『ギヴァー』の中で描かれていることと、読むこと、読むことについて話すこと/話し合うこと、読むことについて書くことなどが、関係ないようでかなり深いレベルでつながっている気がするので、両者の関連を引き続き紹介します。
教師を対象にした講演等に限らず、広く一般対象にも作家が話をするというのは当たり前に行われていることです。でも、残念ながら読書家(そういう言葉が使えれば、ですが)の話を聞くチャンスは皆無の状態が続いています。もちろん、プロとしての職業としては成り立ちにくいわけですが、読むことを生きがいにしている人たちはたくさんいます。
62 私たちも、子どもたちも、それぞれの生活の中で本を読むことについて「メンター」と呼ぶべき人、つまり「よき師匠」として導いてくれるような読書家にはなかなか出会うことがありません。ちょうど、弟子入りした見習い工が熟練者に学ぶように、子どもたちが教師という熟練した読書家に弟子入りして読むことを学ぶとすれば、教師の読むことの教え方も根本的に変わっていくと思います。
読むことに限らず、書くことも、話すこと・聞くことも、他の教科も、スポーツや趣味ですることも、そして仕事でも、構造は変わらないのだと思います。
ある意味では、学校に入る前に私たちが話すことを学んだり、書くことを学んだり、読むことを学んだり、立って歩けるようになったり、箸を使えるようになったり、自転車に乗れるようになったり・・・すべてがすべて、この学び方で身につけていると言っても過言ではないぐらいです。
それが学校というスペースに入った途端、このもっとも大切な見本となる「メンター」「よき先輩」がいなくなって、登場するのは教科書をカバーする教師という存在です。その人たちの多くは、カバーする内容が好きでも、得意でも、こだわりがあるようでもなさそうですから、多くの子どもたちにとっては、何のためにするのかわからないままの時間が続いてしまいます。「ぜひ真似したい」という動機づけは、ほぼゼロなのです。
『ギヴァー』のコミュニティーでは、ジョナスも同じ年代の他の子たちもそうであったように、かなり適正を把握されつくして職種が選ばれています。12歳からは「よき先輩」の下で仕事を始めますし、それ以前もインターンシップ的な形で見本から学ぶことを中心に据えた社会になっています。
ジョナスの場合は、ギヴァーからすべてを受け継ぐ形で。
2012年7月25日水曜日
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