そういえば、前回との関連で、今月はじめにある小学校の先生と以下のようなやりとりをしていました。(少し長くなります。)
Sさん:
きのう、T大附属の先生が、説明文の段落をバラバラにして、段落を正しく並び替えさせるという授業を実践していました。
指導目標は、「筆者の意図に気づく」で、すでに学習した説明文の文章構成や、前後のつながりを考えながら、段落を組み立てていく授業でした。
その先生は、「作者の意図を正しく読むことは大事。」「自由に読んで考えて、【何でもいいよ】と認めてしまう、今までの国語は変えなきゃいけない」と主張していました。
説明文においては、読み方に正解がある、でいいのでしょうか?
私:
説明文には正解があると思いますか?
子どもたちにとっては、どちらのアプローチで提示してあげるのがいいと思いますか?
説明文の段落をバラバラにして、段落を正しく並び替えさせるという授業を実践していました。
は、おもしろかった/参考になりましたか? 自分でもやりたくなりましたか?
(以下は、あえてコメントしませんでした: 本当に、実態は「自由に読んで考えて、【何でもいいよ】と認めてしまう、今までの国語は変えなきゃいけない」でしょうか? そうなら、私も国語嫌いにならなくて済んだのですが・・・・)
Sさん:
説明文に正解があるかは、どうか明確な答えはできません。
物語文と違って、正しい読みはあるようにも感じます。
T大附属の先生の、今回の授業は、やってみたいとは思いません。でも、児童の説明文を読み取る力や考えを根拠をもって伝える力は、かなり高いと感心しました。
私:
説明文に「正解」はあるか?
物語、詩、絵本等のフィクションには「正解はない」、は学校では本当に受け入れられていることでしょうか? 説明文を含めて、ノンフィクションには「正解がある」はどうですか?
単純に、授業がしやすい、テストに出しやすい、というレベルではないでしょうか?
何を正解と捉えるかによると思います。
「筆者の意図」=「正解」であるならば、そうとしか言いようがないかもしれません。
でも、筆者がそもそも誤解している場合は、どうなるのでしょうか?
日本の教育書を読んでいると、そういうのばかりが目立ちますから、筆者の考えや意図=正解と言われても、私は納得できません。
書いていること自体が「間違いでしょう」、としか言えないものがほとんどですから。執筆者たちの「勉強不足」としか言いようがないもの、です。
その意味でも、読者側のもっている知識や体験に大きく依存するのが「読む」という行為ではないでしょうか?
すべての答えが、紙に書かれたインクにあるのではなく!!
『「読む力」はこうしてつける』の第3章で書いたことは、フィクション、ノンフィクションに限らず、すべてのこと(書いてあること以外のものも含めて)に言えると思います。
そして、限りなく「正解」を求めてというか、正解がある題材で行われるのが国語の授業です。
正解のないものは、授業にならないというスタンスで。
新聞記事の多くは、説明文ですから、実際に実験してみてはいかがですか?
子どもたちは、みんな同じ解釈をしてくれるか、どうか。
小2が読める新聞というのは存在しませんか?
説明文の題材として、使えるものにはどんなものがあるでしょうか?
私は、基本的に正解か、正解でないか、という議論は意味がないと思っています。
「読む」って、そんな単純なものではないと思っているので。
少なくとも確実に言えることは、「正解があっては、成長がない」ということです。
それで思考が止まってしまいますから、その先がないことを意味します。
そんなおもしろくないことに「読む」という行為をおとしめたくありません。
Sさん:
ずっと、学習指導要領や教科書ばかりを考えてきてしまったので、読書の価値観もつまらないものになっていました。
たしかに、書かれていること自体が正しいかを判断しながら読むことは、小学校ではしません。
そして、質問に答えながら読むことはあっても、質問しながら読むこともほとんどありません。
◆ ここまでのやり取りを読まれて、どんなことを考えられましたか?
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