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2013年10月31日木曜日

『憲法なんて知らないよ』

 この池澤夏樹著の本で一番面白いと思ったのは、最後の解説で、なだいなだ(ちなみに、このへんちくりんな名前は、スペイン語のnada y nadaから来ています。Nadaは「無い」という意味です。yは「and」です。従って「無いと無い」。つまり「何もない」です)さんが紹介していたことです。

 解説者が、「全国ラジオ子ども電話相談室」の回答者をしていたときのことだそうです。
 一人の小学4年生が電話をかけてきて、「日本は民主主義の国なのに、どうして代議士の子どもが代議士になるのですか」という質問をしてきた、と。(以下、文庫版の202~206ページのやりとりのダイジェスト版)

「それはねえ・・・ほんとうにどうしてだろう」
考えたら、こっちが分からなくなった。だから一緒に考えることにした。
「どうしてだろうねえ」
「どこかが間違っているのじゃないですか」
「そうに違いない。きっとそうだ。だけど、どこが間違っているのだろう?」
「そこが分からないんで、電話をかけたのです」
「親に聞いたかね」
すると、学校の先生に聞けと、そして学校の先生に聞くと、ラジオ子ども電話相談室に聞いてみろと言われたそうだ。(なださんは、ここで「たらい回しだ」と思い、なぜたらい回しと言うのだろうと思ったそうだが、それは子どもが電話をかけてきた主旨ではないので、後で考えることにしたそうだ。果たして、答えは出たのだろうか?
「う~ん、学校の先生はそういったか」といいながら、ぼくは考えている(時間稼ぎをしていた?)と、
「もしかして、民主主義って、勉強するのに時間がかかることなんじゃありませんか」
ぼくは子どもの答えにしびれた。
「それだ。それだよ、君」
「なにが、それですか」
「時間がかかるということ。日本は、建前は民主主義の国になったんだ。でも、まだ、本当の民主主義になったとはいえない。だから親が代議士なので、子どもも代議士になる場合がまだ多いのだよ」
「選ぶ人が、まだ民主主義が分かっていないのですか」
「きっとそうだ。選ばれる方が、民主主義が分かっているかどうかも問題だがね」
「選ぶ人も、選ばれる人も、民主主義とはなにかが分かるまで、時間がかかるということですか」
「そうだよ、ぼくはそう考える。時間がかかるばかりでなく、さまざまな経験をして、そうなるための努力をしなければならないという意味もある。ともかくも、日本はまだ十分に民主主義になっていないということだ」
ぼくはなんとかそう答えて、「少し分かってきた」と、その子どもに許してもらったが、今でも、そのときのことを忘れない。

 結局、どっちがどっちに教えていたのでしょうか? 「相談」というのは、所詮はこんなものなのではないでしょうか? 相談してくる側が、すでに答えを持っている。された側は、一緒に寄り添って聞き役をすればいい。(以上、なださんの解説は終わり。)

ひょっとしたら、「日本は民主主義の国なのに、どうして代議士の子どもが代議士になるのですか」という問題は、第14条の第2項の「貴族や貴族階級などの制度は認めない」に触れているかもしれません。制度化はされていないわけですが、実態はそうなわけですから。

他に気づいたことは、読みやすい憲法が書いてある、ということ。
その理由は、あの硬いのではなくて、英文をわかりやすく翻訳してくれているから。
(そもそも、あれを最初に訳した/書いた人たちは、読まれることを想定していたのかな、とさえ思ってしまいます。読まれない方がいいということを前提にしていたのでは、と勘ぐってしまいます。単純に、法律用語の限界??)

とにかく前文はいいです。これに反対する人はいるのかな?

