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2014年7月28日月曜日

司馬さん

 NHKの「知の巨人たち」の第4回は司馬遼太郎さんでした。司馬さんの本はほとんどすべて読んでいる私ですから、いまさらとは思いましたが、しばらくぶりに彼の話し振りや書いたものを見てみるとやはりよかったので、紹介することに。

「敗戦は、ショックでした。
 なんとくだらない戦争や、
くだらないことをいろいろしてきた
国に生まれたんだろう。
一体こういうばかなことをやる国というのは何だろう。
何のために死ぬのかに悩んでいた。
守るべきはずの国民を蹴散らしても守るべき国とはいったい何なのか?
終戦の放送を聴いた後、
なんと愚かな国に生まれたことかと思った。
(昔はそうではなかったのではないか、とも思った)」

  これが、22歳で敗戦を迎えた時の司馬さんの気持ち。それが、日本/日本人とは何かの疑問につながる。→ 22歳の自分への手紙として作品を書き続ける原動力に。

 上の文章もはじめてではありませんが、しばらくぶりに聞いて、新鮮でした。これは、やなり原点だな、と思います。なんと言っても、いまだにその「くだらないことをいろいろ」やり続けている国ですから。

 その司馬さんの『梟の城』、『竜馬がいく』『坂の上の雲』などを含めて多くが、高度成長を支えた企業戦士たちに見事なぐらいに受け入れられたのは、果たしていいことだったのか、どうなのか?

 雑誌『日本のなかの朝鮮文化』への協力を通して、日本/日本人の客観化・相対化も進めます。
 司馬さんが、日本が下降線をたどり始めたのは、日露戦争以降と繰り返し言っていたのは有名なことですが(なんといっても、それまでは坂の上の雲を眺めながらひたすら上り続けた時代だったという捉え方なので)、元京大教授の上田正昭さんは明治9年の江華島事件と主張して大議論を展開したそうです。確かに、西郷はじめ明治の元勲の中には征韓論を主張する人が多く、そうなっていた可能性はかなり高かったわけです。そして、実際に起きた事件が、あまり知る人も少ない江華島事件。日韓合併の素地は、日露戦争後というよりも、すでにこの時期にあったというのが上田さんの主張です。

 司馬さんが、22歳の自分への手紙の一環として構想を温め続けていたのは、日露から第二次世界大戦に到る時期の小説です。そして、1939年に満州とモンゴルとの国境付近でおきたノモンハン事件を題材にすることまで決め、取材もかなり行っていたのですが、結局、書くにたる主人公(登場人物たち)が見出せなかったというか、元気が出るようなストーリーは組み立てられないと判断して、構想は放棄しました。
 でも司馬さんは、くだらないことやばかなことの根元は「統帥権」にあったと踏んでいました。この大日本帝国憲法にあったインチキの理論を振りかざして、軍部は政府が反対できないようにしてしまったわけです。そして、何も責任を取らない「官僚」たち(軍部にもたくさんいたというか、充満していた!!)が組織を組織じゃなくしていったとも。 ~ 今の世の中にも、この「官僚」たちが充満している気がします。単に国レベルだけでなく、あらゆる組織に。

 そういうどうしようもない存在に対して、
 「知的で無私で情熱的な、持続力をもった面白がりが
  たくさん居れば、なるほどその社会は
  楽しくなるのではないか」
と司馬さんは言いました。

 『21世紀を生きる君たちへ』は、これまで小説を書いてきた司馬さんが、子ども向けに書いた初の随筆で、大阪書籍「小学国語」に書き下ろしたもの。ある意味で、司馬さんの「遺言」です。
 その中で、以下の3つの言葉を大切にし、かつ訓練をして身につけてほしいと願っていました。これを書いたのは亡くなる10年前の1987年のですが、日本社会に決定的に欠落していると思っていたのではないでしょうか。(「官僚」たちは、確実にこれらを持ちません!)
 「いたわり」
 「他人の痛みを感じること」
 「やさしさ」
みな似たような言葉である。
この三つの言葉は、もともと一つの根から出ているのである。
根といっても、本能ではない。だから、私たちは訓練をしてそれを身につけねばならないのである。

 それから30年近くが経とうとしています。司馬さんが願った訓練はしてきたでしょうか?

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