『バカをつくる学校』の最終回です。
少し長くなります。
●終わらせよう、学校教育の悪夢
152 ニューイングランドの町々がしていたこと ~ 気の合う仲間とともに暮らし、ともに働けるシステムを考案した。そのうえ、彼らは地域全体の反映~物質、知性、社会のすべてにおいて~も見事に果たした。それは、個人の働きが公共の利益につながるという魔法のような仕組みだった。彼らの自立、自信、勇気、民主主義、地域への忠誠といった習慣が、豊かな社会を育んだのである。
154 地域の知識、技術、愛、忠誠はプラス面。マイナス面もあった。それは、排他性。
155 自己修正のメカニズムを持ち合わせていた >> 中央の管理ではなく
→ ニューイングランドの町々が依然として実行しているタウン・ミーティングという方式に反映されている!!
一人ひとりが考え、判断し、行動する、ということ。
159 その原理とは、調和の取れた集団では、人々の判断に任せることが最善の結果につながり、判断を任されたときこそ、人間の能力は最大限に引き出される。 ← 逆に、中央からのコントロールは、その能力を萎えさせている。
160 現行の制度の失敗の理由を知ることからスタート。
一人前の人間になるには、調和した集団の中で自分の判断力を磨き、自らの人間性に合った夢を追求することが必要なのである。そして、その夢の根底には、自己、家族、仕事、地域社会など、人生に大切な意味をもたらすものがなければならない。
160~1 教育問題への2つのアプローチ(①制度改革によって技術的に解決しようとするもの~その中では個人の可能性は考慮されない、②悪者探しアプローチ~悪い教師、悪い教師、悪い校長、悪い親、悪い子ども)と、教育ビジネス(巨大な教育産業=教育で食べる人たち)の密接な関わり → 前者の2つの問題解決のアプローチは、根本的な問題解決には至らない。努力はしている振りをするのと、責任逃れが目的。教育ビジネスを守る/維持するために。
162 結局のところ、私たちが社会問題をどう捉えるかは、人間をどう捉えるかによる。 ← まったく!!
163 オクタヴィオ・パスのアメリカの学校制度評 ~ 北米の人々は、子どものころから厳然たる制度に支配されている。簡潔な教義にもとづく特定の原則が、新聞、雑誌、テレビ、ラジオ、教会、そして何より学校によって延々と繰り返されている。(→94ページ参照)こうした体制に閉じ込められた人間は、ひどく小さな植木鉢に入れられた植物のようなものだ。その人は成長することも成熟することもできない。こうした陰謀は、人々の暴力的な反乱を招きかねない。
164 体制を維持している人たちは「人間であることをやめ」ている
165 教育≠学校制度
166 人間性を失わせる手段としての学校とテレビ
国の解決策ではなく、豊かな実験室としての地域社会に目を向ける。ニューイングランドの町々がしているように。
167 個人、家庭、地域社会を信頼すること ← フィンランドをはじめ北欧諸国のように
168 自らの力を信じること
170~1 学校の欠陥 = 監禁と抑圧、脅迫と屈辱、無意味な競争と奪われたチャンス、そして家族や友人、あるいは自分自身との関係を台無しにされた年月に対する怒り
174 学校の役割 = 中央が管理する大量生産経済の「教育部門」
未熟な(幼稚な)人間をつくり続ける装置 ← ここまで言い切られちゃうと、かなり悲しいですが、現実的に見ると間違ってはいないと思います。
●解説
178 『カッコウの巣の上で』をチェック
以下は、付け足しです。
『ギヴァー』と関連のある本 75で紹介した『群れのルール』(ピーター・ミラー著)で、群衆の叡智を賢く活用する方法として、著者が特に注目していたのは、以下の4つでした: 自己組織化、意思決定における情報の多様性、間接的(ないし直接的)協業、適応的模倣。
学校教育において、存在するのは最後の「適応的模倣」だけで、残りの3つはまったく(ないしほとんど)存在しませんし、練習する機会も提供されません。これでは、叡智を活用できないのは当然といえます。練習すべき時に、練習できないのですから、社会に出てから活用できるというわけにはいかないでしょう!
ジョナスは、ギヴァーからたくさんの記憶・情報が提供され、ギヴァーとの協業が行われることで、自己組織化も可能になっていきました。そうしたことは、ジョナス以外の他のコミュニティの住人たちにはまったく提供されません。
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