『ギヴァー』の中で描かれていることと、読むこと、読むことについて話すこと/話し合うこと、読むことについて書くことなどが、関係ないようでかなり深いレベルでつながっている気がするので、両者の関連を引き続き紹介します。
187 ほかのどんな効果的な読み方よりも、読み手は(ちょうど、書き手が書いたものを修正していくのと同じように)自分の理解を修正することを学ぶことが最も必要なのです。本を読んでいる時も、人生においても、私たちはみんな遭遇したことの第一印象に基づいて様々な解釈を行います。それをくつがえすような新しい面が現れても、第一印象から離れることのできない人がたくさんいます。もちろんこれは、本を読む時だけでなく、生きていくことにおいても理想的なこととは言えません。
→ 日本の国語教育の「読むこと」の領域の中に、この「解釈を修正する」や「読み直す」という考え方は含まれているでしょうか。
国語の世界には「正解」が存在しています。でも、現実にはそんなものはありません。読む人により、読む時期により、解釈はどんどん変わります。
第一印象に固執することのまずさと同じレベルで、「正解」に固執することは問題があります。
『ギヴァー』の中で、それを唯一まぬがれたのが、ジョナスということだったかもしれません。
私たちの社会の場合は、どうでしょうか?
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