今年の1月1日に、最初の『ギヴァー』と関連のある本たちとして紹介した中に含まれていたのが、井上ひさし著『吉里吉里人』でした。
井上さんはその時には、まだ生きておられたのですが、今は亡くなられています。
その時は本の内容にはいっさい触れていませんでしたが、昨日、安野光雅さんが朝日新聞の「本を開けば」のコーナーで、『吉里吉里人』を紹介していたのを見つけましたので、ここに掲載します。(9月5日掲載分で、そのタイトルは「日本国が失った二人」です。)
http://book.asahi.com/reading/TKY201009070271.html
東北本線一ノ関駅あたりで列車が急停車し、突如「吉里吉里人(ちりちりづん)」が乗り込んできて乗客を外国人として扱い、旅券を見せろと言う。吉里吉里国は独立したと宣言するのだ。
「俺達(おらだつ)が独立(どぐりじ)を踏み切(ぎ)ったなぁ、日本国(ぬほんのくに)さ愛想(あえそ)もこそも尽ぎ果(はん)でだがらだっちゃ」
井上ひさし『吉里吉里人』が出たのは30年近く前だが、その本の装丁をするために、わたしは出版社から雑誌連載の分厚い束を持たされて外国をめぐり、先々で読んだ。
独立の理由を共通語で要約すると、「減反しろ、広域営農団地を作れ、村有林を伐(き)れ、隣の町と合併しろ、上流の工場排水のために川水が少し濁っても我慢しろ」などと「国益のため」の要求を押しつけられることだが、事情はいまもあまり変わっていない。しかしそれはまだ我慢するとしても、自分たちの使ってきた言葉が、方言というゆゆしき言語であって、これを矯正しなければ日本国人になれない。ならば、「日本人をやめるほかないんだっちゃ」という理由が大きかったらしい。
→ ここに書いてくれた内容も含めて、この本は、『ギヴァー』の中でのジョナスの行動とも相まって、私にとってはバイブル的要素をたくさん含んだ大切な本です。
この本では、「坊っちゃん」でも「雪国」でも吉里吉里語で書けることを例証し、吉里吉里語を学ぶ者のための「傾向と対策」まであって、これが無類におもしろい。山形県は丸谷才一や斎藤茂吉など言葉に関する先人が多い。ああ、わたしは著者自身の口から、「山形県知事」と「山形県地図」の発声の使い分けの困難さを実演してもらったことがある。なんと得がたい体験だったことか。
テレビの普及は共通語の普及をうながし、今や山形弁の価値の方が高くなっているからおもしろい。
→ 井上さんは、その共通語が誕生した経緯については『国語元年』というおもしろい戯曲を書いてくれています。私自身、テレビでそれを見たのを覚えていますが、とても面白かったです。
ちなみに、安野さんがタイトルに掲げているもう一人亡くなった方は、日高敏隆さんです(今年でなくて、去年)。安野さんが紹介してくれている日高さんの2冊の本は読みたくなり、早速図書館にリクエストを出しました。
なお、安野さんは連載の最後(=4回目=9月26日掲載分)を、井上ひさしさんの名言で閉じています。「難しいことを易しく、易しいことをふかく、ふかいことをおもしろく」
『吉里吉里人』にしても、『国語元年』にしても、まさしくこの言葉を実行している本ですから、とても説得力があります。
2010年9月30日木曜日
2010年9月29日水曜日
魂のランドスケープ 5
143 日々の生活に追われていると、大きな時代の流れや、世界の動きに鈍感になってしまう。日常を生きるのに都合のいい機械の一部のようになり、ものを深く考えたり、感じたりしなくなる。また社会は、組織の中の歯車の一部になることを、知らないうちに人々に要求する。
多くの情報を処理し、多くのメディアの恩恵にあずかって生きていく現代人は、遠い国の人が飢餓で苦しんでいようが、また隣の人が悲しみに打ちひしがれていようが、そうしたことに一つ一つ心を痛めている余裕がない。世界の悲惨は、毎日、日常の上にメディアを通して情報として届いてくる。しかしそれに対して自分に何ができるか、真剣に考えたり、そのことに対して深く同情したり、あるいは実際に何かをその人たちのために実践できる人はほんのわずかだろう。
144 特に日本のような安全な生活になれてしまった国では、世界の大きな動きに対して鈍感になってしまう。そのうえ、日本の生活の中の異様な慌ただしさ、忙しさは、ものを考えたり、感じたりする時間を奪ってしまう。
・・・しかし一人の人間が、生き生きと生きていくということは、その人しかわからないような感情や感覚を、深く味わっていくことではないだろうか。人を深く愛したり、自然や芸術を愛したり、自分の仕事に夢中になって働くこと。その人の時間が、密度の濃い神話的なものになるというのは、どれだけ深く自分に与えられた人生の時間を感じ、味わっていたかによるのだと思う。
146 強く希望を持つこと。時代は決して楽観的な展望では、新しく切り開かれることはないだろう。しかしだからといって、悲壮感と絶望にうちひしがれても、何も生み出すことはできないのだ。人間の善意や、美しさへの憧れを持つ心を、強く信じること。そうした信念に貫かれた力強い響きでないといけない。
→ この辺は、まさに『ギヴァー』の中で書かれていることそのままではないでしょうか?
184 空間は音楽に影響を与える。また、その逆もしかり。スペースはとても重要。
187 領域を超えた専門家がアイディアを出し合うことの大切さ。
20世紀の音楽は、音を生み出す母体としての身体や、空間(劇場)の問題をあまりにないがしろにしてきたように思われる。
→ このことは、『ギヴァー』にも言えてしまうかな~、と思ったりしました。
211 現代のように環境破壊が進み、異常気象が常に起こりつつあるような世界で、人間の内なる自然が破壊されつつあることを私は感じます。人間も自然の一部であるとしたら、人間の生み出す音楽は、最も根源的な自然の音楽なのかもしれません。現代のように、さまざまな医学の発展によって可能なかぎり死というものを見えなくしている社会の中での、人間の音楽は、その本質的な自然さを失っていくのではないか、という危惧を覚えます。こういう私の考え方は非常に古風に見えるかもしれませんが、現代の作曲家の作品に、どこか根源的な自然の力を感じられなくなっています。
212 私は、シューベルトの音楽が非常に好きなのですが、特に彼の晩年の音楽に、人間の根源的な歌、自然と深く関わっていく人間の根源語としての音楽を感じるのです...人間は、外にある自然も内なる自然も失いつつあることによって、こういった人間の歌の本質を失いつつあるのではないでしょうか。
→ ということで、最初から最後まで関連性を感じないわけにはいかない1冊でした。
多くの情報を処理し、多くのメディアの恩恵にあずかって生きていく現代人は、遠い国の人が飢餓で苦しんでいようが、また隣の人が悲しみに打ちひしがれていようが、そうしたことに一つ一つ心を痛めている余裕がない。世界の悲惨は、毎日、日常の上にメディアを通して情報として届いてくる。しかしそれに対して自分に何ができるか、真剣に考えたり、そのことに対して深く同情したり、あるいは実際に何かをその人たちのために実践できる人はほんのわずかだろう。
144 特に日本のような安全な生活になれてしまった国では、世界の大きな動きに対して鈍感になってしまう。そのうえ、日本の生活の中の異様な慌ただしさ、忙しさは、ものを考えたり、感じたりする時間を奪ってしまう。
・・・しかし一人の人間が、生き生きと生きていくということは、その人しかわからないような感情や感覚を、深く味わっていくことではないだろうか。人を深く愛したり、自然や芸術を愛したり、自分の仕事に夢中になって働くこと。その人の時間が、密度の濃い神話的なものになるというのは、どれだけ深く自分に与えられた人生の時間を感じ、味わっていたかによるのだと思う。
146 強く希望を持つこと。時代は決して楽観的な展望では、新しく切り開かれることはないだろう。しかしだからといって、悲壮感と絶望にうちひしがれても、何も生み出すことはできないのだ。人間の善意や、美しさへの憧れを持つ心を、強く信じること。そうした信念に貫かれた力強い響きでないといけない。
→ この辺は、まさに『ギヴァー』の中で書かれていることそのままではないでしょうか?
