今日は、『詩の楽しみ』吉野弘著との関連です。
この本は、もちろん詩はどういうふうにして作れるのかな、という興味・関心で手に取ったのですが、いつもの常で読んでいる最中、私の頭の中の20分の1か2は『ギヴァー』の視点が占めています。
以下、私が『ギヴァー』との関連で読み取ったことを紹介します。(詩にこだわりがある人にとっては、いい迷惑かもしれませんが、詩をつくる方法=思考する方法=行動を起こす方法という関係にあることだけは確かなように思えました。もちろん、詩の場合は、言葉の表現を使ってアクションを起こしているとも取れます。)
2 詩とは、“言葉で、新しくとらえられた、対象(意識と事物)の一面である”が私の定義。
詩は、誰でも書くことができます。詩は、誰の前にも平等に開かれています。
→ 行動(その前提になる思考)も、“言葉で、新しくとらえられた、対象(意識と事物)の一面である”と言えると思うのですが...まさに、ジョナスのアクションによって示されたように。
8 私たちがある対象を歌ったり描いたりするのは、その対象への関心があるからですが、その関心が働く限り、新しい見方は無限に可能になり、詩が生まれる可能性もあるというわけです。
→ 芸術一般に言えることですが、話すこと、書くこと、考えること、そして行動することについても言えちゃいますね。上のことを、下ではさらに詳しく説明してくれています。まさに、「関心やこだわりの強さ・深さの反映」だということも同じだと思います。
14 ある対象を個性的にほめるというのが、詩の(文学の、と言ってもいいでしょう)方法だといえるでしょう。個性的にということは、定石に頼らずに、その人の流儀で、その人のほめ方で、ということです。
私には、表現とは対象をほめることだという考え方があります。対象に惚れこむことです。対象は何でもいいのです。心惹かれた対象をほめようと思い、それを明確に意識の中に持ちこもうとしたり、他者に伝達しようとするとき、私たちにできる最高のことは、それを、すでに言われた表現方法によってではなく、個性的に行うということです。それが“詩の方法”です。
表現の面白さは、関心の強さ・深さの反映です。
Ⅳ 私が詩を書きたくなるとき
168 それまでの私のものの見方や感じ方に“揺れ”ないし“ずれ”が生じて新しいことに気づこうとしている状態、あるいは、それまで漠然としてわからなかったことの意味に気づく状態= 固定観念(決まりきった物の見方・感じ方・やり方)のズレ現象が起こったとき。
→ “揺れ”“ずれ”“気づき”“固定観念のズレ現象”、どれも新たな行動に不可欠な要素だと思います。198ページには、“無知(の認識?)”と“好奇心”も加えられています。
194 めしべとおしべの大きさの違いは、自花受粉を困難にさせ、虫、風、水等の媒体を通した受粉を容易にさせるシステム → 他者の存在の大切さを認識
→ 何よりも、こういう気づきから詩が生まれることに驚いたのですが...
ジョナスのコミュニティでは、他者の存在がないので、誰も気づけない、揺れない、ずれない、好奇心がもてない状態が続いています。ジョナスだけはギヴァーという他者(仲介者)を得ることで、“揺れ”“ずれ”“気づき”“固定観念のズレ現象”が起こったり、“無知(の認識?)”“好奇心”をもつことができました。
私たちには「他者」がいるでしょうか?
ところで、いま学校では詩をこの本に書いてあるような感じで教えているのでしょうか?
返信削除少なくとも40年以上前は、自分も書けるようには教わった記憶がありません。
従って、いまだに書けないままが続いています。
何とか書けるようになりたいと、この本も借りてみたわけです。
たまたま図書館で同じ本を借りていました。
返信削除「言葉が不完全な符号であるあることが、新しい表現を無限に可能にし、
詩を可能にする」
なんてことはこれまでに考えたことはありませんでした。
考えてみたら言葉が世の中の事象や事物を完璧に言い表すことができ、誰もが同じ意味を受け取るのだとすれば、詩を書く意味がなくなりますね。
まさにギヴァーで描かれている世界になってしまいます。
抽象的な概念を一切排除した世界では、詩も小説も生まれることがないのだろうなと改めて思いました。