長・有馬朗人元文部相)が2月に安倍晋三首相に渡した「緊急提言」づくりに経済産業省資源エネルギー庁がかかわり、手助けしていたことがわかった。提言は原発再稼働や輸出推進を求め、原子力規制委員会の規制基準や活断層評価を批判している。民間の提言を使い、経産省が原発を動かしやすい環境づくりに動いている。

 提言は「責任ある原子力政策の再構築」と題し、有馬会長を発起人とする有志名で出した。有志に電力会社トップはいないが、日立製作所など原発メーカーや大手商社のトップ、元経産次官の望月晴文氏(日立製作所社外取締役)ら29人が名を連ねる。

 A4用紙5枚の提言は原発規制のあり方に約4割を割き、規制委に対して「最高水準の英知と最大限の情報を活用した検討が実現していない」と批判した。そのうえで「原発再稼働を図るべきだ」などと求めた。

2013年5月18日土曜日

「教育という幻想」



 日高敏隆さんの本は、どれもおもしろいし、違った視点を提供してくれます(動物の視点から人を考えさせてくれます)。その日高さんが学校や教育について書いたのが、本書です。
 本当のタイトルは、『ぼくにとっての学校』なのですが、サブタイトルの方がはるかに刺激的なので、上のタイトルにはこちらを使いました。それが、日本の学校や大学の現状を表わしているかのようです。
 実際、日高さん自身は、その幻想の外に小学校から大学院にかけて自分の身をおき続けた人のようです。そして、大学での指導の際も、自分が体験したことを学生たちができるようにサポートしました。その意味でも、とても価値がある内容だと思います。
 以下、私のメモです(数字は、ページ数)。

33~4 小学校の部活動には、高校生が指導者としてつく。そこで指導にあたった高校の部員が徹底的に指導してしまうと、小学生をただやたらに引っぱりまわすことになってしまう。なにを測れと測らせて、すごく立派なデータが出て、そして発表もちゃんとできる。ところが小学生にしてみると、自分たちがなにをやっていたのか、よくわからなくなってしまう。そういうことで、指導するというのはどういうことなのか、あのころやったことは、いい勉強になりました。
 ぼくはいつも生物部の部室にいて、本を読んだり、調べものをしたりしている。授業は、あまりおもしろくないから出ない。そうすると、先生が自分の授業が始まる前に部室に来て、「やっぱりここにいたか。日高君、これをちょっと調べてくれないか」と言う。そして授業が終わると、「わかりましたか」と聞いてくるのです。僕はその先生の授業に出ていないことがわかっている。しかし、こういう先生たちに頼まれて調べたことは、その先生の授業よりずっと記憶に残るいい勉強になりました。  ← 要するには、やりたいことをやらせてあげるのがベスト。 それが、なかなか見出せない子には、見つけられるサポートをし続ける。

64~5 講義は残らない/自分が調べたことは身につく

74~6 学生が自由になんかできるのを確保する。それが教師の責任。

81 大学院生選考の基準がない大学院(教授たち)!!

98 再現性がないと科学とはいえないと教えられてきた。
101 ティンバーゲンの”Social Behaviur in Animals”から真似し始める/応用し始める
115~6 遺伝と学習の関係  → 194~6、 213~230
116 動物行動学をベースに人間を考える