184 空間は音楽に影響を与える。また、その逆もしかり。スペースはとても重要。
187 領域を超えた専門家がアイディアを出し合うことの大切さ。
20世紀の音楽は、音を生み出す母体としての身体や、空間(劇場)の問題をあまりにないがしろにしてきたように思われる。
→ このことは、『ギヴァー』にも言えてしまうかな~、と思ったりしました。
211 現代のように環境破壊が進み、異常気象が常に起こりつつあるような世界で、人間の内なる自然が破壊されつつあることを私は感じます。人間も自然の一部であるとしたら、人間の生み出す音楽は、最も根源的な自然の音楽なのかもしれません。現代のように、さまざまな医学の発展によって可能なかぎり死というものを見えなくしている社会の中での、人間の音楽は、その本質的な自然さを失っていくのではないか、という危惧を覚えます。こういう私の考え方は非常に古風に見えるかもしれませんが、現代の作曲家の作品に、どこか根源的な自然の力を感じられなくなっています。
212 私は、シューベルトの音楽が非常に好きなのですが、特に彼の晩年の音楽に、人間の根源的な歌、自然と深く関わっていく人間の根源語としての音楽を感じるのです...人間は、外にある自然も内なる自然も失いつつあることによって、こういった人間の歌の本質を失いつつあるのではないでしょうか。
→ ということで、最初から最後まで関連性を感じないわけにはいかない1冊でした。
2010年9月28日火曜日
魂のランドスケープ 4
104 いまの日本でなかなか優れた芸術音楽が生まれないのは、まずそうした緊張感のある作品を、消費社会では誰もが求めていないことにも原因があるのかもしれない。コンビニエンス・ストアの商品のように、便利で早く手に入り、品質はともかく、その場を何とか乗り切れればそれでいい。深みのあるものなど必要ない。そういう考え方が、日本中に染みついてしまったように思う。ゆとりも余裕もない社会
→ ここでの指摘は、みごとなぐらいにすべての分野に浸透していると思います。細川さんは、日本、そしてそれを象徴する東京の虚構性というか、まがいものぶりに憤りを感じています。虚構性やまがいものという感覚は、ジョナスの住むコミュニティに対して感じることでもあります。
111 何より自分自身を、自分で造り上げた偏見の牢獄から解放すること。過去の体験で、自分を縛らないで、常に開かれた心と耳で、音楽を新しく聴き続けていくことが大切だ。
自分がどういう音楽を聴く背景を持っているのか。どういう音楽教育を受け、どのような音楽をいつも聴かされて育ったか。そして音楽とはいったい自分にとってどんな意味をもつのか。単なる娯楽なのか。それとも聴くことを通して、より深くこの世界や、宇宙について感じる媒体となるものか。そういったことを音楽を聴く前に少し考えてみる。そうすると、音楽体験はさらに豊かに新しい可能性を広げていくにちがいない。
→ この辺のことは、何の分野でも言えることですね。unlearn(間違って身につけてしまった知識や習慣を拭い去ること)の方がlearn(新しいことを学ぶ)よりもはるかに大切であると同時に、難しいということだと思います。
113 先日バリ島にはじめて行って、ガムラン音楽とダンスを見てきた...ぼくが驚いたのは、そのダンスと音楽の持っている深い静けさだった。音量的に言えば、ガムラン音楽は決して静かなものではなく、かなり賑やかなものなのだが、それがバリ島の野外に響きはじめると、ガムランの金属音は大気に溶けて、空間に見えない精霊たちの声のように、優しく優雅に漂うのだ。そしてその響きは、大地からゆっくりとたゆいながら天に昇って行く。
115 日本に帰ってきて、全国合唱音楽コンクールの優勝団体の演奏するヴィデオを見る機会があった...演奏する子どもたちの見事なアンサンブルに驚いた。一糸乱れぬ演奏というのだろうか。実に訓練が行き届いて、正確でしっかりした演奏。彼らは同じ制服を着て、真剣に歌う顔の表情まで皆よく似ている。そしてその整った演奏は、どの地方の子どもたちもよく似ている。ぼくは、子どもたちのきまじめな演奏にひかれながらも、少しずつ不安がこみあげてきた。その不安は、ちょうど軍隊の一糸乱れぬ行進を見ているときの不安といったらいいのだろうか。そういった秩序ある姿に、確かにぼくたちはある美しさを感じる。しかし、その制度化された秩序は、そこに生きている一人一人の内面の声を実現しているのだろうか。
116 日本の全国の子どもたちを教える現場で、こうした音楽の画一化が進んでいる。そしてそこで教えられる音楽も、西洋の19世紀に作られた音楽を安易にコピーした日本人の音楽が教えられている。明治以降、日本が西洋の近代音楽を取り入れてから、日本の音楽教育は駆け足で西洋近代音楽を受容することに懸命になった。その際、日本人が長い時間をかけて育てていた微妙な音感を切り捨ててきた...日本の伝統音楽が持っていた微妙なずれや揺らぎを表現する音感は、次第に忘れられていく。
現代生活を営むものの周辺に洪水のようにあふれている音楽...それらの音楽は、一様に西洋の近代に形作られた音システムに基づいている。それは、いわゆるメロディーに調性のあるハーモニーとリズムが付く音楽である...そういった商業主義は、西洋音楽そのものの姿をも歪めていく。19世紀の西洋音楽は、決してわかりやすい音楽でも、安全無害な音楽でもなかった。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シューマン、ヴァーグナーといったドイツ音楽の流れを見ただけでも、過去の伝統への挑戦と冒険の歴史だった。
117 ガムランも、日本の伝統音楽も、西洋音楽も、そのオリジンの持っていた深く微妙な世界を省みることなく、あまりに安易に流用され、至る所で安易な融合が行われていく。そして、その本来持っている姿が失われていく。
118 音の持つ微妙なニュアンスを忘れていくことは、ぼくたちの持つ固有の言語や文化を失っていくことにつながるだろう。現代のように、簡単に世界中の音楽が聴ける状況にあると、ぼくたちはそれをあまりに表層のレヴェルで捉えて、その音楽の背景や、深層を捉えようとしない。異文化とのほんとうの「出会い」と「融合」は、その文化を徹底的に知って、その深層と出会うことによって、自分自身を客体化し、そして自分の文化をより深く知ることを促す。そしてその出会いが、かつてなかった新しい次元へ自分自身を押し上げるような形で行われたときに、本当の意味のある出来事となるだろう。
→ 113~118ページに書かれている指摘は、とても重いものがあると思いました。
→ ここでの指摘は、みごとなぐらいにすべての分野に浸透していると思います。細川さんは、日本、そしてそれを象徴する東京の虚構性というか、まがいものぶりに憤りを感じています。虚構性やまがいものという感覚は、ジョナスの住むコミュニティに対して感じることでもあります。
111 何より自分自身を、自分で造り上げた偏見の牢獄から解放すること。過去の体験で、自分を縛らないで、常に開かれた心と耳で、音楽を新しく聴き続けていくことが大切だ。
自分がどういう音楽を聴く背景を持っているのか。どういう音楽教育を受け、どのような音楽をいつも聴かされて育ったか。そして音楽とはいったい自分にとってどんな意味をもつのか。単なる娯楽なのか。それとも聴くことを通して、より深くこの世界や、宇宙について感じる媒体となるものか。そういったことを音楽を聴く前に少し考えてみる。そうすると、音楽体験はさらに豊かに新しい可能性を広げていくにちがいない。
→ この辺のことは、何の分野でも言えることですね。unlearn(間違って身につけてしまった知識や習慣を拭い去ること)の方がlearn(新しいことを学ぶ)よりもはるかに大切であると同時に、難しいということだと思います。
113 先日バリ島にはじめて行って、ガムラン音楽とダンスを見てきた...ぼくが驚いたのは、そのダンスと音楽の持っている深い静けさだった。音量的に言えば、ガムラン音楽は決して静かなものではなく、かなり賑やかなものなのだが、それがバリ島の野外に響きはじめると、ガムランの金属音は大気に溶けて、空間に見えない精霊たちの声のように、優しく優雅に漂うのだ。そしてその響きは、大地からゆっくりとたゆいながら天に昇って行く。
115 日本に帰ってきて、全国合唱音楽コンクールの優勝団体の演奏するヴィデオを見る機会があった...演奏する子どもたちの見事なアンサンブルに驚いた。一糸乱れぬ演奏というのだろうか。実に訓練が行き届いて、正確でしっかりした演奏。彼らは同じ制服を着て、真剣に歌う顔の表情まで皆よく似ている。そしてその整った演奏は、どの地方の子どもたちもよく似ている。ぼくは、子どもたちのきまじめな演奏にひかれながらも、少しずつ不安がこみあげてきた。その不安は、ちょうど軍隊の一糸乱れぬ行進を見ているときの不安といったらいいのだろうか。そういった秩序ある姿に、確かにぼくたちはある美しさを感じる。しかし、その制度化された秩序は、そこに生きている一人一人の内面の声を実現しているのだろうか。
