「死」について考えさせられる本を何冊かよみました。
なんと言っても『ギヴァー』の最重要テーマの一つですから。
まずは、『人間らしい死にかた』シャーウィン・ヌーランド著です。
30 「尊厳ある死」は生命の最後のあがきの、厳しくて時にはいとわしい終末を、優雅に、勝ち誇って迎えたいという万人の願いの表現である。
しかし、本当のところ、死とは対決ではない。それは単に自然の進行のリズムに添った出来事にすぎない。死ではなく、病気こそが真の敵であり、対決しなければならない悪の軍勢なのである。死は総力戦に敗れたときにやってくる休止だ。しかし、病気との対決といっても、戦いを挑むにあたっては知っていなければならないことがある。つまり・・・すなわち非存在へと戻される冷酷な旅の乗りものにすぎないことを知っていなければならない。思い病状に打ち勝つたびに、それがどれほど明白な勝利であろうとも、いずれは避けられない終末がしばし猶予されたにすぎないのである。
71 脳死
公式に宣告される死の前後の時間に、組織や臓器が徐々に生命力を放棄していく出来事の経過、これこそが死ぬことの生物学的な真のメカニズムである。
老年という延期された死のかたち
76 肉体の衰え ~ からだにがたがくる 年を加えることによる自然死
がたがこない方がおかしい!!
87 60歳と70歳のあいだに、血圧は水銀柱で20ミリ上昇する。65歳以上の人の3分の1が高血圧になる。
93 自然のサイクル ~ 再生よりも先に死がある
106 どのケースでも根底にある生理学的な原因は、身体の酸素のサイクルの故障である。
107 脳の循環に背かれた人びとについて ~ 「この人たちが死ぬまでには、大人になるのにかかった時間だけかかる」 → 絵本『ぞうのさんすう』ヘルメ・ハイネ
110 生命には持って生まれた固有の限界がある。こうした限界に達したら、生命の蝋燭は特別な病気や事故がなくても、とにかく徐々に消えていくのである。
幸いにも、老人の医療だけに従事している臨床医のほとんどが、このことを悟りはじめている。
「多くの老人病学者は、ただ延命だけを目的とした積極的な治療を控えるべきだと信ずる人々の先頭にたっています・・・・われわれは個々の老人たちの生の質を高めてあげたいのであり、ただ生命を引き延ばしたいのではありません。そうすることによって、お年寄りができるだけ長く自立して立派に暮らしていくのを見たいのです。」 ~ この辺を先取りしてしまっている感がする『ギヴァー』のコミュニティ!! 現実は、アメリカでも老人病学者の数は、まだ少ないそうだ。
114 「死ぬのにふさわしい時がある。自分たちが退いて次の人たちの成長に場所をゆずってやるのが理にかなう時だ。自分たちの世代を充分に生きてしまったら、次にくるものの邪魔をしてはならないのだ」トマス・ジェファソンがジョン・アダムズに送った手紙より ~ 「次にくるものの邪魔をしない」「退いて次のものの成長に場所をゆずる」をかなり理想的な形で実現している社会としての『ギヴァー』のコミュニティ?
202 おおむね、死ぬことは苦しい営みだ。
212 自身の生命を奪うというのは、ほぼ例外なしに、してはいけないことである。しかし、そうとも言えない状況が2つある。①手足が自由にならない老人が耐えがたいほど衰弱した場合と、②致命的な病気で最後の恐ろしい破壊が進む場合
348 どんな形式をとるにせよ、われわれはみな自分なりの方法で希望を見出さなければならない。
一方で医者による「放棄」。
349 今日、多くの入院患者は、医師が潮時だと判断した時にしか死ぬことができない。
すぐれた研究に欠かせない好奇心や探究心もそうだが、私は、自然界を支配するという幻想が現代科学の根底にあると考えている。
350 最終的な勝者はつねに自然であり、人類が存続するためにはそうあらねばならないのである。
私より前の世代は、自然が最終的な勝利をおさめることの必要性を当然のこととして受け入れていた。
351 医師に患者の判断を左右する権限がないことを知っていれば、彼らは自分の望む方向に患者を仕向けるようなもの言いをしなくなる。
352 この世を去るときにわれわれが耐えるのは、苦痛と悲しみだけではない。たいていの場合、最も大きな重荷は後悔であり、この問題に関してはこの一語でことたりる。
矛盾しているように聞こえるだろうが、やり残した仕事があると言う事実こそが一種の充足にほかならないと考えるべきだろう。 → 「今日が最後」の繰り返し
356 われわれの死に方は自然から与えられた最後の病気によって決まるが、われわれ自身が可能な範囲で選択し、死に方を決定する重要な要素になることもできるのだ。
人間の死は自然の道理でしかないということだ。
多くの人間は死ぬまでのあいだに苦痛を味わっていた。最後の苦痛を癒してくれるのは、あきらめと、家族の慰めと、祈りだけだったのである。
358 (近代医学以前の)医術は、まだ死の過程にうまく対処する力を失っておらず、医師の良心とともに人びとに穏やかな死を迎えさせることができた。高度な医療は、患者を見限ることでしかそれができない。
259 そんなわけで、私は自分の死期を専門家に決定させるつもりはない。自分なりに判断するつもりだし、少なくとも判断の基準を明確にしておき、自分で判断できない場合には、私をよく知る人たちにそれをもとにして判断してもらおうと思っている。・・・私は自分の力の及ぶ範囲内で、死ぬべきだと思うときに死にたいと思う。それはひとえに、ハイテクを駆使する医師が本当の私を理解してくれないからなのである。
いま、誰もが必要としているのは、自分をよく理解し、死にいたる道のりを熟知しているガイドのような「かかりつけの医師」の存在である。
なかなかヘヴィーな内容だったでしょうか?
『山中静夫氏の尊厳死』南木佳士著は、この本の小説版として捉えられるかもしれませんので、ご一読を。
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