147 変わったことがやれない日本  でも、枠を出てやってしまった学界や共同研究

180 民主主義は、小魚の群れ

 しかし、その日高さんが学長になった滋賀県立大でしたことは・・・・


     <メルマガからの続き>


 自分が小~大学院時代に、やりたいこと(蝶々の観察等)しかやらなかった人は、一般教養を廃止しました(189ページ)。そこまでは、評価できるかもしれませんが、次にこう書いています(189~190ページ)。
「概論というのは、もっとも受身で聞くものです。おもしろくない。滋賀県立大の人間学の先生方には、とにかく一般論、概論ではなく、自分の独断と偏見に満ちた講義をしてくださいとお願いしています。たとえば、最近こういうことが起こっている、なぜならばこうだからだ、と自分の根拠をあげて自説を展開してください。その中に、いわゆる基礎的なことも盛り込んでください。そして最後に自分の結論として、私はこうだと思うと言い切ってください。それが全部間違っていても構いません。」
講義(と研究)をすることが、大学教授の役割と捉えてしまって本当にいいのでしょうか? 前者には、自分はほとんど顔を出したこともないというのに・・・・ ぜひ、自分が上で書いたこととつじつまの合う行動をとってほしかったです。いいモデルを示してほしかったです。この点に関しては、とても残念です。滋賀県立大のサイトを覗いてみましたが、特に特徴的なことをしているようには見えませんでした。(単に、出さないだけ?)

 「教える」という行為が、「話す」や「すでにある知識を伝達する」という発想でいる限りは、実際に伝わる/届く量は限りなくゼロに近いことは、この本の前半部分で、日高さんが繰り返し書いていることでした。
 講義という形式は、聞く側が、話す側と波長(というかレベル)が同じ場合には効果的な方法なのですが、そうでない場合は、単純に時間の無駄としか言いようのない方法です。一見、効率的に思えますが、時間の使い方としては最悪です。
 では、学ぶ側が学びやすい/よく学べる方法とは何か?
 これも、日高さんが前半部分で自分の体験を通して書いてくれていました。「学び者が好きなこと、こだわっていることを学ぶ」につきます。それ以外の方法があるでしょうか? そうなると、教える側の役割は、何になるのか? 自分の知っていることを話すことでないことは確実です。話したところで意味はありません。
 そうなんです、学び手が言うことを聞くこと、なんです。
 あるいは、自分の授業に顔を出さないことを知っていた先生がしたように、生徒が関心のもてそうなことを尋ねて、しらべてもらい、そして生徒が教えるのをおとなしく聞くことです。
 まさに、リーディング・ワークショップとライティング・ワークショップのアプローチです。
 それでは、テストでいい点数がとれない。
 そんなことは、ありません。
 暗記して忘れる苦役よりも、自分のしたいことをするので、暗記する必要がなく、身についてしまいます。もちろん、一定の枠を提供した中での「したいこと」ですから、最低限おさえるべきことをおさえた上で、あとは教師と同じか、それ以上に伸びる可能性があります。リーディング・ワークショップやライティング・ワークショップの場合は、限りなく本物の作家や読書家に近づいていきますし、他の教科でこの手法を使うと、限りなく本物の数学者、科学者、歴史学者、地理学者、市民・・・・に近づいていきます。
 教科書をカバーする(あらかじめ決めれられたカリキュラムをこなす)学校や大学ごっこ(=正解当てっこゲーム)ではなく、本物をさせてあげないと、いつまでたっても日高さんのような人が、特別な人であり続けるだけです。

 私は、短期間に、ジョナスはギヴァーを超えてしまった、と思っています。
 ああいうアクションが取れたことが、それを証明していると思います。
 もちろん、ギヴァーの助けもあって実現できたことではありますが。

歴史認識/解釈



 このブログでも、歴史というのは見る者(視点)によって、さまざまだということは繰り返し書いてきました

 しかし、日本の社会は、教科書に書いてあることは「正解」だとかたくなに信じる傾向があり、またマスコミも、それを煽り続けています。そんなものは、あるわけがないのに。政治家(や学者)も、自分が信じたい歴史的な解釈ないし認識を教科書に盛り込みたいという傾向を顕著にもっています。

 

 一方で、またまた、暴言失言連発の石原さんがやってくれました。
 マスコミも、こういうのはあえて記事として扱わない、という判断ができるようにならないと困ります。記事にすべきものとそうでないものの取捨選択能力がないのですから。彼の言うことに何ら新しさの欠片もないのですから。