116 日本の全国の子どもたちを教える現場で、こうした音楽の画一化が進んでいる。そしてそこで教えられる音楽も、西洋の19世紀に作られた音楽を安易にコピーした日本人の音楽が教えられている。明治以降、日本が西洋の近代音楽を取り入れてから、日本の音楽教育は駆け足で西洋近代音楽を受容することに懸命になった。その際、日本人が長い時間をかけて育てていた微妙な音感を切り捨ててきた...日本の伝統音楽が持っていた微妙なずれや揺らぎを表現する音感は、次第に忘れられていく。
現代生活を営むものの周辺に洪水のようにあふれている音楽...それらの音楽は、一様に西洋の近代に形作られた音システムに基づいている。それは、いわゆるメロディーに調性のあるハーモニーとリズムが付く音楽である...そういった商業主義は、西洋音楽そのものの姿をも歪めていく。19世紀の西洋音楽は、決してわかりやすい音楽でも、安全無害な音楽でもなかった。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シューマン、ヴァーグナーといったドイツ音楽の流れを見ただけでも、過去の伝統への挑戦と冒険の歴史だった。
117 ガムランも、日本の伝統音楽も、西洋音楽も、そのオリジンの持っていた深く微妙な世界を省みることなく、あまりに安易に流用され、至る所で安易な融合が行われていく。そして、その本来持っている姿が失われていく。
118 音の持つ微妙なニュアンスを忘れていくことは、ぼくたちの持つ固有の言語や文化を失っていくことにつながるだろう。現代のように、簡単に世界中の音楽が聴ける状況にあると、ぼくたちはそれをあまりに表層のレヴェルで捉えて、その音楽の背景や、深層を捉えようとしない。異文化とのほんとうの「出会い」と「融合」は、その文化を徹底的に知って、その深層と出会うことによって、自分自身を客体化し、そして自分の文化をより深く知ることを促す。そしてその出会いが、かつてなかった新しい次元へ自分自身を押し上げるような形で行われたときに、本当の意味のある出来事となるだろう。
→ 113~118ページに書かれている指摘は、とても重いものがあると思いました。
2010年9月27日月曜日
魂のランドスケープ 3
72 ぼくがヨーロッパ音楽の中で最も惹かれるのは、その深く観想的な世界である。中世の宗教音楽ばかりでなく、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトといった人たちの中にも深く流れている観想的な世界。ベートーヴェンの最後の弦楽四重奏やピアノソナタの中に流れる、観想的、瞑想的な世界は、ぼくにとって音楽を聴く最も大きな喜びである。観想的とは、現実で捉える世界の枠組みがはずれて、より根源的な宇宙の中に素材が解体され、その本来のエネルギーが泉のように流れ始める様を、ぼくは考えている。音楽が、その人の自己を越えてより深いものとかかわり合いながら、流れ始める瞬間といったらいいのだろうか。ぼくは音楽にそういった時間を求めている。どんなによくかけた音楽も、そうした観想的な世界のない音楽は、ぼくには退屈なのである。
仏教のお坊さんも雅楽の演奏家たちも、舞台の上に座っただけで、存在感がある。深く観想的で、深い静けさを持っている。そこから、千年にわたって伝えられてきた声が響き始める。日本というものに愛想をつかして、日本から離れようとしてヨーロッパに出てきたぼくだが、この日本のお坊さんたちの深く自分に根を下ろした存在と、彼らの存在の奥からの響きである声には、強く感動した。
→ この辺は、なんとコメントしていいかわかりませんが、とてもいいというか、共感できると思いました。
82 歌は、時間と空間を生み出していく。生きていく場所を獲得し、自分の存在を主張する。小鳥が歌うのは、自分の生きる縄張り(テリトリー)を獲得することであり、また他の鳥への求愛のポーズでもあるという。
音楽は、いやおうなしに相手の空間を占領してしまう力がある。絵画や彫刻のように、目をそらせば作品を拒否することができるわけではない。音楽は人を包み込み、ある一定の時間はその内に人を占領する。
世界中がメディアの発展で、けたたましく音をまき散らしているのは、誰もが自分をアピールしようとして、また他者の気を引こうとして音を利用するためだ。
音楽を書いていくことは、自分を主張するエゴイスティックな欲望があるに違いない。しかしぼくは、できたらそうしたエゴを越えた、自己(セルフ)の発見につながる道を音楽を通して見つけていきたい。
自分の生み出す音楽が、単に自分の感情の表現に終わらず、そうした感情をより高い感情に高め、浄化した世界を持ったものであってほしい。
83 日本の普通の音楽のレベルの低さ → 日本の演歌や歌謡曲は、人を少しも変化させることがない。
小鳥たちは求愛のために歌を歌うといったが、音楽のほんとうに気高い歌は、人間を越えたものへの憧れの形を持っているのだろう。
84 深い静けさを孕んだ音楽、海のそこのような深い沈黙を内に抱えた音楽が書きたい...世界の喧騒を吸い込んでしまうような力強い音楽空間があることを信じたいのである。
現代の多くの人が、注意深く音を、また音楽を聴いていないのは残念なことだ。しかし世界中に氾濫している音を一つ一つていねいに聞いていたら、神経が麻痺してしまうだろう。今の時代は、音を聴かない訓練を、誰もがしなければいけないのだろうか。
京都の石庭に行くと、その庭の説明と尺八音楽が、きわめて悪質な音でスピーカーから流れている。石庭の静けさはどこにいったのだろう。その庭の孕んでいる謎と神秘はどこにあるのか。説明できない部分、その余白の部分にこそ、その庭の美しさの秘密があるのはないのか。どうして日本人は何もかも、親切に説明したがるのだろう。大切なことを玉って味わうことはできないのだろうか。
禅の教える、すべての説明を拒む厳しい精神はもう死んでしまったのか。そして常に根源的な場所へ還っていくための力強い否定はどこにあるのだろう。
→ 現代人も、ジョナスのコミュニティの住民と同じように、かなり危ない状況におかれつつあるということ。
91 芸術家が自己満足をはじめるとおしまいだ。
日本から本当に新しい音楽芸術が生まれないのは、ぼくたちが本当の意味での批評精神を持っていないからだろう。
→ 批評精神が求められるのは音楽の世界の中だけでなく、すべての世界でそうだと思います。政治の世界などは皆無に等しいので、それこそひどい状態が続いているんだと思います。そういう意味では、『ギヴァー』のコミュニティとすでに同じ状況ができあがっているとしか言いようがない感じです。
仏教のお坊さんも雅楽の演奏家たちも、舞台の上に座っただけで、存在感がある。深く観想的で、深い静けさを持っている。そこから、千年にわたって伝えられてきた声が響き始める。日本というものに愛想をつかして、日本から離れようとしてヨーロッパに出てきたぼくだが、この日本のお坊さんたちの深く自分に根を下ろした存在と、彼らの存在の奥からの響きである声には、強く感動した。
→ この辺は、なんとコメントしていいかわかりませんが、とてもいいというか、共感できると思いました。
82 歌は、時間と空間を生み出していく。生きていく場所を獲得し、自分の存在を主張する。小鳥が歌うのは、自分の生きる縄張り(テリトリー)を獲得することであり、また他の鳥への求愛のポーズでもあるという。
音楽は、いやおうなしに相手の空間を占領してしまう力がある。絵画や彫刻のように、目をそらせば作品を拒否することができるわけではない。音楽は人を包み込み、ある一定の時間はその内に人を占領する。
世界中がメディアの発展で、けたたましく音をまき散らしているのは、誰もが自分をアピールしようとして、また他者の気を引こうとして音を利用するためだ。
音楽を書いていくことは、自分を主張するエゴイスティックな欲望があるに違いない。しかしぼくは、できたらそうしたエゴを越えた、自己(セルフ)の発見につながる道を音楽を通して見つけていきたい。
自分の生み出す音楽が、単に自分の感情の表現に終わらず、そうした感情をより高い感情に高め、浄化した世界を持ったものであってほしい。
83 日本の普通の音楽のレベルの低さ → 日本の演歌や歌謡曲は、人を少しも変化させることがない。
