しばらくぶりの関連のある本は、『深呼吸の必要』長田弘・詩集です。
その中でも、特に関連のある詩を二つ紹介します。
両方とも、(子どもから大人になったのは)あのときかもしれない、という連作の中に含まれています。一つ目は、四番目の「遠くへいってはいけないよ」。
子どものきみは遊びにゆくとき、いつもそう言われた・・・・
「遠く」というのは、きみには魔法のかかった言葉のようなものだった。きみにはいってはいけないところがあり、それが、「遠く」とよばれるところなのだ・・・・
子どもだった自分をおもいだすとき、きみがいつもまっさきにおもいだすのは、その言葉だ。子どものきみは「遠く」へゆくことをゆめみた子どもだった。だが、そのときのきみはまだ、「遠く」というのが、そこまでいったら、もうひきかえせないところなんだということを知らなかった。
「遠く」というのは、ゆくことはできても、もどることのできないところだ。おとなのきみは、そのことを知っている。おとなのきみは、子どものきみにもう二どともどれないほど、遠くまできてしまったからだ。
『ギヴァー』の中には「Elsewhere」という言葉が出てきます。ある意味では、コミュニティーの中に住民を閉じ込めておく言葉です。しかし、ジョナスはゲイブを連れて、そのElsewhere=遠くに向かってしまいました。そして、二度と戻れない状態に・・・・
もう一つは、六番目の「なぜ」。
「なぜ」とかんがえることは、子どものきみにはふしぎなことだった。あたりまえにおもえていたことが、「なぜ」とかんがえだすと、たちまちあたりまえのことじゃなくなってしまうからだ・・・・
「なぜ」がいっぱい、きみの周囲にはあった。「なぜ」には、こたえのないことがしょっちゅうだった。そんな「なぜ」をかんがえるなんて、くだらないことだったんだろうか。誰もが言った、「かんがえたって無駄さ。そうなってるんだ」実際、そうかんがえるほうが、ずっとらくだった。何もかんがえなくてすむからだ。しかし、「そうなってる」だけだったら、きみのまわりにはただのあたりまえしかのこらなくなる。そうしたら、きみはものすごく退屈しただろうな。
「なぜ」とかんがえるほうが、きみには、はるかに謎とスリルがいっぱいだったからだ。けれど、ふと気がつくと、いつしかもう、あまり「なぜ」という言葉を口にしなくなっている。
そのときだったんだ。そのとき、きみはもう、一人の子どもじゃなくて、一人のおとなになってたんだ。「なぜ」と元気にかんがえるかわりに、「そうなってるんだ」という退屈なこたえで、どんな疑問もあっさり打ち消してしまうようになったとき。
ギヴァーのコミュニティーの多くの住人が、子どもも含めて、「なぜ」と考えない状態になっていた気がします。そして、いまの日本の多くの住人も??
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