2013年5月15日水曜日

日高敏隆さんの本



 『世界を、こんなふうに見てごらん』を読んだのは、1年以上前のことでした。いつか紹介しようととってありました。

10 なぜ、を大切に
81 不思議を見つけて、探る = Inquiry

21 人間はイリュージョンを持つ生き物。イリュージョンなしには生きられない。
  死を知っていることが人間とほかの動物との違い
26 人間は死を知っているから社会システムをつくり、さまざまな文化もつくった。死後のことを全部考えて、政治体制までつくる。← この辺も複数の視点(たとえば、アボリジニーなどの視点)を踏まえると、必ずしも死が社会システム/政治体制をつくった、というのも疑問になる。農耕や家畜に頼る社会への転換の方が大きい要素かも。

27 人間はほとんどイリュージョンだけで世界をつくっていることが見えてくる。

23 八杉龍一という存在 → 先達のあり方を示してくれた
25 人間はまともな先生ついてはいけない。ものの見方が狭くなるから。
39 複数の視点。相対化こそが大切。
41 相対化。複眼思考。
43 科学<知性

46~48 人間にとっての戦争  条件や理由に応じて答えは変わる

62~3 破壊的な人間
70 自然をコントロールすることはできない
77 生物の多様性が大切。

視点が違うと見えるものが違う


 Gyaoでも、こんなものを放映しているんですね!!

 「サバイバル・ジャパン~3.11の真実~」という手づくりの映画です。

 「日本メディアが報道しない震災と原発の実態を、アメリカ人監督が撮る」と、簡単な説明が記されていましたが、視点としては、政府や東電の発表を単に横流ししているマスメディアと違った、一般的な日本人(とくに、被災者や被災地に近い人たち)が考えている視点に近いものを提示してくれている気がしました。 それほど、政治家、官僚、企業人は、一般的な日本人とは違う世界の住人なのだと思います。そして、当然のごとくマスコミは前者に近い存在であり続けています。(最近のラジオは、大分変わってきていますが、テレビや新聞は、旧態依然のままです。)


 震災と原発に関する報道は、あまりニュースにならなくなってきています。なにせ、マスコミの役割は新しいことを報道するところにあると位置づけられていますから。しかし、この件に関しては取り上げられなくていい問題ではないことが、この映画を見るとよくわかります。

2013年5月14日火曜日

『ギヴァー』と関連のある本 93



   久しぶりの「関連のある本」です。今回は、日高敏隆著の『動物と人間の世界認識』です。サブタイトルが、「イリュージョンなしに世界は見えない」です。タイトルは、『ギヴァー』に関係あると思えませんが、サブタイトルは大いにあると思えるでしょう!
 ちなみに、日高さんの本は(翻訳本も含めて)、ほとんどはずれがありません。
 以下、私がとったメモから(数字は、ページ数です)。


7 「唯幻論」を展開している岸田秀氏は、「人間は本能が壊れてしまったためにその代わりとなる『自我』が必要になった、けれどこの自我なるものはじつは幻想であるので、人間は幻想に支えられて生きることになった」と考えている。

8 ユクスキュルの環世界はけっして「客観的」に存在する現実のものではなく、あくまでその動物主体によって「客観的」な全体から抽出、抽象された、主観的なものである。
 それは人間の場合について岸田氏のいう「現実という幻想」にあたるものかもしれない。・・・ぼくはそれをイリュージョンと呼ぶことにした。厳格、幻影、幻想、錯覚などいろいろな意味あいがあるが、それらすべてを含みうる可能性を持ち、さらに世界を認知し構築する手立てともなるという意味も含めている。

10 理論的には存在し、頭ではわかっているが、現実に見たり触れたりして実感することはできないもの。→たとえば、死 それはある種のイリュージョンではないか。
  そしてさらに、そのイリュージョンはそれぞれの動物のその知覚の枠というきちっとした根拠のあるものの上にたっている。人間の場合もまた同じである。そうすると人間の構築している世界もイリュージョンで成り立っているといってもよいだろう。たとえば、人間は死というものを知ってしまった。
11 そこから悩みは始まっている。死というものの存在を知ってしまったけれど、人間の知覚の枠の外にある以上、それを体験することはできない。・・・人間はイリュージョンの上に立って、いろいろなことをやってきた。
 宗教も生まれたし、さまざまな信仰のような行為や、いろいろな思想が生まれた。世界各地で多様な儀式や儀礼も生まれた。しかし、その元は、今言った、イリュージョンである。

