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2012年1月25日水曜日

家族も共通テーマ

『ギヴァー』と『狼とくらした少女ジュリー』には、家族という共通のテーマもあり得ると思いました。

 そういえば、NHKでは昨年から山田洋次監督が選んだ映画100本「家族編」の紹介を続けています。(なお、「東京物語」の50年ぶりのリメイクの「東京家族」は、東日本大震災の影響で撮影が約1年延期されました。山田さんは、自分の映画人生を振り返る番組の中で、1970年当時の高度成長期の中でも、もちろん映画を撮り続けていたのですが、その時福島に原発の1号機が完成したことには頭がまったくまわらず、「うかつでした」と発言していたのが印象的でした。)

 ネット社会、管理社会で、ますます家族の比重は軽くなっていくかのようです。


 さらには、動物たちを中心に自然との関係も。

 『ギヴァー』の世界では、ゾウやクマは、自然にはもちろん、動物園にもおらず、安眠アイテムとして小さい子たちが眠る時に欠かせないものとなっているだけです。犬やねこや鳥も身近にはいないようです。

 それに対して、『狼とくらした少女ジュリー』で描かれている極北のアラスカは、人間よりも狼をはじめとした動物たちを中心に自然が主役の世界です。

 この対照的な関係にも想いを馳せないわけにはいきません。

2012年1月23日月曜日

『ギヴァー』と関連した本 79

今日紹介するのは、ジーン・クレイグヘッド・ジョージが書いた『狼とくらした少女ジュリー』です。

 これも、『ギヴァー』と同じくニューベリー賞を受賞した本です(1973年の受賞)。ニューベリー賞は、最も優れた児童文学の著者に与えられる賞です。すでに1922年にスタートしているそうですが、これに匹敵する日本の賞はあるのでしょうか? 外れがありません。よく選ばれているし、受賞に値する児童文学が書かれているということだと思います。これまでに、このブログでも紹介してきた本には、

アヴィの『クリスピン』
リンダ・スー・バークの『モギ ~ ちいさな焼きもの師』
シンシア・ライラントの『メイおばちゃんの庭』
ロイス・ローリーの『ふたりの星』
などがあります。

 「児童文学」ですが、大人も十分に読める本ばかりです。★
 前段が長くなりました。

 主人公は、14歳のエスキモーの少女です。英語名がジュリーで、エスキモーの名前は、マヤック。本の中では、本人がマヤックを使いとおしていますが、どういうわけかタイトルには、ジュリーが使われています。
 すでにお母さんを亡くしていたマヤックは、お父さんが猟に出て帰って来なかったので、お父さんから言われていた未来の夫のところへ嫁ぎました。しかし、その相手が好きになれず、逃げ出して、北極海沿岸のツンドラ地帯をさ迷うことになってしまいました。
 そのとき助けてくれたのが狼の一家でした。(お父さんから、狼とのコミュニケーションの取り方を聞いていたので、それが可能でした。)
 最後は、行方不明になったはずのお父さんに出会います。

 なぜ『ギヴァー』と関連すると思ったのかというと、いくつかありますが、一番は「何処(どこか違うところ)」を求めているところです。自分がもっともフィットするところを求めているのです。それは白人社会でも、変わり行くエスキモー社会でもなく、どうも自然の中というか、狼の群れらしいのです。

 ぜひ読んでみてください。 (星野道夫さんに通じる部分があります。ちなみに、カークパトリック・ヒル著の『こんにちは アグネス先生』とシドニー・ハンチントン著の『熱きアラスカ魂』は、エスキモー/アラスカ関連の本でした。

 訳者あとがきに3部作になっていることを知り(しかも、後の2冊は日本語に訳されていないようです)、早速注文してしまいました。第2部は1992年に、第3部は1997年の出版です。


★ そういえば、『ギヴァー』と関連する本の中にも、ニューベリー賞の中にも、まだアーシュラ・K. ル=グウィンの『ゲド戦記』を含めていないことに気づきました。ニューベリー章に含めることはできませんが、関連する本には加えます。

2012年1月22日日曜日

ジョン・ホルトの本

週末、ひょんなことから、『バカをつくる学校』で書かれている内容と同じ内容のことを40~50年前に書いていた人がいたことを思い出しました。ジョン・ホルト(John Holt)です。
 彼の本を私は90年代のはじめに読んでいたのですが、すっかり忘れていました。

