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2010年11月28日日曜日

夢について

 『ギヴァー』の中でジョナスたちは毎朝、「夢の共有」(49ページ~)をしています。
 5月18日に紹介した『神話の力』の88~92ページを読んで(あるいは、ジュリア・キャメロンの『あなたも作家になろう』だったか、ナタリー・ゴールドバーグの『魂の文章術』だったかもしれません)、自分で見た夢を書き起こすという作業を何日かしたことがあるのですが、残念ながら続きませんでした。

 夢についての本を調べたところ、すごくたくさんあることを知りました。

 『夢を知るための109冊』とその続編の『夢を知るための116冊』では、それら(の一部?)が紹介されています。その中と、「夢」で検索した中から、おもしろそうなのを読み始めています。


 『夢を知るための109冊』の「まえがき」には、以下のように書いてありました。

 文明が発達し、文化的生活を享受できるようになり、飢餓がなくなった現代の日本で人々は本当の幸せを得たであろうか。機械化が進み、仕事が楽になった現在、昔夢見ていたこと、空を飛べ、早くひとりでに目的地に着け、勝手に洗濯ができ、ご飯が炊け、行きたい人は学校で学べ、夜も明るく、等々のことが現実になった。身の回りのことに人々の夢が少なくなった。夜が明るくなった分だけ、星に思いをはせることが少なくなった。仕事が楽になった分だけ、仕事を完成させた喜びが少なくなった。学校へ誰でもいけるようになった分だけ、学校へ行くことができなくなった子どもが増えた。夢がかなった分だけ、夢を失った。そして、不思議なことに夢を失った分だけ、本当の夢に関する関心が高まった。

→ ジョナスのコミュニティも、似たようなところがあるのかもしれないと思ってしまいました。

 夢に関する書物はここ数年うなぎのぼりに刊行されている。それだけ夢に対する人々の関心が高まっている証拠である。
 夢は昔から関心をもたれてきたのも確かである。昔の人々は夢と現実の区別を現代人ほど区別しなかった。子どもたちは夢と現実の区別を大人ほどつけないし、動物や玩具が人間と同じように世界に住んでいる。昔の人の方が現代人より子どもの素直さを持っていたのかもしれない。おとぎ話は昔は大人のための本であったのが、今では子どもの本である。これと反対にひと昔前は子どもの本であったマンガが今は大人も子どもも読んでいる。大人も子どもも夢の世界がどこかにないと現実が活き活きとしないのであろう。現実の変化に従って、夢の持ち方や夢の世界のあり方が変わるのかもしれない。

→ この最後の部分は、「言えているな~」と思いました。そして、ここでも私たちの現実とジョナスたちの現実は妙に似ているとも思いました。

2010年11月27日土曜日

詩「選ばなかった道」との共通性

ロバート・フロストの詩「The Road Not Taken」を見つけました。以下のような詩です。


The Road Not Taken


Two roads diverged in a yellow wood,

And sorry I could not travel both

And be one traveler, long I stood

And looked down one as far as I could

To where it bent in the undergrowth;



Then took the other, as just as fair,

And having perhaps the better claim,

Because it was grassy and wanted wear;

Though as for that the passing there

Had worn them really about the same,



And both that morning equally lay

In leaves no step had trodden black.

Oh, I kept the first for another day!

Yet knowing how way leads on to way,

I doubted if I should ever come back.



I shall be telling this with a sigh

Somewhere ages and ages hence:

Two roads diverged in a wood, and I-

I took the one less traveled by,

And that has made all the difference.

(Robert Frost, 1916)



この訳はいくつかネットで見つけましたが、以下のを掲載します。

http://pparanoiaa.blogspot.com/2005/11/robert-frost.html


選ばなかった道


森の中で道が二つに分かれていた

残念だが両方の道を進むわけにはいかない

旅をする私は、長い間そこにたたずみ

一方の道の先を見透かそうとしていた

その先は折れ、草むらの中に消えている



それから、もう一方の道を歩み始めた

一見同じようだがこちらの方がよさそうだ

なぜならこちらは草が生い茂り

誰かが通るのを待っていたから

本当は二つとも同じようなものだったけれど



あの朝、二つの道は同じように見えた

枯葉の上には足跡一つ見えなかった

あっちの道はまたの機会にしよう

でも、道が先へ先へとつながることを知る私は

再び同じ道に戻ってくることはないだろうと思っていた



いま深いため息と共に私はこれを告げる

ずっとずっと昔

森の中で道が二つに分かれていた。そして私は、、

私は人があまり通っていない道を選んだ

そのためにどんなに大きな違いができたことか。

                       ロバート・フロスト


この詩は人気があるようで、ビデオも、http://www.youtube.com/watch?v=vz34R1sTqkM やhttp://www.youtube.com/watch?v=w62ptBOsc7U&feature=relatedなど、たくさん作られています。

