昨夜、和楽器のAUN J Concertがモンサンミシェル(世界遺産の中でも最も人気のあるフランスの教会)であったという番組を見ました。細川さんなら、どうコメントするのかなと、ふと思いつつ。
56 音楽の表現は微妙で無限である。その微妙な表現は、私たちが生きていく上で経験するさまざまな感情や感覚と共鳴しあい、より深く私たちが世界とふれあうことを促してくれる。私たちの感受性は、より豊かに繊細に変化していく。
57 音楽の喜びは、私たちが思い描いている世界、習慣にがんじがらめになっている世界を変化させ、まだ知らなかった新しい世界を、「聴くこと」を通して体験することだ。それは自分の中に埋もれていた知覚を刺激し、自分の中に眠っている宇宙的な感覚、リズム、響きを呼び覚ます。
→ 吉野弘さんの「詩」と同じですね。
その意味では、詩が誰でも作れるように、音楽も誰でも作れるような教育はとても大切な気がします。私は、残念ながらどちらも受けていません。というか、私の側に問題があったのかもしれません。教えてくれていたにもかかわらず、私の方がそれを受け取っていなかった、ということで。
59 音楽を聴くことは、単にその人の感情生活を豊かにするばかりでなく、私たちが生きていく上での、世界への関わりを根本的に深めてくれる。虚心になって、音楽を、音を聴く人は、他者からの声を、言葉を深く聴くことだろう。そして私たちの周りに響く自然の声にも、かつまた自分自身の内なる声にも耳を澄ますことができるだろう。聴くことを深めていくことによって、私たちはほんとうの「静けさ」を自分のうちに見いだし、そこからさらに、自分自身の声と言葉を見つけていくことへ歩み始める。
→ 作り出さなくても、聴けるようにすることだけでも価値があるのかもしれません。
65 私は日本の伝統音楽の声明や雅楽、そして能楽と関わることで、それらの音楽のもつ美しさに自分の感覚が深く共鳴していくようになった。とはいえ、私は西洋の偉大な作曲家たちの音楽に向かうように、身も心も日本の音楽にひかれるということはなった。日本の音楽には、何か閉じたもの、閉鎖的な世界を感じてしまう。
それはなぜだろう。日本の音楽には、どうしてもその音楽が生まれた社会との関わりを強く感じてしまう。そしてその社会は、私にとってきわめて閉鎖的で封建的な社会なのである。
音楽を求めること、それはそうした閉鎖的な古い人間から解放されて、より自由な世界を摑むことではないのか。がんじがらめになった人間関係を越えて、響きわたるのがほんとうの音楽ではないか。日常の響きを越えて、より高い次元で宇宙に響くのが音楽ではないのか。そういう音楽の形を日本の音楽伝統は知らなかったのではないか。
66 ヨーロッパの高い芸術音楽が響きわたる時空には、生きることの深い喜びと悲しみが同時に存在する。そこでは、喜びを熱狂的にお祭り気分にして騒いだり、悲しみをおどろおどろしく表現することは退けられる。そこには透明な色調が常に流れている。
日本の音楽の格調の高い独自な世界が、どのようにしたら閉鎖的な世界を越えて、もっと豊かで自由な表現を生みでしていけるのだろうか。
→ 細川さんの悩みは、ジョナスの悩みにとても近いと思ってしまいました。
また、音楽の分野に限らず、似たような感覚を持っている人は少なくないのではとも思いました。
71 音楽は、演奏する人と、主体的に聴く人とが、共に作っていくのだろう。
→ 書くこと、読むこと、話すこと、聞くことも、同じ気がします。 芸術は皆そう。詩も、絵も、彫刻も。考えることも、生きることも? スポーツも?
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