小鳥たちは求愛のために歌を歌うといったが、音楽のほんとうに気高い歌は、人間を越えたものへの憧れの形を持っているのだろう。
84 深い静けさを孕んだ音楽、海のそこのような深い沈黙を内に抱えた音楽が書きたい...世界の喧騒を吸い込んでしまうような力強い音楽空間があることを信じたいのである。
現代の多くの人が、注意深く音を、また音楽を聴いていないのは残念なことだ。しかし世界中に氾濫している音を一つ一つていねいに聞いていたら、神経が麻痺してしまうだろう。今の時代は、音を聴かない訓練を、誰もがしなければいけないのだろうか。
京都の石庭に行くと、その庭の説明と尺八音楽が、きわめて悪質な音でスピーカーから流れている。石庭の静けさはどこにいったのだろう。その庭の孕んでいる謎と神秘はどこにあるのか。説明できない部分、その余白の部分にこそ、その庭の美しさの秘密があるのはないのか。どうして日本人は何もかも、親切に説明したがるのだろう。大切なことを玉って味わうことはできないのだろうか。
禅の教える、すべての説明を拒む厳しい精神はもう死んでしまったのか。そして常に根源的な場所へ還っていくための力強い否定はどこにあるのだろう。
→ 現代人も、ジョナスのコミュニティの住民と同じように、かなり危ない状況におかれつつあるということ。
91 芸術家が自己満足をはじめるとおしまいだ。
日本から本当に新しい音楽芸術が生まれないのは、ぼくたちが本当の意味での批評精神を持っていないからだろう。
→ 批評精神が求められるのは音楽の世界の中だけでなく、すべての世界でそうだと思います。政治の世界などは皆無に等しいので、それこそひどい状態が続いているんだと思います。そういう意味では、『ギヴァー』のコミュニティとすでに同じ状況ができあがっているとしか言いようがない感じです。
2010年9月26日日曜日
魂のランドスケープ 2
昨夜、和楽器のAUN J Concertがモンサンミシェル(世界遺産の中でも最も人気のあるフランスの教会)であったという番組を見ました。細川さんなら、どうコメントするのかなと、ふと思いつつ。
56 音楽の表現は微妙で無限である。その微妙な表現は、私たちが生きていく上で経験するさまざまな感情や感覚と共鳴しあい、より深く私たちが世界とふれあうことを促してくれる。私たちの感受性は、より豊かに繊細に変化していく。
57 音楽の喜びは、私たちが思い描いている世界、習慣にがんじがらめになっている世界を変化させ、まだ知らなかった新しい世界を、「聴くこと」を通して体験することだ。それは自分の中に埋もれていた知覚を刺激し、自分の中に眠っている宇宙的な感覚、リズム、響きを呼び覚ます。
→ 吉野弘さんの「詩」と同じですね。
その意味では、詩が誰でも作れるように、音楽も誰でも作れるような教育はとても大切な気がします。私は、残念ながらどちらも受けていません。というか、私の側に問題があったのかもしれません。教えてくれていたにもかかわらず、私の方がそれを受け取っていなかった、ということで。
59 音楽を聴くことは、単にその人の感情生活を豊かにするばかりでなく、私たちが生きていく上での、世界への関わりを根本的に深めてくれる。虚心になって、音楽を、音を聴く人は、他者からの声を、言葉を深く聴くことだろう。そして私たちの周りに響く自然の声にも、かつまた自分自身の内なる声にも耳を澄ますことができるだろう。聴くことを深めていくことによって、私たちはほんとうの「静けさ」を自分のうちに見いだし、そこからさらに、自分自身の声と言葉を見つけていくことへ歩み始める。
→ 作り出さなくても、聴けるようにすることだけでも価値があるのかもしれません。
65 私は日本の伝統音楽の声明や雅楽、そして能楽と関わることで、それらの音楽のもつ美しさに自分の感覚が深く共鳴していくようになった。とはいえ、私は西洋の偉大な作曲家たちの音楽に向かうように、身も心も日本の音楽にひかれるということはなった。日本の音楽には、何か閉じたもの、閉鎖的な世界を感じてしまう。
それはなぜだろう。日本の音楽には、どうしてもその音楽が生まれた社会との関わりを強く感じてしまう。そしてその社会は、私にとってきわめて閉鎖的で封建的な社会なのである。
音楽を求めること、それはそうした閉鎖的な古い人間から解放されて、より自由な世界を摑むことではないのか。がんじがらめになった人間関係を越えて、響きわたるのがほんとうの音楽ではないか。日常の響きを越えて、より高い次元で宇宙に響くのが音楽ではないのか。そういう音楽の形を日本の音楽伝統は知らなかったのではないか。
66 ヨーロッパの高い芸術音楽が響きわたる時空には、生きることの深い喜びと悲しみが同時に存在する。そこでは、喜びを熱狂的にお祭り気分にして騒いだり、悲しみをおどろおどろしく表現することは退けられる。そこには透明な色調が常に流れている。
日本の音楽の格調の高い独自な世界が、どのようにしたら閉鎖的な世界を越えて、もっと豊かで自由な表現を生みでしていけるのだろうか。
→ 細川さんの悩みは、ジョナスの悩みにとても近いと思ってしまいました。
また、音楽の分野に限らず、似たような感覚を持っている人は少なくないのではとも思いました。
71 音楽は、演奏する人と、主体的に聴く人とが、共に作っていくのだろう。
→ 書くこと、読むこと、話すこと、聞くことも、同じ気がします。 芸術は皆そう。詩も、絵も、彫刻も。考えることも、生きることも? スポーツも?
56 音楽の表現は微妙で無限である。その微妙な表現は、私たちが生きていく上で経験するさまざまな感情や感覚と共鳴しあい、より深く私たちが世界とふれあうことを促してくれる。私たちの感受性は、より豊かに繊細に変化していく。
57 音楽の喜びは、私たちが思い描いている世界、習慣にがんじがらめになっている世界を変化させ、まだ知らなかった新しい世界を、「聴くこと」を通して体験することだ。それは自分の中に埋もれていた知覚を刺激し、自分の中に眠っている宇宙的な感覚、リズム、響きを呼び覚ます。
→ 吉野弘さんの「詩」と同じですね。
その意味では、詩が誰でも作れるように、音楽も誰でも作れるような教育はとても大切な気がします。私は、残念ながらどちらも受けていません。というか、私の側に問題があったのかもしれません。教えてくれていたにもかかわらず、私の方がそれを受け取っていなかった、ということで。
59 音楽を聴くことは、単にその人の感情生活を豊かにするばかりでなく、私たちが生きていく上での、世界への関わりを根本的に深めてくれる。虚心になって、音楽を、音を聴く人は、他者からの声を、言葉を深く聴くことだろう。そして私たちの周りに響く自然の声にも、かつまた自分自身の内なる声にも耳を澄ますことができるだろう。聴くことを深めていくことによって、私たちはほんとうの「静けさ」を自分のうちに見いだし、そこからさらに、自分自身の声と言葉を見つけていくことへ歩み始める。
→ 作り出さなくても、聴けるようにすることだけでも価値があるのかもしれません。
65 私は日本の伝統音楽の声明や雅楽、そして能楽と関わることで、それらの音楽のもつ美しさに自分の感覚が深く共鳴していくようになった。とはいえ、私は西洋の偉大な作曲家たちの音楽に向かうように、身も心も日本の音楽にひかれるということはなった。日本の音楽には、何か閉じたもの、閉鎖的な世界を感じてしまう。
それはなぜだろう。日本の音楽には、どうしてもその音楽が生まれた社会との関わりを強く感じてしまう。そしてその社会は、私にとってきわめて閉鎖的で封建的な社会なのである。
音楽を求めること、それはそうした閉鎖的な古い人間から解放されて、より自由な世界を摑むことではないのか。がんじがらめになった人間関係を越えて、響きわたるのがほんとうの音楽ではないか。日常の響きを越えて、より高い次元で宇宙に響くのが音楽ではないのか。そういう音楽の形を日本の音楽伝統は知らなかったのではないか。
66 ヨーロッパの高い芸術音楽が響きわたる時空には、生きることの深い喜びと悲しみが同時に存在する。そこでは、喜びを熱狂的にお祭り気分にして騒いだり、悲しみをおどろおどろしく表現することは退けられる。そこには透明な色調が常に流れている。
日本の音楽の格調の高い独自な世界が、どのようにしたら閉鎖的な世界を越えて、もっと豊かで自由な表現を生みでしていけるのだろうか。
→ 細川さんの悩みは、ジョナスの悩みにとても近いと思ってしまいました。
また、音楽の分野に限らず、似たような感覚を持っている人は少なくないのではとも思いました。
71 音楽は、演奏する人と、主体的に聴く人とが、共に作っていくのだろう。
→ 書くこと、読むこと、話すこと、聞くことも、同じ気がします。 芸術は皆そう。詩も、絵も、彫刻も。考えることも、生きることも? スポーツも?