冒頭で紹介したのと同じように、「日本は民主主義の国なのに、どうして天皇はいるのですか?」と小学校高学年の子どもが質問してきてもおかしくないかもしれません。(ちなみに、これは憲法第1~8条に書かれています。なんと、一番議論の多い第9条の前の8つの項目がすべて、そのことに費やされているのです。)

『ギヴァー』のコミュニティには、憲法はないだろうな~、と思ってしまいました。
あなたは、あると思いますか?
3500人のコミュニティには必要なくて、国家には不可欠なのが憲法?
日本の自治体レベルには「憲章」はありますが、憲法といわれるものは存在しません。
憲法は、国家にしか認められていない?
国家というのは、それほど構成員に対して拘束力を持つ存在??
なお、日本国憲法には、地方自治に関するものが、申し訳程度に第92~95条で扱われています。でも、実質は、憲法とは別の「地方自治法」という法律で決められているそうですから、そちらを見ないとわからないようになっています。(でも、これって、国の都合で決めた法律なんじゃないの??)

2013年10月29日火曜日

バーナード・リーチの『日本絵日記』

 陶芸家のバーナード・リーチの『日本絵日記』を読んで、手仕事と工業が比較されているところがありました(25~7ページ)。『ギヴァー』の心地よさ的なものは、前者のみしかコミュニティには存在しないのではないかと思わせるところのような気がします。(そういえが、第2部の『ギャバリング・ブルー』も同じです。)

 確かに、機械化、画一化によって、量と効率化は図れるのかもしれませんが、それによって失われるものの大きさは、考慮されたことがあるのでしょうか?

 これまでにもこのブログで取り上げてきた、おじさん・おばさんが経営する個性的なお店や、生の声によるコミュニケーション、朝早く起き(寝るのも早い)生活などと対局をなす、コンビニ化やスマホ化や24時間化がいま日本全国で急ピッチで進みつつあります。後者は、大量エネルギー消費社会という形で電力会社を儲けさせる(に依存する)社会構造に深く関係しています。

 人間は、果たして進歩しているのでしょうか、それとも退歩しているのでしょうか、考えさせられます。

 もちろん、古いものはすべてよくて、新しいものはすべてが悪い、ということではありませんし、その逆でもありません。それなりのバランスということだと思いますが・・・

 陶芸を含めた工芸の定義もいいです。
 「ひとえに普通の暮らしの中で健やかさと美しさをゆっくりと開花させて行くもの」(33ページ)です。

 それに対して、工業製品の定義はどうなでしょうか?

2013年10月26日土曜日

義務教育、5歳からに引き下げ検討

表題の記事が載っていました。

あなたは、どう思われますか?
これで、教育の質がよくなりますか?

ちなみに、『ギヴァー』のコミュニティでは、12歳で学校を終えると同時に、インターン的に職につきます。ちょっと早すぎますか? ローリーさん、徒弟制度的なものをイメージしていたみたいですね。

これまでもそうですが、教育再生実行会議や臨調などは、制度面をいじることに躍起で、中身を改善しようとしません。おそらく現場の教師たちに聞いたら、この類の制度改革を望む人はいないと思います。他に、やらないといけないより重要事項を山のようにかかえていますから。それらが、この制度改革で消えるかというと、残念ながら消えません。ひょっとしたら、新たに増えるかもしれません。政治家や官僚や有識者(学者)は、自分たちは何か意味のあることをしていますよ、というジェスチャーを示したいあまり、現場レベルで大切にしたいことが見えなくなっているようです。当事者たちから聞く/当事者たちを見る、ということから始めてほしいです。

つい数日前の小学校3年生から英語を必修化、というのも同じです。制度を変えれば、単純に教育内容(質)がよくなると思っているのでしょうか? 過去数十年の歴史を振り返ってみるだけで、それは明らかです。何十回と制度いじりはやってきましたが、一向によくなる気配はありません。それが歴史的事実としてわかっているのですから、アプローチを変えてほしいです。

「小学校高学年には中学校のような教科担任制が効果的だという見方もあり」・・・逆に、中学校の教科担任制は、果たして機能しているのでしょうか? という見方もできるわけで・・・

2013年10月25日金曜日

記憶が叡智をもたらしてくれる

 『ギヴァー』の中での、ギヴァーとジョナスとの会話です。

「叡智なくしては、私はまっとうすることができないのだ、<長老委員会>の求めがあった時に助言を与えるという私の使命をね」(156ページ)
「かれらは痛みについて知りたがらない。助言を求めるだけだ。だから、ただこう忠告したよ。」 ~ 要するには、記憶に残すことなく、痛むこともなく、単に忠告を聞くだけ。これって、軍備拡大(日本の戦争責任回避)路線の人たちがやろうとしていることそのもの?