第1章 ネコたちの認識する世界

第2章 エクスキュルの環世界
27 『生物から見た世界』
29 ダニの世界のこのみすぼらしさこそ、ダニの行動の確実さを約束するものである。ダニが生きていくためには、豊かさより確実さのほうが大切なのだとユクスキュルは考えた。
 つまり、それぞれの動物、それぞれ主体となる動物は、まわりの環境の中から、自分にとって意味のあるものを認識し、その意味のあるもので、自分たちの世界を構築しているのだ。
31 彼らにとって大切なのは、客観的な環境といわれているようなものではなくて、彼らという主体、この場合にはイモムシが、意味を与え、構築している世界なのである。
  つまり、いわゆる環境というものは、主体の動物が違えばみな違った世界になるのだというのである。
35 同じ部屋も、人間が見ている環世界、犬や猫が見ている環世界、そしてハエが見ている環世界は、すべて違う。


    <メルマガからの続き>


48 同じ一つの場所を見たときに、人間とモンシロチョウとアゲハチョウとでは、世界はまったく違っている。ひとつの「環境」という言葉でくくってしまってはならないし、それを客観的環境と呼ぶことは彼らにとっては意味がない。
  大切なのはこの環世界であって、一般的な環境が問題なのではない。

50 私たちが環境というときは、基本的に人間にとっての環世界を指している。それ以外はなかなか難しい。

61 パリ滞在中に道路でたくさん見たハリネズミの死体。なぜか。
  彼らの防御行動が、自動車には効かないから。オオカミなどの大型動物には効いても。

67 親ドリとヒナの関係 ~ 声に反応

74 動物たちの環世界というものは、現実の客観的なものというよりは、イリュージョンが作り上げた世界なのである。そして、動物たちは、ほとんどすべて、このイリュージョンの世界の中で生きており、それによって単に生きるだけでなく、何十万年にもわたって、子孫を残し続けてきたのである。

86 古典にみるイリュージョン ~ その時代の人びとが抱いたイリュージョン
 そのように考えると、人間はこれまでにどれほど多様ないニュージョンを展開してきたことか? そして今後、未来においていかなるイリュージョンを論理的に創りだしていくことか?
88 要するに古典というものは、その当時の人々がその時どきのイリュージョンによって構築していた環世界を示すものだということである。

96 モンシロチョウの環世界は、時間帯によって変わる。交尾の時間帯は、相手のことだけしか視界に入っていない。花は眼に入らない。

102 『プログラムとしての老い』 → 日高敏隆の口説き文句

112 フェロモンにまつわる研究も、科学の名の下に人間が作り出したイリュージョン

122 紫外線や赤外線を、人間は見られない。存在は知っていても。
123 触覚も鈍い
126 聴覚も。  超音波は聞こえない

128 世界を構築し、その世界の中で生きていくということは、そのような知覚的な枠のもとに構築される環世界、その中で生き、その環世界を見、それに対応しながら動くということであって、それがすなわち生きているということである。

137 世代によって、ラジオ、テレビ、インターネットが当たり前かそうでないかがある。これも、環世界

143 人間は概念によってイリュージョンを持ち、そのイリュージョンによって世界を構築する。他の動物はおのおのがその知覚的な枠に基づくイリュージョンによって環世界をもっている。知悪的なものはおいそれとは変わらないから、代々まったく同じ環世界をもっている。
144 人間の場合には、いろいろと探っていくことによって、人間の知覚ではわからないが、人間の知覚の範囲内にものを持ち込んでくるような機械をつくりだしていくことによっていろいろなことを理解し、次々にイリュージョンを生み出してきた。その結果として、人間が構築する概念的世界も変わってきた。
 われわれが関心をもつのは、この人間の概念的イリュージョンによってつくられた世界である。こういう概念的世界、概念的イリュージョンというものがどうしてできあがってくるのかということがいちばん問題なのである。