2010年9月25日土曜日
『ギヴァー』と関連のある本 44
前回の「詩」の後は、「音楽」です。
本のタイトルは、『魂のランドスケープ』。書いた人は、日本を代表する作曲家の細川俊夫さん。
この本を最初に手にしたときに、『ギヴァー』との接点がこんなに見出せる本とは思っていませんでした。メモを取った量もかなりなので、関連するところに切り詰めたうえで、5回ぐらいに分けて紹介していきます。(数字は、ページ数です)
詩の本との違いは、詩の本の方はなんとか読んだり、書き始める動機づけになっていますが、音楽の方は私にとってははるかにハードルが高いです。でも、聴くこと、観ることはやっていこうと思います。
12 世界の中で日本人ほど、自然への畏敬を失い、自然を無神経に破壊していく民族も少ないだろう。自然を大切にしない民族は、文化を大切にしない。現在の日本にあって、音と自然、そして人間と音との豊かなあり方を追究していくのは難しい。
16~7 「さわり」「触る」「障り」の排除。人間のもつ自然さ、野生、弱さ、障害、困難、ノイズを切り捨ててきた。そしてその結果、科学の進歩と共に人間社会はさまざまな便利さと合理化を獲得したと同時に、自然破壊や公害、人間の疎外といった問題を抱えるようになった。
→ 大切なものを失っているのは、ジョナスのコミュニティだけでなくて、すでに日本、そして世界も同じのようです。
28 景色は、当然絵に影響を及ぼす。 しかし、音楽にも影響を及ぼす。
33 空間の質 ~ 住む人の精神 ニューヨークの街中で修道女たちが住む空間 = 別世界
→ 視覚や聴覚だけでなく、あらゆる感覚に言えること。その意味では、色のないジョナスのコミュニティでは絵画や音楽をはじめ多くの芸術と共に、感覚的なもののほとんどをすでに失っている気がします。
「精神」という言葉が、相変わらず分からないままが続いています。「こころ」と置き換えると、分かったような気にはなれますが、ピシャッとはまる感じはしません。
44 自分自身の音楽への取り組みについて ~ 「私の音楽の出発点は、日本で禅を学んでおられる神父さんにこんなヒントをいただいたことから始まった。それは、書道をするとき、彼はいきなり白い紙に線を描くことをせずに虚空の一点に焦点を定め、その一点から運動を起こし、そして紙の上を通ってまたその一点に帰ってくる。そのとき、目に見える白紙に残された「線」は全体の線運動の一部にすぎない。目に見える世界、耳に聴こえる世界は、世界の一パートにすぎない。私の音楽は空間への、また時間への書道(カリグラフィー)であり、聴こえてくる音は、その目に見える「線」の部分だろう。そして聴こえる世界は、聴こえない世界の一部分にすぎない。そのような音楽を創りたいと思っている。」
45 「またそのことは、私のものの捉え方のすべてにかかわってくる。私がここに生きているということは、私の力では動かしがたい目に見えない力が私の背景で私を支えているということだろう。私は、いつもその力を感じて生きていきたい。そして、より深くその力を感じることができるために、また、そういった世界を表現し、暗示するために私は音楽を書いているのかもしれない。私はいつも生の余白、音楽の余白、そして言葉の余白をより深く感じて生きたい。そうするためには、私自身が空白の余白になること。つまり私の存在のうちに潜む目に見えない空白の力を感じるために、自身の沈黙を深めていかねばならない。沈黙し、耳を傾けること。語る前に黙ることを学ばねばならない。自分の内なる声を、そして他者の声を「聴くこと」が音楽家としての最初のステップだと思っている。」
→ ほとんど禅僧という感じです! しかし、芸術にかかわる人たちはこのような感覚を持った人が少なくないことは事実のようです。たとえば、彫刻家は木に語らせる、という感じで。
51 芭蕉の句に「構造」「仕掛け」があるからである。そしてそれが、創造ということだろう。
→ 細川さんは、芭蕉の句は言葉と「構造」と「仕掛け」によって創り出されるものと捉えていますが、音楽は「言葉のない言葉」です(46ページ)。そして、音楽が「私たちの内に眠り、埋もれつつある感性を呼び覚ます。そして私たちの習慣化し惰性となった人間関係を、生き生きとした豊かなものへ変化させていく」役割を担えるものにしていきたいという願いがあるようです(47ページ)。
本のタイトルは、『魂のランドスケープ』。書いた人は、日本を代表する作曲家の細川俊夫さん。
この本を最初に手にしたときに、『ギヴァー』との接点がこんなに見出せる本とは思っていませんでした。メモを取った量もかなりなので、関連するところに切り詰めたうえで、5回ぐらいに分けて紹介していきます。(数字は、ページ数です)
詩の本との違いは、詩の本の方はなんとか読んだり、書き始める動機づけになっていますが、音楽の方は私にとってははるかにハードルが高いです。でも、聴くこと、観ることはやっていこうと思います。
12 世界の中で日本人ほど、自然への畏敬を失い、自然を無神経に破壊していく民族も少ないだろう。自然を大切にしない民族は、文化を大切にしない。現在の日本にあって、音と自然、そして人間と音との豊かなあり方を追究していくのは難しい。
16~7 「さわり」「触る」「障り」の排除。人間のもつ自然さ、野生、弱さ、障害、困難、ノイズを切り捨ててきた。そしてその結果、科学の進歩と共に人間社会はさまざまな便利さと合理化を獲得したと同時に、自然破壊や公害、人間の疎外といった問題を抱えるようになった。
→ 大切なものを失っているのは、ジョナスのコミュニティだけでなくて、すでに日本、そして世界も同じのようです。
28 景色は、当然絵に影響を及ぼす。 しかし、音楽にも影響を及ぼす。
33 空間の質 ~ 住む人の精神 ニューヨークの街中で修道女たちが住む空間 = 別世界
→ 視覚や聴覚だけでなく、あらゆる感覚に言えること。その意味では、色のないジョナスのコミュニティでは絵画や音楽をはじめ多くの芸術と共に、感覚的なもののほとんどをすでに失っている気がします。
「精神」という言葉が、相変わらず分からないままが続いています。「こころ」と置き換えると、分かったような気にはなれますが、ピシャッとはまる感じはしません。
44 自分自身の音楽への取り組みについて ~ 「私の音楽の出発点は、日本で禅を学んでおられる神父さんにこんなヒントをいただいたことから始まった。それは、書道をするとき、彼はいきなり白い紙に線を描くことをせずに虚空の一点に焦点を定め、その一点から運動を起こし、そして紙の上を通ってまたその一点に帰ってくる。そのとき、目に見える白紙に残された「線」は全体の線運動の一部にすぎない。目に見える世界、耳に聴こえる世界は、世界の一パートにすぎない。私の音楽は空間への、また時間への書道(カリグラフィー)であり、聴こえてくる音は、その目に見える「線」の部分だろう。そして聴こえる世界は、聴こえない世界の一部分にすぎない。そのような音楽を創りたいと思っている。」
