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2012年8月16日木曜日

リーディング・ワークショップとの関連 7


『ギヴァー』の中で描かれていることと、読むこと、読むことについて話すこと/話し合うこと、読むことについて書くことなどが、関係ないようでかなり深いレベルでつながっている気がするので、両者の関連を引き続き紹介します。

188 私は、読んだ本について再話する(本の内容を自分の言葉で言い表す)のは「レベルの低い」理解だと以前は考えていました。しかし、「単に思い出すだけ」だと思っていたことを行う過程で、読み手がしなければいけない、この意味の再構築するという活動の複雑さに目が開かれてくるようになりました。当然、読んでいる内容をまとめたり、質問をしたり、解釈をしたりもしますが、実は読みながら意味をつくりだしているのです。

 子どもたちの理解(と誤解)を教師がしっかりと見据えていくと、子どもたちに読む時間と理解できる本、そして本の理解を促進するための話し合いを提供することは極めて重要なことだ、ということがすぐにはっきりします。本に夢中になって興味をもって読む読書家は、誰でもびっくりするような多くのスキルを必要としているのですが、実際に読むことで、それらのスキルを培っているのです。


→ 自分なりに解釈する、自分なりの意味をつくりだす、ということは読む時も、国語教育の中でも大切なことは言うまでもありません。でも、どうも日本の国語教育には「正解」の解釈が歴然と存在するようなのです。しかしながら、文学作品には(科学論文でさえ)、一つの正しい解釈は存在しません。読み手の知識や読むタイミングに、解釈やつくりだされる意味は大きく左右されるからです。

 しかし、よりよい解釈や理解は常に存在しますから、それを得るために話し合うこと、読み直すこと、そして自分の解釈や理解に修正を加えることがとても大切になります。

 そういうことが練習できる場としての学校であってほしいです。誰が決めたのか定かでない正解を得られた量で評価され続ける場ではなく。★ 


★ 私は、この「正解あてっこゲーム」は得意ではありませんでした。そもそも聞いたことや読んだことの記憶力がよくありませんし、教師の思惑を読むのも合わせるのも得意ではありませんでしたから。さらには、このゲーム自体意味を感じられませんでしたから、必然的に熱心には取り組めませんでした。いまの仕組みには、私のようにゲームに熱心に取り組めない子どもたちが、少なくとも半分以上はいる気がします。(ひょっとしたら、8~9割がた?)そんな状態で、ゲーム(今の学校教育あり方そのもの)をやり続けていいのでしょうか? 点数を上げられない人たちや参加すること自体を拒否する人たちを、「負け組」ということでレッテルを貼り、排除してしまっていいのでしょうか? 私には、究極の人材の無駄づかいというか、社会的な資源の無駄づかいとしか思えません。

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