2010年11月24日水曜日

読者の感想

 出版社の新評論に送ってくれ、新刊案内(2010年11・12月号)に掲載されたものです。

 ふくしまFMの番組で知った。
 みどり書房桑野店の東野さん の紹介が素晴らしかった。
   そして読んだ結果、彼の紹介のコトバ「あなたの人生を変える一冊」に嘘はなかった。
 私はこれからも自分の心の命ずるままに生きようと思った。                               
                              (郡山市 菊地美一さん)

2010年11月23日火曜日

「ランキング」

 前回は、コミュニケーション力をアップするための方法として「大切な友だち」を紹介しましたが、今回は「ランキング」を紹介します。
 ランキングとは、複数の項目(文字や文章だけでなく、写真や絵でもOK)をランク付けすることです。

 たとえば、「私にとって大切なこと」をテーマにした場合、以下の9つの項目を用意したとします。

a. 自由
b. お金
c. 幸せな家庭生活           1
d. 平和な世界             2 2
e. 真の友情              3 3 3
f. 健康                     4 4
g. 楽しいこと                 5
h. 職業で成功すること
i. よき市民になること

① 各自でa~iの中から、一番大切なものを1に、次に大切なもの二つを2に、三番目に大切なものを三つ3に、四番目は4に二つ、そしてもっとも大切ではないものを5に一つ当てはめる形でダイヤモンド・ランキングをつくります。

② 二人一組で、二人が合意する「私たちにとって大切なこと」を順番に並べます。そのとき、“合意する”を強調します。

③ 二人組が二つか三ついっしょになって、四人ないし六人が“合意する”「私たちにとって大切なこと」を順番に並べます。その際、間違っても多数決では決めないように言います。

 テーマは、なんでも扱えます。

別にダイヤモンド型に並べる必要もありません。1~3でも、1~5に並べるのでもOKです。

 とにかくトコトン話し合って合意を得る体験をしてもらうことが目的です。

 その意味では、結果よりもプロセスの方に価値があるとも言えます。

 表7-3は、これを実際に体験した人たちに、終了後、合意を形成するために使ったこと(知識や技能や態度など)を出してもらった結果です。

   (表にカーソルをあわせて2回クリックすると大きな文字で見られます。)

 これだけのものが培われてしまうのですから、使わない手はないと思われませんか?

 なお、『会議の技法』には、これ以外にもたくさんの会議(コミュニケーション)をスムースにするためのアイディアや方法が満載です。ぜひ参考にしてください。

2010年11月18日木曜日

「大切な友だち」

 これまでにすでに何回か「言葉」そして「コミュニケーション」について扱ってきています。たとえば、4月15日4月25日、そして4月27日などです。

 コミュニケーションの欠乏は、現在、あらゆる組織の最大の課題といっても過言ではありません。それは、学校、教室、会社、家庭や政治の世界などはもちろんですが、国と国の間のコミュニケーションもまったくといっていいほどうまくいっていません。どこもあたかもうまく行っているかのごとく装う努力はそれなりにしていますが。

 『ギヴァー』の中でも、ジョナスたちは毎日、朝には「夢の共有」(49ページ~)、そして夜には「感情共有」(10ページ~)を課されています。でも、それをしたからといって互いの相互理解が進んでいるようには思えません。もちろん、ないよりはいいのかもしれませんが、本当にかける時間に値するだけの効果があるのかははなはだ疑問です。

 ここにも、私たちが家庭や学校や会社で日々抱えている問題を、そのまま移行してやっているかのように思えてしまいます。とにもかくにも、「形式」と「習慣」だけは守っているという意味で。


 今日はその形式や悪習を脱するための効果的な方法を紹介します。
 「大切な友だち」(Critical Friends)という方法です。
 私自身、彼これ15年ぐらい前にはじめて体験して、これまでに私が出した本のほとんどで紹介しているぐらいです。その流れは、次の通りです。

① 発表されたこと(聞いたこと)で不明確な点やよくわからない点をはっきりさせるための質問をする。
② いい点をできるだけ指摘する
③ もっとも価値が高いと思われる改善点を一つか二つ指摘するのではなく、質問の形で投げかける。
④ ①~③の中で自分が一番相手に伝えたいこと(相手に元気になってもらうために/場合によっては改善したり、実行してもらうために)を一つか二つ選んで、「ラブレター(=愛のこもったメッセージ)」を書く。