45 「またそのことは、私のものの捉え方のすべてにかかわってくる。私がここに生きているということは、私の力では動かしがたい目に見えない力が私の背景で私を支えているということだろう。私は、いつもその力を感じて生きていきたい。そして、より深くその力を感じることができるために、また、そういった世界を表現し、暗示するために私は音楽を書いているのかもしれない。私はいつも生の余白、音楽の余白、そして言葉の余白をより深く感じて生きたい。そうするためには、私自身が空白の余白になること。つまり私の存在のうちに潜む目に見えない空白の力を感じるために、自身の沈黙を深めていかねばならない。沈黙し、耳を傾けること。語る前に黙ることを学ばねばならない。自分の内なる声を、そして他者の声を「聴くこと」が音楽家としての最初のステップだと思っている。」
→ ほとんど禅僧という感じです! しかし、芸術にかかわる人たちはこのような感覚を持った人が少なくないことは事実のようです。たとえば、彫刻家は木に語らせる、という感じで。
51 芭蕉の句に「構造」「仕掛け」があるからである。そしてそれが、創造ということだろう。
→ 細川さんは、芭蕉の句は言葉と「構造」と「仕掛け」によって創り出されるものと捉えていますが、音楽は「言葉のない言葉」です(46ページ)。そして、音楽が「私たちの内に眠り、埋もれつつある感性を呼び覚ます。そして私たちの習慣化し惰性となった人間関係を、生き生きとした豊かなものへ変化させていく」役割を担えるものにしていきたいという願いがあるようです(47ページ)。
2010年9月21日火曜日
『ギヴァー』と関連のある本 43
前回に続いて「詩」です。
今回のは、『クヌギおやじの百万年』工藤直子・詩、今森光彦・写真です。
ジョナスのコミュニティを、世界の、そして宇宙の一部として延々と受け継がれてきた(記憶も受け継がれてきた)ではあるのですが、この本の詩や写真で描かれている部分はすでに消えてしまっていると思うのです。
しかし、ジョナスはコミュニティを離れ、「いずこ」に向かって進む中で、川や森や鳥や動物たちを見ました。ジョナスのコミュニティからはなくなって久しいものが、まだ存在しているところがあることに、ジョナスは驚きました。
私自身もまだよくわかっていないのですが、『ギヴァー』の続編的な本は2冊あるのですが、現時点では3冊目のシリーズ最後の本の影の主役はひょっとしたら「森」なのかもしれません。(それを読んだ時は、そんなふうには解釈していなかったのですが、今回の詩と写真を読み、そしてその本と『ギヴァー』との関連を考えたことで、いま始めてフッと思ったことです。)
追加: 同じ工藤直子の『おはつ』に書かれている詩や写っている写真の光景も、ジョナスのコミュニティにはないんだろな~、と思ってしまいました。動植物の存在自体が、かなり管理されている社会では想像できませんから。動植物が管理されていて、人間だけが自由であり続けられることが果たして可能なのか、とも思ってしまいます。
今回のは、『クヌギおやじの百万年』工藤直子・詩、今森光彦・写真です。
ジョナスのコミュニティを、世界の、そして宇宙の一部として延々と受け継がれてきた(記憶も受け継がれてきた)ではあるのですが、この本の詩や写真で描かれている部分はすでに消えてしまっていると思うのです。
しかし、ジョナスはコミュニティを離れ、「いずこ」に向かって進む中で、川や森や鳥や動物たちを見ました。ジョナスのコミュニティからはなくなって久しいものが、まだ存在しているところがあることに、ジョナスは驚きました。
私自身もまだよくわかっていないのですが、『ギヴァー』の続編的な本は2冊あるのですが、現時点では3冊目のシリーズ最後の本の影の主役はひょっとしたら「森」なのかもしれません。(それを読んだ時は、そんなふうには解釈していなかったのですが、今回の詩と写真を読み、そしてその本と『ギヴァー』との関連を考えたことで、いま始めてフッと思ったことです。)
追加: 同じ工藤直子の『おはつ』に書かれている詩や写っている写真の光景も、ジョナスのコミュニティにはないんだろな~、と思ってしまいました。動植物の存在自体が、かなり管理されている社会では想像できませんから。動植物が管理されていて、人間だけが自由であり続けられることが果たして可能なのか、とも思ってしまいます。
2010年9月17日金曜日
『ギヴァー』と関連のある本 42
今日は、『詩の楽しみ』吉野弘著との関連です。
この本は、もちろん詩はどういうふうにして作れるのかな、という興味・関心で手に取ったのですが、いつもの常で読んでいる最中、私の頭の中の20分の1か2は『ギヴァー』の視点が占めています。
以下、私が『ギヴァー』との関連で読み取ったことを紹介します。(詩にこだわりがある人にとっては、いい迷惑かもしれませんが、詩をつくる方法=思考する方法=行動を起こす方法という関係にあることだけは確かなように思えました。もちろん、詩の場合は、言葉の表現を使ってアクションを起こしているとも取れます。)
2 詩とは、“言葉で、新しくとらえられた、対象(意識と事物)の一面である”が私の定義。
詩は、誰でも書くことができます。詩は、誰の前にも平等に開かれています。
→ 行動(その前提になる思考)も、“言葉で、新しくとらえられた、対象(意識と事物)の一面である”と言えると思うのですが...まさに、ジョナスのアクションによって示されたように。
8 私たちがある対象を歌ったり描いたりするのは、その対象への関心があるからですが、その関心が働く限り、新しい見方は無限に可能になり、詩が生まれる可能性もあるというわけです。
→ 芸術一般に言えることですが、話すこと、書くこと、考えること、そして行動することについても言えちゃいますね。上のことを、下ではさらに詳しく説明してくれています。まさに、「関心やこだわりの強さ・深さの反映」だということも同じだと思います。
14 ある対象を個性的にほめるというのが、詩の(文学の、と言ってもいいでしょう)方法だといえるでしょう。個性的にということは、定石に頼らずに、その人の流儀で、その人のほめ方で、ということです。
私には、表現とは対象をほめることだという考え方があります。対象に惚れこむことです。対象は何でもいいのです。心惹かれた対象をほめようと思い、それを明確に意識の中に持ちこもうとしたり、他者に伝達しようとするとき、私たちにできる最高のことは、それを、すでに言われた表現方法によってではなく、個性的に行うということです。それが“詩の方法”です。
表現の面白さは、関心の強さ・深さの反映です。
Ⅳ 私が詩を書きたくなるとき
168 それまでの私のものの見方や感じ方に“揺れ”ないし“ずれ”が生じて新しいことに気づこうとしている状態、あるいは、それまで漠然としてわからなかったことの意味に気づく状態= 固定観念(決まりきった物の見方・感じ方・やり方)のズレ現象が起こったとき。
→ “揺れ”“ずれ”“気づき”“固定観念のズレ現象”、どれも新たな行動に不可欠な要素だと思います。198ページには、“無知(の認識?)”と“好奇心”も加えられています。
194 めしべとおしべの大きさの違いは、自花受粉を困難にさせ、虫、風、水等の媒体を通した受粉を容易にさせるシステム → 他者の存在の大切さを認識
→ 何よりも、こういう気づきから詩が生まれることに驚いたのですが...
ジョナスのコミュニティでは、他者の存在がないので、誰も気づけない、揺れない、ずれない、好奇心がもてない状態が続いています。ジョナスだけはギヴァーという他者(仲介者)を得ることで、“揺れ”“ずれ”“気づき”“固定観念のズレ現象”が起こったり、“無知(の認識?)”“好奇心”をもつことができました。
私たちには「他者」がいるでしょうか?