「あなたが最後に助言を求められたのはいつなんです?」
「覚えているかね、飛行機がコミュニティの上空を飛んだ日のことを」 ~ 本の出だしのシーンでした。
「はい、怖かったです」
「かれらも怯えていた。飛行機を撃ち落とそうとした。だが、撃つ前に私の助言を求めてきたので、私は待つように言った」
「でも、あなたはどうやってわかったんです? パイロットがコースをまちがえたことが、なぜわかったんですか?」
「パイロットのミスがわかったわけじゃない。叡智を使ったのだ。記憶の中からね。私は知りつくしていたんのだよ。過去に何度も ~ 数えきれないほど何度も ~、人々が他の人々を滅ぼしてしまったケースをね。焦り、恐怖にかられて他を滅ぼせば、やがて自らをも破滅させることになる」(158ページ) ~ 要するには、こういう大切な叡智を葬りさろうとしている動き?



 もちろん、著者のローリーさんは、日本のことを念頭において、これを書いたわけではありません。主には、アメリカの読者が対象です。でも彼女は、ブッシュ息子(およびその一派)があんなアホなことを約7年後に仕出かすとは想像できたでしょうか? あまりにも叡智のない判断としか言いようがないわけですが、悲しいかな、それが西部劇の国であり続けるアメリカの一大特徴です。

2013年10月24日木曜日

フラタニティー

  大学時代の選考/評価の関連で

フラタニティーという名称を聞かれた方は少ないと思いますが、学生が自主管理・運営する寮のことです。
男子の場合がfraternity(ラテン語で「兄弟」という意味)で、女子の場合はsorority(ソロリティー)です。私が入った頃から男女混合のものがボチボチでき始めていました。
  もちろん、大学が管理・運営する寮もあります。学生側に選択肢を提供しているわけです。もちろん、自分でアパートを探すこともできます。でも、依然とし て、アメリカの大学の場合は、前の2つがほとんどではないでしょうか? 主な理由は、大学にコミットする時間が、日本の学生の比ではないからだと思いま す。

  自主管理・運営のフラタニティーは、建物自体は先輩たちが保有しています。そこに家賃を払う形で住まわせてもらう関係です。もちろん、それで「住」の問題 は解決しますが、「食」の部分は自分たちでコックを雇って、何を作って出させるかは自分たちが決めます。おいしく豪華な食事を希望すれば、寮費は自ずと上 がりますし、そうでない選択をすると安く済ませることもできるというわけです。どんな社会活動をするのかや、大学の行事等に参加するのかも、自分たちで決 めていきます。お昼も、寮に戻れば温かなものが食べられますが、戻れない場合は前夜までにサンドイッチを予約しておけば、朝もって出られます。

 ここで私は3年半生活したわけですが、一番面白いのは誰を仲間として選択し、入ってもらうかという選択のプロセスです。
 大学に入学が決まった生徒に関しての情報が、大学側から提供されます。すでに入学1年ぐらい前から決まり始めます。
  私が入っていた寮は基本的にスポーツ好きの学生が多かったのですが、とにかく候補になると思う生徒に連絡をとって、事前に大学を見に来るときは泊まっても らうように誘いをかけます。まずは、知ってもらうことからスタートです。冬休みや夏休みに寮生が実家に帰ったときは、近くで会える生徒(相手は、まだ高校 3年生)にできるだけ会って、大学のことや寮のことを紹介します。

 そして、大学が始まる前の週がrush week(新入生勧誘ウィーク)です。ウィークとは言っても、実質は週末の2泊3日です。(9月の第一週の月曜日は、祝日です。)この期間に、在校生側 は、新年度に新たに寮に加わってもらう新入生を厳選し、50~60人の候補の中から8~10人に絞り込んでbid(公式な勧誘)をします。それに対して、 新入生の側にもどこに入りたいかという選択がありますから、自分が入りたいところからbidをもらったら、pledge(正式な受け入れ)します。もちろ ん、受け入れないという選択肢ももっています。