 この順番がとても重要であることに、気づいていただけると思います。
 ①~④は、いずれもよく聞かないとできないものばかりです。
 これまでの会話というかコミュニケーションの多くは、自分が話すほうに熱心で聞くことを軽視しすぎています。それを、意図的に聞くことを大事にしてやろうというのが、この方法なわけです。

 ①~④を順番に出すことは、発表してフィードバックを受ける側にとってはもちろん、「大切な友だち」としてわからない点やいい点や改善点等を提示する側にとっても、そしてその場にいる全員にとって(もちろん、発表者以外全員が「大切な友だち」になったほうがいいに越したことはありません!)学ぶことがたくさんあります。

 ぜひ会議の場などではもちろんのこと、会話やメールのやり取りなどでも、試してみてください。相互理解が深まるだけでなく、扱う内容も深まっていくはずです。

 その際は、誰かが発表したり、話し始める前に、①~④のステップをあらかじめ説明しないと、ちゃんと聞いてくれません。説明しても、なかなかいい点やいい質問ができない人がほとんどかもしれません。単に、そういう習慣をもっていないからです。でも、練習と思ってやってみてください。(小学生も、ちゃんとできます!)

2010年11月15日月曜日

アリューシャン・マジック

アラスカ沖のアリューシャン列島で夏に起こる現象を、テレビで見ました。
地元の漁師たちも見たことのある人はいないという幻の現象。

数万の鳥たち、ニシン、そして鯨たちがオキアミを食べる現象です。

鳥たちはオーストラリアのタスマニアから、鯨はメキシコのカリフォルニア半島沖や小笠原諸島から、そして現象が終わったころにおこぼれに預かりにやって来るアホウドリは伊豆諸島の鳥島から来るそうです。

それだけのオキアミが大発生するのは、アリューシャン列島が火山島であり、雪解けの水がミネラル豊富な土を削って海に流れ落ち、豊富な植物性プランクトンや動物性プランクトンが大発生するからだそうです。

数日前に紹介した『サルが木から落ちる』で紹介されていた熱帯林の中の「つながり合い」や「絆」とはスケールが違う、地球規模の「つながり合い」と「絆」を感じました。



 とは言っても、つながりや絆の規模が問題なのではないと思います。



 ジョナスが、最終章の雪の山に至る前に、自然の森に遭遇したのは、何か象徴的なことのような気がしています。

2010年11月13日土曜日

「生物多様性」について

 スーザン・クインランの『サルが木から落ちる』(さ・え・ら書房)を読みました。サブタイトルは、「熱帯林の生態学」です。

 人間には、なかなか理解できないような関係を熱帯林の植物と動物が築いていることが、この本で紹介されている10のストーリーからわかります。単に「植物と動物の関係」というよりは、「生き物たちがほかのたくさんの生き物たちとのつながりのなかで生きていることが理解できる」と言ったほうが正しいと思います。
 そのことも含めて、最近は「生物多様性」という言葉で表していますが、人間にとっても極めて大切なことです。

 しかし、『ギヴァー』の中のジョナスのコミュニティは、どちらかというとその対極にある社会です。つまり、同一化/画一化を志向した結果できた社会なわけです。
 そして、私たちの社会も好むと好まざるとにかかわらずその方向で動いていると言えます。

 この本の中で、人間などが生まれるはるか前から、考えもつかないような「つながり合い」や「絆」を熱帯林の生き物たちが築いてきたのかを知ることになるのですが、それは感動的ですらあります。
 この本の前には、ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』(草思社)を読んでいたのですが、私にとっては、その人間の“偉大な”歩みが霞んでしまったように思えたぐらいです。

2010年11月10日水曜日

『ギヴァー』の紹介記事

岩手在住の恒川さんが、岩手日報に『ギヴァー』を紹介してくれた記事(11月6日)を送ってくれましたので、紹介します。
(記事の部分にカーソルを合わせてクリックし、さらにもう一度記事をクリックすると字が大きくなって読めるはずです。)


2010年11月8日月曜日

『ギヴァー』と関連のある本 50

 俳句と詩の本を読み続けています。
 そんな中で、『ことばと深呼吸』川口晴美+渡邉十シ子著に出合いました。

 とても軽い感覚で詩に触れさせてくれるのがいいです。
 たとえば、①「好きなものやことを20個リストアップ」したり、②その中の一つについて具体的に書き出したり、③詩や文章をタイトルなしで示し、タイトルを考えて出し合ったり(みんな違うのがおもしろい!)、④椅子にタイトルをつけてみたり、椅子と会話をしたり、⑤言葉の組み合わせ遊び(たとえば、北原白秋の「赤い鳥」を切り刻んで並べ替えたり)といった具合です。