この本は、もちろん詩はどういうふうにして作れるのかな、という興味・関心で手に取ったのですが、いつもの常で読んでいる最中、私の頭の中の20分の1か2は『ギヴァー』の視点が占めています。
以下、私が『ギヴァー』との関連で読み取ったことを紹介します。(詩にこだわりがある人にとっては、いい迷惑かもしれませんが、詩をつくる方法=思考する方法=行動を起こす方法という関係にあることだけは確かなように思えました。もちろん、詩の場合は、言葉の表現を使ってアクションを起こしているとも取れます。)
2 詩とは、“言葉で、新しくとらえられた、対象(意識と事物)の一面である”が私の定義。
詩は、誰でも書くことができます。詩は、誰の前にも平等に開かれています。
→ 行動(その前提になる思考)も、“言葉で、新しくとらえられた、対象(意識と事物)の一面である”と言えると思うのですが...まさに、ジョナスのアクションによって示されたように。
8 私たちがある対象を歌ったり描いたりするのは、その対象への関心があるからですが、その関心が働く限り、新しい見方は無限に可能になり、詩が生まれる可能性もあるというわけです。
→ 芸術一般に言えることですが、話すこと、書くこと、考えること、そして行動することについても言えちゃいますね。上のことを、下ではさらに詳しく説明してくれています。まさに、「関心やこだわりの強さ・深さの反映」だということも同じだと思います。
14 ある対象を個性的にほめるというのが、詩の(文学の、と言ってもいいでしょう)方法だといえるでしょう。個性的にということは、定石に頼らずに、その人の流儀で、その人のほめ方で、ということです。
私には、表現とは対象をほめることだという考え方があります。対象に惚れこむことです。対象は何でもいいのです。心惹かれた対象をほめようと思い、それを明確に意識の中に持ちこもうとしたり、他者に伝達しようとするとき、私たちにできる最高のことは、それを、すでに言われた表現方法によってではなく、個性的に行うということです。それが“詩の方法”です。
表現の面白さは、関心の強さ・深さの反映です。
Ⅳ 私が詩を書きたくなるとき
168 それまでの私のものの見方や感じ方に“揺れ”ないし“ずれ”が生じて新しいことに気づこうとしている状態、あるいは、それまで漠然としてわからなかったことの意味に気づく状態= 固定観念(決まりきった物の見方・感じ方・やり方)のズレ現象が起こったとき。
→ “揺れ”“ずれ”“気づき”“固定観念のズレ現象”、どれも新たな行動に不可欠な要素だと思います。198ページには、“無知(の認識?)”と“好奇心”も加えられています。
194 めしべとおしべの大きさの違いは、自花受粉を困難にさせ、虫、風、水等の媒体を通した受粉を容易にさせるシステム → 他者の存在の大切さを認識
→ 何よりも、こういう気づきから詩が生まれることに驚いたのですが...
ジョナスのコミュニティでは、他者の存在がないので、誰も気づけない、揺れない、ずれない、好奇心がもてない状態が続いています。ジョナスだけはギヴァーという他者(仲介者)を得ることで、“揺れ”“ずれ”“気づき”“固定観念のズレ現象”が起こったり、“無知(の認識?)”“好奇心”をもつことができました。
私たちには「他者」がいるでしょうか?
2010年9月15日水曜日
『ギヴァー』と関連のある本 41
『仕事ってなんだろう』(佼成出版社)です。
これは、「子どもだって哲学」シリーズの第5巻で、5人の著者が書いています。
私が読んだのは、矢崎節夫さん。他の4人は読んでいません。
シリーズの他の巻は、お馴染みの『ギヴァー』のテーマでもある①いのち、②自分、③家族、④愛を扱っていますが、いまはちょっと読む気がしません。もし読まれた方は、ぜひ『ギヴァー』との関連を教えてください。
矢崎さんは、童謡や童話を書いたり、詩を編集したり(書いてもいたかな?)する仕事をしている人ですが、あの金子みすゞの紹介者として有名な人です。
矢崎さんは、「小学校3年までのぼくは、本を読むことよりは外で遊ぶのが大好きな子どもでした。学校は休み時間と体育の時間と給食の時間のためにだけ、行っていたといっていいでしょう」と書いています。これは、私も同じですし(私の場合は、これが大学院まで続いてしまいました。悲劇です!)、世のほとんどの子どもが同じなのかもしれません。ジョナスも同じだったかもしれません。★
しかし、小学4年の時の担任の先生が、詩が好きな人で、毎週自分の好きな詩人の詩を貼り出してくれていたことが、矢崎少年を詩好きな少年に変えました。そして、おかあさんに「ぼく、詩の本が読みたい」というと、単にたくさんの詩人たちを紹介してくれただけでなく、詩人のすばらしさを語ってくれ(「詩を書くということは、人の心にひびく最高の仕事です」まで言い)、「あなたが詩を書きたければ、自分の心を豊かに育てなければなりません。詩の本だけでなく、たくさんの本を読むといいですよ」と買ってくれましたし、その後、矢崎さんは図書館の本も読み始めたそうです。
→ この辺、ジョナスに対するギヴァーが果たしていた役割に似ています。
残念ながら、唯一本がたくさんある部屋に毎日通いながらも、それらの本を読んでいるところは、一つも描かれてはいませんでしたが、ギヴァーから記憶を注がれることで、本を読んで得られるのと同じ(似た?)体験をしていたものと思われます。
大学に入って矢崎さんが最初にしたことは、『日本童謡集』を読むことだったそうです。その中に、日本の代表的な同様三百数十編が納められているのですが、彼は金子みすゞの「大漁」を読んで衝撃を受けました。そして、それ以降16年間、矢崎さんのみすゞの童謡というか詩を探し求める旅が始まりました。
矢崎さんは、みすゞの作品は、「私とあなた」ではなく、「あなたと私」という視点(まなざし)を提供してくれているといいます。要するに、“大切なことは相手から見ないと、見えてこない”。そしてもう一つ、“すべては2つで一つ”だということ(昼と夜、光と影、喜びと悲しみ、目に見えるものと見えないもの、生きることと死ぬことなど)、“私だけの幸せではなく、あなたの幸せがあって、私の幸せがあって世界は成り立っている”ということも提示してくれていると言います。
→ これも、まさに『ギヴァー』に含まれているメッセージというか、ジョナスの言動から読み取れることのような気がします。
なお、「私とあなた」ではなく「あなたと私」に関して、矢崎さんは「相手より自分の位置を上に置いていたまなざしを、相手の位置まで下げた時に、初めて相手のことが理解できるのです。だから、理解するとは英語でunderstand、アンダー(下に)スタンド(立つ)と書くのですね」(30ページ)書いています。
→ なんの気なしに使っていましたが、そういうことだったんですね。ちなみに、英語で「理解する」には、seeも使います。「見える」です。見えないと、当然わからないからでしょうが、understandについて上のように書かれると、関係性まで含めて「見える」から「理解する」になるという錯覚を起こしたくなります。
★ しかし、それでいいとは思いません。とてももったいない時間の過ごし方だと思います。矢崎さんの小学4年の担任の先生がしたように、枠にはめられた中でも、教師にできることはいくらでもあると思います。休み時間と体育と給食以外の時間でも。いまは、それを何とかすることに最大の関心があります。理由は、それが矢崎さんの事例が示してくれているように、仕事にも、社会のあり方にもつながっていると思うからです。
これは、「子どもだって哲学」シリーズの第5巻で、5人の著者が書いています。
私が読んだのは、矢崎節夫さん。他の4人は読んでいません。
シリーズの他の巻は、お馴染みの『ギヴァー』のテーマでもある①いのち、②自分、③家族、④愛を扱っていますが、いまはちょっと読む気がしません。もし読まれた方は、ぜひ『ギヴァー』との関連を教えてください。
矢崎さんは、童謡や童話を書いたり、詩を編集したり(書いてもいたかな?)する仕事をしている人ですが、あの金子みすゞの紹介者として有名な人です。
矢崎さんは、「小学校3年までのぼくは、本を読むことよりは外で遊ぶのが大好きな子どもでした。学校は休み時間と体育の時間と給食の時間のためにだけ、行っていたといっていいでしょう」と書いています。これは、私も同じですし(私の場合は、これが大学院まで続いてしまいました。悲劇です!)、世のほとんどの子どもが同じなのかもしれません。ジョナスも同じだったかもしれません。★
しかし、小学4年の時の担任の先生が、詩が好きな人で、毎週自分の好きな詩人の詩を貼り出してくれていたことが、矢崎少年を詩好きな少年に変えました。そして、おかあさんに「ぼく、詩の本が読みたい」というと、単にたくさんの詩人たちを紹介してくれただけでなく、詩人のすばらしさを語ってくれ(「詩を書くということは、人の心にひびく最高の仕事です」まで言い)、「あなたが詩を書きたければ、自分の心を豊かに育てなければなりません。詩の本だけでなく、たくさんの本を読むといいですよ」と買ってくれましたし、その後、矢崎さんは図書館の本も読み始めたそうです。