 在校生は、金曜の夜、土曜の夜、日曜の夜は、新入生を寝せたあとに、夜遅くまで/朝早くまで、誰にbid を出すかの喧々諤々の話し合いが行います。在校生の中に一人でも、「あいつはダメだ」という人がいたら、他の何人がいいと言ってもbidが出されることは ありません。2年、3年一緒に暮らしていくわけですから、最初から馬が合わないと言っているのに、「しばらく経てば慣れるだろう」はないわけです。
 初日の夜は、確実に入ってもらいたい5~6人ぐらいを決めて、土曜日にbidが出されます。
 2日目の夜は、次のグループ5~6人を決めて、日曜日にbidが出されます。
 これらの中から、年度にもよりますが、3~5人は他のフラタニティーや大学運営の寮を選んだりしますから、3日目の夜は、追加の数人を選んで、月曜日にbidを出します。
 なお、このbidは、rush week期間中だけ有効なのではなく、新入生が在学期間有効というものです。ですから、私が住んでいた寮でも、3年生になってpledgeして移ってきた学生がいました。

 以上は、大学での勉強よりも、私にとってははるかに価値のある体験でした。
 まるで、フラタニティーという存在や仕組み自体知らずに飛び込んだにもかかわらず。

  『ギヴァー』 のコミュニティでは、12歳で仕事を始めますから、こういう生徒がたむろするスペースはなさそうです。小さい時から同級生全員のことを知った状態で、ずっ と上がってきますから、ある時点になってお互いを選び合うという行為自体、あまり意味をなさないと思います。その意味でも、自分の職が決まるというのが一 大イベントであるというのは、わかる気がします。


 私の父は茨城出身で東京にある「水戸塾」に入っていたのですが、基本的には同じようなプロセスで選考していた、と言っていました。調べてみたら、なんと、今も運営されています!! 他県にも、同種のものがあるはずです。アメリカの場合は、これが各大学毎にたくさんあるとイメージしてください。MITの場合は確か30近くあったように記憶をしています。
http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_MIT_fraternities,_sororities,_and_ILGs


★★ rush weekの前の4~5日は、在校生が建物の中を金ピカに掃除をして、磨きます。少なくとも、その週だけはいい印象を与えるために。ほとんどのフラタニティーの規模は30~40人です。従って、毎学年8~10人ぐらいの出入りがあります。

2013年10月22日火曜日

テストというか評価の問題



テストにまつわる報道が、ここ2日ばかり続いています。
この問題からは解放されないのが、日本という国の宿命なのでしょうか?

昨日は、「説明責任か序列化か」

今日は、「センター試験廃止へ」

昨日のだけでは、とても書く気になりませんでしたが、今日のを見て・・・
両方とも、教育現場(小学校~高校)を無視したというか、配慮にかけることをやり続けていることは同じです。

昨日、書く気になれなかった理由?
そもそも、してはいけないことの尻拭い論議ですから。
有識者というぐらいなら、はっきりと「学力テストを廃止すべき」と文科省に言ってあげないと、役割を果たしていません。
そもそも、価値のないものに、あたかも価値を与えるような議論をしていること自体が、極めておかしな話なのです。
それによって、教育現場に混乱を招いている、という意識すらありません。
評価のことが全くわかっていない数人の官僚、政治家、研究者に振り回されている状況を維持しているだけです。

今日の記事もまったく同じで、そろそろテストで人を測れるのは20分の1、よくて10分の1ぐらいの能力に過ぎないことをわきまえないとまずいです。

個人的な例ですが、私はたまたまラッキーで、高校を卒業と同時にMITに入れたのですが(もう40年以上前のことです!)、理由は、テストのウェートが極めて低かったからです。もしテストだけだったら、到底入ることなどできなかったと思います。テスト以外に(というか、テスト以上に)考慮されていたのは、①高校時代の成績、②推薦書(確か3人)、③インタビュー(私の場合はOBの卒業生と日本でやりました)、④自分の作文などです。★★