146 死の発見
147 輪廻転生の思想の誕生
152 利己的な遺伝子。 遺伝子を残すだけでなく、自分が生きた証も残したい人間。
 ミーム。
155 こうしてそれまでの種族維持のためというイリュージョンは、自分の適応度増大のためという、新しいイリュージョンに変わった。

160 輪廻という不思議な、しかも現実性のまったくないイリュージョンをもつことによって、人々は自分の生き方の基盤を作ることができたのである。
 これは時代の古さ、新しさの問題ではないし、「正しい」知識の多少という問題でもない。人間はつねに何らかの形で世界を認識していなければ、生きられないということである。それは人間以外の動物がその知覚の枠に従って、広大な環境の中からいくつかのものを抽出して、自分の環世界を構築し、それによって自分の行動の指針を得ているのと同じことである。

163 地球が平面 → 丸い。 天動説 → 地動説  しかし、人の日々の生活には大きな変化はない。

172 このイリュージョンにこめられているものは、進化には何の目的も、何の計画もないということである。生き残ることができたものが、生き残っているということ、それがすべてである。

174 神経のある動物と、ない植物の違い

178 われわれ人間も、人間以外の動物も、何らかの形のイリュージョンによって世界を構築し、その中で生きている。イリュージョンの基本的な根底となるのは知覚の枠である。
179 昆虫と人間のいずれかがより真実とは言えない。同じひとつのものを、それぞれのイリュージョンによって認知しているにすぎないからである。

180 大切なのはその動物が何に意味を与えているかである。それによって、その動物にとっての世界は、その時どきによって変わる。交尾前と交尾後のモンシロチョウを礼として述べたとおりである。

  そうなると、客観的な一つの環境というものは存在しないことになる。同じひとつの林が、そこに生きているそれぞれの動物によって、そして動物の状況によって、さまざまな世界に変わっていくのである。
  それぞれの世界を構築しているのは、その動物がその時どきにもっているイリュージョンである。岸田秀氏の「唯幻論」は、人間以外の動物にも当てはまるのだ。

181 重要なのは、イリュージョンなしに世界は認識できないということである。「色眼鏡でものを見てはいけない」とよく言われるが、実際には色眼鏡なしにものを見ることはできないのである。

184 われわれの認知する世界のどれが真実であるかということを問うのは意味がない。
  人間も人間以外の動物も、イリュージョンによってしか世界を認知し構築し得ない。そして何らかの世界を認知し得ない限り、生きていくことはできない。人間以外の動物のもつイリュージョンは、知覚の枠によって限定されているようである。けれど人間は知覚の枠を超えて理論的にイリュージョンを構築できる。
185 学者、研究者を含めてわれわれは何をしているのだと問われたら、答えはひとつしかないような気がする。それは何かを探って考えて新しいイリュージョンを得ることを楽しんでいるのだということだ。そうして得られたイリュージョンは一時的なものでしかないけれど、それによって新しい世界が開けたように思う。それは新鮮な喜びなのである。人間はこういうことを楽しんでしまう不可思議な動物なのだ。それに経済的たちがあろうとなかろうと、人間が心身ともに元気で生きていくためには、こういう喜びが不可欠なのである。

 長かったですが、以上です。
 『ギヴァー』の世界を理解するのに、そして私たちが住んでいる社会を理解する(そして何がしかのアクションを起こす)参考になったでしょうか?

これが政治家の発言?



 維新の会は、共同代表の一方だけがおかしいのではなく、まったく同じ世界理解をもっているようです。

 日本維新の会の石原共同代表は14日、橋下氏の発言について、「軍(=戦争)と売春はつきもので、歴史の原理みたいなものだ。昔からあったのは歴史の事実だ。(橋下氏は)基本的に間違ったことは言っていない」と述べ、橋下氏を擁護した。

 二つのことが世界最悪のものであることがわかっているなら、「それをあえてセットでやりましょう」「歴史の原理だから認めましょう」というのではなく、避けるべき努力を最大限にするのが政治家であって、それを二人そろって擁護するような発言をするというのは、どういう頭の構造をしている人たちなのでしょうか?