→ この辺、ジョナスに対するギヴァーが果たしていた役割に似ています。
残念ながら、唯一本がたくさんある部屋に毎日通いながらも、それらの本を読んでいるところは、一つも描かれてはいませんでしたが、ギヴァーから記憶を注がれることで、本を読んで得られるのと同じ(似た?)体験をしていたものと思われます。
大学に入って矢崎さんが最初にしたことは、『日本童謡集』を読むことだったそうです。その中に、日本の代表的な同様三百数十編が納められているのですが、彼は金子みすゞの「大漁」を読んで衝撃を受けました。そして、それ以降16年間、矢崎さんのみすゞの童謡というか詩を探し求める旅が始まりました。
矢崎さんは、みすゞの作品は、「私とあなた」ではなく、「あなたと私」という視点(まなざし)を提供してくれているといいます。要するに、“大切なことは相手から見ないと、見えてこない”。そしてもう一つ、“すべては2つで一つ”だということ(昼と夜、光と影、喜びと悲しみ、目に見えるものと見えないもの、生きることと死ぬことなど)、“私だけの幸せではなく、あなたの幸せがあって、私の幸せがあって世界は成り立っている”ということも提示してくれていると言います。
→ これも、まさに『ギヴァー』に含まれているメッセージというか、ジョナスの言動から読み取れることのような気がします。
なお、「私とあなた」ではなく「あなたと私」に関して、矢崎さんは「相手より自分の位置を上に置いていたまなざしを、相手の位置まで下げた時に、初めて相手のことが理解できるのです。だから、理解するとは英語でunderstand、アンダー(下に)スタンド(立つ)と書くのですね」(30ページ)書いています。
→ なんの気なしに使っていましたが、そういうことだったんですね。ちなみに、英語で「理解する」には、seeも使います。「見える」です。見えないと、当然わからないからでしょうが、understandについて上のように書かれると、関係性まで含めて「見える」から「理解する」になるという錯覚を起こしたくなります。
★ しかし、それでいいとは思いません。とてももったいない時間の過ごし方だと思います。矢崎さんの小学4年の担任の先生がしたように、枠にはめられた中でも、教師にできることはいくらでもあると思います。休み時間と体育と給食以外の時間でも。いまは、それを何とかすることに最大の関心があります。理由は、それが矢崎さんの事例が示してくれているように、仕事にも、社会のあり方にもつながっていると思うからです。
2010年9月11日土曜日
『ギヴァー』と関連のある本 40
『木を植えた男』(ジャン・ジオノ作、あすなろ書房)です。
この絵本が出たころ読んだ(というよりは「目を通した」)のですが、今回は『ギヴァー』を読んでいたので、まったく読み方が違いました。今回は、フレデリック・バックの絵のすごさも伝わってきました。
木を植えた男は、子どもと妻を亡くした後、荒涼とした土地に移り住み、その地を緑に変えるために、何十年もひたすら木を植え続けました。地域の再生のために。水も戻ってきました。そして、誰に知られることなく、養老院で生涯を閉じました。
それに対して、ジョナスは家族を見放す形でコミュニティを飛び出すことで、木も、水も、鳥も、雪もある<よそ>にたどり着きました。ゲイブリエルだけを連れて。
アプローチは異なりますが、自分の信じることを貫く強い意志が共通点です。そして自分よりも他者/コミュニティのことを考えた行為であるという点も。
両方に、荒廃の象徴としての戦争も登場します。人々の無関心・無表情的な部分も。
『木を植えた男』の中のミツバチは何を象徴しているのでしょうか?
この絵本が出たころ読んだ(というよりは「目を通した」)のですが、今回は『ギヴァー』を読んでいたので、まったく読み方が違いました。今回は、フレデリック・バックの絵のすごさも伝わってきました。
木を植えた男は、子どもと妻を亡くした後、荒涼とした土地に移り住み、その地を緑に変えるために、何十年もひたすら木を植え続けました。地域の再生のために。水も戻ってきました。そして、誰に知られることなく、養老院で生涯を閉じました。
それに対して、ジョナスは家族を見放す形でコミュニティを飛び出すことで、木も、水も、鳥も、雪もある<よそ>にたどり着きました。ゲイブリエルだけを連れて。
アプローチは異なりますが、自分の信じることを貫く強い意志が共通点です。そして自分よりも他者/コミュニティのことを考えた行為であるという点も。
両方に、荒廃の象徴としての戦争も登場します。人々の無関心・無表情的な部分も。
『木を植えた男』の中のミツバチは何を象徴しているのでしょうか?
2010年9月2日木曜日
『ギヴァー』と関連のある本 39
20回連載したレッスン・プラン(『ギヴァー』を使った授業案)の紹介は、昨日をもって終了でした。「本を読んだ後のフィードバックの仕方は、多様にあるんだ」と思ってくれたら、うれしいです。さらに実際試していただけたら、なおうれしいです。
今日は、しばらくぶりの「関連のある本」の紹介です。
彼これ30年ぐらい前の本ですが、五木寛之の『戒厳令の夜』(1976年)、『鳥の歌』(1982年)、『風の王国』(1985年)や、60年代後半から70年代半ばにかけてのエッセイ集などは、『ギヴァー』と似たテーマを扱っていると言えないでしょうか?(ちょっと角度というか、視点は違うかもしれませんが...)
そういうテーマに五木さんが長年こだわり続けていることは、『五木寛之こころの新書』シリーズを読んでもわかります。そして、最近このブログでも紹介した『親鸞』を読んでも。
★ 今年の初めから今日までは、なんとか毎日を原則に書いてきましたが、明日からは「書けるときに書く」に方針転換です。(というか、単純に8ヶ月以上も書いてきて、ネタが切れてしまっただけです。)
最初は、3~4ヶ月もつかな、と思っていたぐらいですから、8ヶ月というのは自分でも驚いています。(『ギヴァー』が自分の頭の20分の1ぐらいを占める生活を過去8ヶ月間してきたようなもんですから、得がたい経験でした。)
この間、様々な出合いがありましたが、中でも「哲学」との出合いは大きかったです。それこそ、私の人生観を変えるぐらいに。
今日は、しばらくぶりの「関連のある本」の紹介です。
彼これ30年ぐらい前の本ですが、五木寛之の『戒厳令の夜』(1976年)、『鳥の歌』(1982年)、『風の王国』(1985年)や、60年代後半から70年代半ばにかけてのエッセイ集などは、『ギヴァー』と似たテーマを扱っていると言えないでしょうか?(ちょっと角度というか、視点は違うかもしれませんが...)
そういうテーマに五木さんが長年こだわり続けていることは、『五木寛之こころの新書』シリーズを読んでもわかります。そして、最近このブログでも紹介した『親鸞』を読んでも。
★ 今年の初めから今日までは、なんとか毎日を原則に書いてきましたが、明日からは「書けるときに書く」に方針転換です。(というか、単純に8ヶ月以上も書いてきて、ネタが切れてしまっただけです。)
最初は、3~4ヶ月もつかな、と思っていたぐらいですから、8ヶ月というのは自分でも驚いています。(『ギヴァー』が自分の頭の20分の1ぐらいを占める生活を過去8ヶ月間してきたようなもんですから、得がたい経験でした。)
この間、様々な出合いがありましたが、中でも「哲学」との出合いは大きかったです。それこそ、私の人生観を変えるぐらいに。
2010年9月1日水曜日
⑳ニューベリー賞受賞作品読破プロジェクト
『ギヴァー』は、ニューベリー賞を受賞した本なので、他にニューベリー賞を受賞した本をできるだけ読んでみるというプロジェクトをやってみてはいかがでしょうか。
ちなみに、ロイス・ローリーはもう一冊の本『ふたりの星』でも、この賞を受賞しています。
ニューベリー賞には、どんな基準があるか解明できますか?
日本には児童文学の賞はあるのだろうかと調べてみたところ、なんと23も、ありました。まったく知らずに、失礼しました。読みたくなる文学賞は、どこのかを解明するのもおもしろいと思います。選書能力の大事な柱になりますから。
★ 本を読む総体的な力を考えた場合に、選書能力は極めて大事なのですが、日本の学校教育で扱っている人は、極めて稀だと思います。
ちなみに、ロイス・ローリーはもう一冊の本『ふたりの星』でも、この賞を受賞しています。
ニューベリー賞には、どんな基準があるか解明できますか?
日本には児童文学の賞はあるのだろうかと調べてみたところ、なんと23も、ありました。まったく知らずに、失礼しました。読みたくなる文学賞は、どこのかを解明するのもおもしろいと思います。選書能力の大事な柱になりますから。
★ 本を読む総体的な力を考えた場合に、選書能力は極めて大事なのですが、日本の学校教育で扱っている人は、極めて稀だと思います。
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