 『ギヴァー』との関連は、以下のような点(ページ数)です。

95 さきほど、同じ文章を読んでもどこに感応するかは人それぞれだ、ということを書きました。それは、わたしたちがいま生きているこの世界そのものについていえることです。同じ空間、同じ時間、同じ場面を体験したとしても、どの部分を印象に刻むかは、人によってまるで違います。あなたは、あなただけの感覚で、常に世界を濾過しているはず。たとえ特異な体験をしなくても、気に入った何かをピックアップする感覚自体がオリジナリティなのです。
  言葉というものの数は有限です。あたなが新しく想像するわけではなく、あらかじめ存在しています。すでにある言葉をどう選んで、どう組み合わせるかが、大切になってくるのです。

→ ジョナスとジョナスの家族や友だちは同じ空間や時間を共有しているにもかかわらず、見えているものや感じていることはまったく別物でした。


98 現代詩はむずかしくて読んでもよくわからないと言われることが多いのですが、そんなふうに身構えなくても、自由に言葉と触れ合って自分なりのイメージや受けとめ方を自分のなかにつくっていけばいいのだと、感じ取っていただけたのではないかと思います。そう、詩は国語のテスト問題のように“作者の言いたかったこと”という“正解”をさぐりあてるような読み方をしなくてもいいのです。詩人が言葉の組み合わせによって描こうとしたことがそこにあったとしても、それを頭で理解できたら詩を読んだことになるかというと、そうではありません。ふつうの文章と詩とはそこがちがいます。
 ひとつの言葉の世界に触れ、自分なりの感覚と想像力を駆使しながら読んだとき、それはあなただけの固有な体験になり、あなたのなかで一篇の詩のイメージが息づきはじめます。詩は詩人が書いたときではなく、誰かが読んで受けとめたときに初めて完成するのだと言えるかもしれません。目の前の詩を完成させるのは、あなたです。詩を読むことで得られるのは、“正解”ではなく、“体験”。それは、あなたの「生きている」という感覚を新鮮に蘇らせることにつながっていくはずです。

→ であるにもかかわらず、延々と学校でやり続けていることは、すでにある“正解”を覚えること? ということは、「死ね」といっているようなものでしょうか???


99 では、どうしてそんなことが起こるのでしょう。言葉というのは、そもそもどういう働きをするのでしょうか。
  言葉は、意味を乗せて運ぶ道具としてつかわれている、と言ってもいいでしょう。
  一方で、場の雰囲気や気分をつくり、その気分を共有して一体感を得るために言葉をつかっていることも多いと言えそうです。そこでは、意味よりも声(音)の調子やリズム、反復、間、タイミングが重要になってきます。
  意味を担い、雰囲気をつくる。言葉の持つふたつの役目です。
  他人に向かえばコミュニケーションの機能になるし、詩を含めて文章を書くうえでも、これは重要な働きです。
  ですが、それだけではありません。言葉には不思議な力があります。
  言葉には、見えなかったものを見えるようにする力があるのです。

→ これをジョナスはまさに体験したのでしょうか? 言葉と記憶の関係は?


100 たとえば、引越ししたいと思い始めて、やたらと不動産屋さんが目に入ってくるとか。ということは、逆に、アンテナがないために見逃していることも、無数にあるのではないでしょうか。
  世界のなかに「わたし」はいる。「わたし」は五感をつかって世界を感じ取り、世界と関係を結んで生きているのですが、感覚というのは意外とすぐにすりきれて、弱まってしまいます。あまりにもいつも当たり前に目にしているものや、当たり前に繰り返しおこっていることは、次第の新鮮に感知できなくなってしまいます。

→ 別な言葉で言えば、「麻痺してしまう」ということ。これは、残念なことであると同時に、継続して感じていたら大変なこと!! 疲れちゃう。


  ちょっと目を閉じて、いま自分がいる部屋の様子を思い描いてみてください。
  目を閉じたままでも歩けるくらい当たり前に覚えてしまっているはずの部屋を、どのくらい細かいところまで思い浮かべられますか。ふだんどのくらいちゃんと見ていたのでしょうか。
  それから目を開けて、もう一度あらためて見ると、違ったものが見えてくるのではないでしょうか?
  大学生たちには、授業中に教室の外へ出て、そこにあるものをあらためてみてきてもらいました。皆、1年や2年あるいは3年間を過ごしてきたキャンパスで、普段はもうほとんど意識して何かを見ることもなくなっていたと思います。でも、あとで文章作品に書くのだと思って歩けば、ぜんぜんちがうはず。教室に戻って書いたくれた作品には、いつもとちがうことをした、新しい意識を持った(=アンテナを立てた)からこそ取りもどせた新鮮な目が発見したものが、いくつか息づいていました。

→ 詩人や小説家やノンフィクション・ライターの人たちは、こういうことを日ごろからやっている人たちということですね。プロの詩人や俳人やライターではなくても、詩や俳句を日々書いている人はかなりいるわけで、そういう人たちには、世の中の見え方が違っている!! でも、そういう体験を学校教育の中で、あるいは仕事の中ですることは奨励されていませんし、必要性も感じられていないようで...いいんでしょうか?