 How Children Fail(子ども達はどうつまずくか)とHow Children Learn(学習の戦略 : 子どもたちはいかに学ぶか)の2冊で有名になりました。自らの教師としての体験を綴ったものです。その後も、The Underachieving SchoolやWhat Do I Do Monday?などを書くまでは、まだ学校改革・授業改革の可能性を持っていたようですが、イバン・イリッチの『脱学校の社会』(1970年出版)★の影響を受けたころから、彼自身も脱学校に傾斜しInstead of Education(21世紀の教育よこんにちは)で完全に決別しています。

 いま読んでも、納得して読めるはずです。
 ということは、状況がまったく変わっていないということでしょう。アメリカも、そして日本も。(状況は、日本のほうがはるかに深刻な気がしますが。)


★ イリッチの本は、私が都市計画を学んでいた大学時代(75年ごろ)に、教育ではなく、まちづくりの観点から読んでいました。とても刺激的な内容だったことは、いまでもよく覚えています。

2012年1月18日水曜日

『バカをつくる学校』 7

『バカをつくる学校』の最終回です。
少し長くなります。

●終わらせよう、学校教育の悪夢

152 ニューイングランドの町々がしていたこと ~ 気の合う仲間とともに暮らし、ともに働けるシステムを考案した。そのうえ、彼らは地域全体の反映~物質、知性、社会のすべてにおいて~も見事に果たした。それは、個人の働きが公共の利益につながるという魔法のような仕組みだった。彼らの自立、自信、勇気、民主主義、地域への忠誠といった習慣が、豊かな社会を育んだのである。
154 地域の知識、技術、愛、忠誠はプラス面。マイナス面もあった。それは、排他性。
155 自己修正のメカニズムを持ち合わせていた >> 中央の管理ではなく
→ ニューイングランドの町々が依然として実行しているタウン・ミーティングという方式に反映されている!!
 一人ひとりが考え、判断し、行動する、ということ。
159 その原理とは、調和の取れた集団では、人々の判断に任せることが最善の結果につながり、判断を任されたときこそ、人間の能力は最大限に引き出される。 ← 逆に、中央からのコントロールは、その能力を萎えさせている。
160 現行の制度の失敗の理由を知ることからスタート。
 一人前の人間になるには、調和した集団の中で自分の判断力を磨き、自らの人間性に合った夢を追求することが必要なのである。そして、その夢の根底には、自己、家族、仕事、地域社会など、人生に大切な意味をもたらすものがなければならない。

160~1 教育問題への2つのアプローチ(①制度改革によって技術的に解決しようとするもの~その中では個人の可能性は考慮されない、②悪者探しアプローチ~悪い教師、悪い教師、悪い校長、悪い親、悪い子ども)と、教育ビジネス(巨大な教育産業=教育で食べる人たち)の密接な関わり → 前者の2つの問題解決のアプローチは、根本的な問題解決には至らない。努力はしている振りをするのと、責任逃れが目的。教育ビジネスを守る/維持するために。

162 結局のところ、私たちが社会問題をどう捉えるかは、人間をどう捉えるかによる。 ← まったく!!
163 オクタヴィオ・パスのアメリカの学校制度評 ~ 北米の人々は、子どものころから厳然たる制度に支配されている。簡潔な教義にもとづく特定の原則が、新聞、雑誌、テレビ、ラジオ、教会、そして何より学校によって延々と繰り返されている。(→94ページ参照)こうした体制に閉じ込められた人間は、ひどく小さな植木鉢に入れられた植物のようなものだ。その人は成長することも成熟することもできない。こうした陰謀は、人々の暴力的な反乱を招きかねない。
164 体制を維持している人たちは「人間であることをやめ」ている
165 教育≠学校制度
166 人間性を失わせる手段としての学校とテレビ
  国の解決策ではなく、豊かな実験室としての地域社会に目を向ける。ニューイングランドの町々がしているように。
167 個人、家庭、地域社会を信頼すること ← フィンランドをはじめ北欧諸国のように
168 自らの力を信じること
170~1 学校の欠陥 = 監禁と抑圧、脅迫と屈辱、無意味な競争と奪われたチャンス、そして家族や友人、あるいは自分自身との関係を台無しにされた年月に対する怒り
174 学校の役割 = 中央が管理する大量生産経済の「教育部門」
  未熟な(幼稚な)人間をつくり続ける装置 ← ここまで言い切られちゃうと、かなり悲しいですが、現実的に見ると間違ってはいないと思います。