 ちなみに、発言するタイミングもまったく考慮に入れられないという空気も読めない人たちでもあります。

 こういうのは、やはりマスコミ受けでずっとやってきた人たちの「なせるわざ」としか言いようがないのではないでしょうか?

 『吉里吉里国』でも、『ギヴァー』のコミュニティでもあり得ませんから。スケールが大切であると同時に、マスコミが機能していない社会の「なせるわざ」とも言えます。


★ 基本的には、自民党も維新の会と同根です。以下は、橋下氏の発言の関連記事
2007年の(第1次安倍内閣の)閣議決定では、そういう(=国をあげて強制的に慰安婦を拉致し、職業に就かせたという)証拠がないとなっている」と述べ、「事実と違うことで日本国が不当に侮辱を受けていることにはしっかり主張しなければいけない」と語った。
一方で「意に反して慰安婦になったのは戦争の悲劇の結果。戦争の責任は日本国にもある。慰安婦の方には優しい言葉をしっかりかけなければいけないし、優しい気持ちで接しなければいけない」とも語った。
また、橋下氏はアジア諸国に対する反省とおわびを表明した村山談話については「日本は敗戦国。敗戦の結果として、侵略だと受け止めないといけない。実際に多大な苦痛と損害を周辺諸国に与えたことも間違いない。反省とおわびはしなければいけない」と強調。
一方で、安倍晋三首相が「侵略の定義は定まっていない」と主張している点については「学術上、定義がないのは安倍首相が言われているとおり」と述べ、理解を示した。

 要するには、こういう路線で教科書の記述も変えたいというのが教育改革の本丸なわけです。悲しいかな。
 それは、憲法改正というか変更に必要な割合とも関係します。

2013年5月8日水曜日

「女性手帳」



 「母子手帳」に加えて、今度は「女性手帳」の導入とか。
 それに対して、「女性手帳」に感じる強い違和感の原因は何だろう、と疑問を投げかける内容が提示されていたので紹介します。
 基本的に、民主党政権は、何もやれなかった政権でした。
 それに対して、今回の政権は何でもゴリ押しの政権と言っていいかもしれません。
 もちろん、それを可能にさせているのは有権者なわけですが。
 ほんとうに、いいんですか?
 これで、夏の参議院選で自民が勝つようなことになったら、いったいどうなってしまうのでしょうか?

 幸か不幸か、ギヴァーのコミュニティには、母子手帳も、女性手帳もありません。
 職業として、行き届いたケアが提供されますから。
 ただし、社会的に認められている職業とは言えないようですが・・・

2013年5月2日木曜日

問いがずれている!



 いま問われるべきは、「権力の乱用は、どのように抑えることができるか?」や「リーダーたちをチェックし、暴走を押さえるにはどうしたらいいのか?」です。

「日本人は自らの憲法をつくる権利があるのではないか?」や「日本にも自衛権があるべきではないか?」では、ありません。

 権力を握った人は、どこの国であれ、組織であれ、暴走しやすいものです。権力を乱用する可能性を常にはらんでいます。
 日本の明治以降の歴史を振り返ってみるだけでも、それは明らかです。
 そして、いままた同じ過ちを繰り返そうとしています。

 改憲が争点なのではありません。

 繰り返します。いま問われるべきは、「権力の乱用は、どのように抑えることができるか?」や「リーダーたちをチェックし、暴走を押さえるにはどうしたらいいのか?」です。チェック機能をむやみに取り除いてしまったら、権力者はやりたい放題です。

 ギヴァーのコミュニティでは、この乱用や暴走の問題は起こっているのでしょうか? チェック機能が機能しているのでしょうか? コミュニティのサイズが防いでいるのでしょうか? 要するには、すべてが顔の見える関係であるということが。 第2弾のキラのコミュニティは、コミュニティのサイズはジョナスのとそれほど変わらなさそうなのに、あまり機能しているとは言えなさそうです。

 顔の見えない関係の場合の乱用や暴走は、恐ろしいものです。


 そういえば、日本では「多数決 」もちゃんと理解されていないような気がします。