150 感受性が鋭い人が詩人になるのではなく、むしろ詩を書いていることで感受性が磨かれていくのだと思います。言葉を使うと、感覚のアンテナが立つ。つかい続ければ、鍛えられ磨かれて、アンテナの感度はどんどんよくなっていきます。世界や、自分自身を、くっきりととらえられるようになるのです。
  また、逆に、言葉をつかわなければ、わたしたちは自分の周りにある世界や、自分のうちにある想いさえ、しっかりとらえることができません。いろいろなものごとを言葉でつかまえることなしに生きていくのは、漠然と広がる世界を地図なしでぼんやり歩いているようなもの。まずは単純な言葉でもいい、世界を意識してみることから始めましょう。
  言葉はあなただけの地図、あなたが生きるための感覚そのものとなっていくのです。

→ この視点、とても大切だと思います。しかし、実際に学校やマスコミ等がしていることはみんなが同じ地図をもって、自分だけの独自の感覚を持たないようにする努力??


184 新しい言葉を書き、読むことで、新しい自分をかたちづくっていきましょう。人は何どでも、生まれ変わることができるのですから。

→ 9月24日から長年の念願だった俳句(というよりは川柳のレベル)や詩を書き始めた私としては、まだそこまでの感覚はもてません。でも書く前の状態とは違う何かが生まれだしている感覚はあります。単なる自己満足という錯覚かもしれませんが。

2010年11月1日月曜日

『ギヴァー』と関連のある本 49

 今日、紹介するのはポール・フライシュマン著の『種をまく人』です。

 話の舞台は、アメリカ五大湖のエリー湖に面するオハイオ州クリーブランドの貧しい人たちの住む(移民たちが多い地域の)一角の空き地です。そのギブ・ストリートに接する建物の間に挟まれた空き地は、生ごみ、古タイヤ、使えなくなった家具など、あらゆる廃棄物が捨てられていました。

 ある年の春(とはまだとても寒い4月に)、ヴェトナムからの移民の少女がそこにマメを蒔きました。そのあと、それにつられるようにして、ひとり、またひとりと(描かれているのは全部で12人)、年齢、人種、境遇の異なる人たちが、こだわりの種を蒔き、畑をつくるようになったのです。

 やがてゴミは消え(役所にかけあって、撤去させた人もいたのです!)、そこにはみずみずしい菜園が出現しました。まさに殺伐とした都会(それもスラム街的な地域)のオアシスです。菜園づくりにかかわった人たち ~ 中には、やさしい目線で見守るだけの人も含まれていました ~ の間には、連帯感が生まれ、話し合える仲間、助け合える、つくったものを交換し合える、収穫を互いに喜び合える「仲間」になっていったのです。

 私にとってもっとも印象的だったのは、脳卒中で口がきけなくなり、身体の自由も奪われているミスター・マイルズの介護をしているノーラの話です。

 空き地の前の通りを散歩していたら、畑の方に行けとミスター・マイルズが合図をしたので中に入っていくと、「ミスター・マイルズは、目をしっかり開けてまわりを眺め、土の香りをかいでいました。土にまつわる思い出が、遠くから呼んでいたのかもしれません。そのときの彼は、言ってみれば、なつかしい故郷の川を遡上するサケでした」(64~5ページ)

 このように、何人もの人に生きることの価値を思い出させたり、思い起こさせもしたのです。


 『ギヴァー』とは、設定も、ストーリーの展開もまったく違うのですが、「関連」を感じました。

 一人の少女の六粒のライマメを蒔くというとても些細な行動が、たくさんの人の野菜や花づくりに火をつけ、ゴミ捨て場になっていた空き地を緑のオアシスに変え、コミュニティをつくってしまったのです。

   登場する12人一人ひとりには、それぞれすごい物語があるのですが、その人たちが交差することでもまた違った物語を作り出す予感も感じます。

 ポール・フライシュマンはスゴイ作家なのですが、「残念ながら」日本ではあまり評価が高くありません。それも、ロイス・ローリーと似ているところかもしれません。