自治体の「子どもの見守り」放送という官製騒音公害にしても、コンビニの乱立にしても、根源にあるのはマニュアルであり、コミュニティの崩壊、という気がします。
だからこそ、両方ともが必要だと思われ、誰も文句を言わない。
一方的な「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」「子どもが帰る時間ですから、皆さんの・・・で子どもたちを守りましょう!」と言われても、何もありがたくないし、何も存在しないのと同じ。というか、単なる雑音。心がこもっていないのがミエミエだから。
マニュアルは、誰もがやっているつもり、つつがなく行われているつもり、にはなれますが、実態は極めて空虚です。心がこもっていないというか、愛がないというか、真の意味でのコミュニケーションはありません。それが、いくら頻繁に行われても空虚であり続けます。白々しいというか。何も、プラスにならない。マイナスにはなっても?
この辺については、ギヴァーの世界はどうなのかと並行して、ずっと考え続けています。
いかにマニュアルではない、形式ではない、心のこもった、愛がある、真の意味でのコミュニケーションが成り立つ、コミュニティが存在する状態を再構築できるのか、と。
これって、「哲学」??
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