これらを、学内に教授、事務、在学生の代表からなるチームをたくさん作って、選考プロセスを展開していきます。★★★
一発のテストよりは、はるかに時間がかかりますが、プロセスを大切にしています。
評価というのは、そういうことではないでしょうか?
自分たちも、よくなるための手段なのですから。
また、評価は、「客観的ではあり得ない」ということもわかっている気がします。
あるいは、客観性を突き抜けたところでするものが真の評価ではないか、と。

少なくとも、『ギヴァー』のコミュニティでも、テストに重きを置いているとは思えません。長老たちの日々の観察等が最優先されているようです。評価は、頻繁に盗み見ているだけでなく、おそらく関係者へのインタビューなども踏まえられている、と。



★このことと、テストに変わる「人を伸ばす多様な評価の方法」を紹介したくて書いたのが『テストだけでは測れない!』(NHK生活人新書)でした。テストは、所詮、選別の手段です。1割以下の勝ち組と、多くの負け組をつくるための。それ以外に達成していることはあるのでしょうか? 大学生や教員対象の研修で、「どんな時によく学べるか?」を尋ねることが多いのですが、テストのための準備で学ぶと答える人は皆無です。所詮、それが忘れる運命にあることを誰もが知っていますから。
★★ すでに、4、50年前から、テストへの幻想を捨て去っている、ということを意味します。それに対して、日本は相変わらず「テスト信仰」というか「テスト崇拝」の中にあります。
★★★ この辺のことは、企業等の入社のプロセスにも参考になるのではないでしょうか? プロセスの中で自分たちのアイデンティティを見直し、そして創っていく作業をしている感じです。何よりも、関係者すべてを巻き込んだ体制がいいです。つまり、会社等の組織の場合は、人事担当者だけがやるんじゃない、ということです。


2013年10月21日月曜日

『若い読者のための世界史』




丸谷才一が『思考のレッスン』という本の中でエ ルンスト・H・ゴンブリッチの本を紹介していて、その本は見つからなかったのですが、『若い読者のための世界史』をタイトルに誘われて読みました。とても 好感が持てた本です。これは著者が25歳の1935年に書かれた本を50年後に復刊したものです。従って、最後に「50年後のあとがき」がついています。 日本の教科書(日本史や世界史)もこういう形式で書かれたら、読む方にとってはありがたい気がしました。


 スタートのところから、記憶に関することです。ある意味では、本全体が。(数字は、ページ数です。)
 それにしても、世界に占める日本の割合の少なさを痛感させられます。まさにヨーロッパにとっては極東もいいところ。端の端にポチンとある感じなんでしょう。中央に影響を及ぼすことはない・・・・ あっちにはあっちの、そしてこっちにはこっちの世界観がある。そのズレが面白くもあり、また怖くもあるわけです。


3 「昔、むかし」からスタート
 ふたつの鏡の間に自分の身を置いてみるようなもの ~ 鏡に映るきみの姿がどこまでも続く。「昔、むかし」は、これと全く同じこと。
 「はじまり」にとどくことはけっしてない。

57~8 アテナイ → 74~7 哲学、医者、詩人、美術、建築

74~5 ブッダの悟り
    中国は、象形文字。儒教。老・荘。
85  アレキサンダー大王とアリストテレスの関係
95  図書館
108 新しいものをつくるものこそ、古いものを知る必要がある

148 中世 ~ 教会の時代

203 都市と市民、貨幣の誕生  ~ 騎士や教会の力の弱まり ← 人間関係の築き方が変化し始める。

213~221 ルネサンス 1420年~ フィレンツェ
   中世が星夜なら、ルネサンスは夜明け
 → 『異端の数 ゼロ ~ 数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念』チャールズ・サイフェ、早川書房、96ページ ~ ゼロと無限はルネサンスの中心にあった。たとえば、絵画の消失点  物の見方・捉え方・価値観が根本的に変わりだした。
 しかし、その後、1500年代後半以降、バカな戦争の繰り返しでもある! バカな戦争の繰り返しから、人間は逃れられない宿命なのか? (そういえば、ルネサンスの間中も戦争は続いていた!)

222 世界史 = 多分に地中海周辺の歴史