●解説

178 『カッコウの巣の上で』をチェック


 以下は、付け足しです。
『ギヴァー』と関連のある本 75で紹介した『群れのルール』(ピーター・ミラー著)で、群衆の叡智を賢く活用する方法として、著者が特に注目していたのは、以下の4つでした: 自己組織化、意思決定における情報の多様性、間接的(ないし直接的)協業、適応的模倣。

学校教育において、存在するのは最後の「適応的模倣」だけで、残りの3つはまったく(ないしほとんど)存在しませんし、練習する機会も提供されません。これでは、叡智を活用できないのは当然といえます。練習すべき時に、練習できないのですから、社会に出てから活用できるというわけにはいかないでしょう! 

ジョナスは、ギヴァーからたくさんの記憶・情報が提供され、ギヴァーとの協業が行われることで、自己組織化も可能になっていきました。そうしたことは、ジョナス以外の他のコミュニティの住人たちにはまったく提供されません。

2012年1月17日火曜日

『バカをつくる学校』 6

●私はこうして教師になった
99 ふるさとがすべてを教えてくれた/自分を作ってくれた → いまは、そのふるさとがなくなっている。


●もう学校はいらない

115 学校、家庭、地域、社会はつながっている
   ★ 学校制度のプラス面とマイナス面
  学校制度というのは、たとえ良いものであっても、地域や家庭から活力を奪うものである。社会問題を機械的・事務的に解決しようとするが、根本的な解決のためには、自己形成や自己発見、強調性といったものをじっくり育てていく必要がある。

116 制度は、完全な参加を必要としない! 指示されるとおり動くことだけが期待されている。

120 地域への参加/体験こそが大切!

121 制度は、効率的に任務を遂行するため、人々をまず自己から引き離し、次に他者から引き離す。・・・制度は人々を孤独にし、冷酷なまでにその目的を追求する。・・・学校制度の拡大は、社会の危機をさらにエスカレートさせるものなのだ。

122 何度も言うが、制度の中の社会は見せかけにすぎない。それは人々の孤独を癒すような期待感を抱かせるが、じつはそうではない。・・・つまり、どんなに多くの組織や制度に属しても、どんなに頻繁に電話が鳴っても、本物の地域社会を得ることにはならないのだ。 → 『ギヴァー』の中で描かれている諸々のことを思い出します。そして、日本社会も。

  そもそも、制度から得られるものは何もない。あっても、それはあなたがすでにもっているものである。制度は良くも悪くもならない。制度の目的は、つねに同じ状態を保つことであり、そこではほとんど発展がない。薄っぺらな人間関係を維持することで生まれるのは、あなたの「友人」がじつはあなたのことを少しも気にかけておらず、あなたの生き方はおろか、あなたの望みや不安、成功や失敗にもまったく興味がないという病的な状態である。彼らは単なる同僚にすぎず、共通の利益に関すること以外、何の期待もできない。 → この辺も。

123 家庭、地域 >> 制度、国家、組織
124 → 95
125 制度が、家庭や地域の絆を引き裂く
127 制度の中の偽りの社会では、人間の基本的欲求は満たされない。
    制度の目的は、管理と画一化 → まさに、『ギヴァー』、そして日本
    家庭や地域社会は、自由と多様性

128 教育は、世界最大のビジネス

129 学校も教育も、制度。学校の目的は、子どもたちに経済的成功のための準備をさせること。つまり、いい教育を受ければ、いい職に就け、いい稼ぎが得られ、いい物が手に入るという図式。
131 競争は、服従と尊敬を強いる
132 地域や家庭は、関心を向けられる存在。心を深く満たす。
133 制度は、表面的に満たすだけ。表面的な数字で人を判断する。
137 学校で身につく有害な習慣
  どんな教育であれ、子どもは個人として尊重されるべきであり、けっして集団に従わされるべきではない。教育は子どもたちのやる気を引き出し、人生の道しるべとなる価値観を見出させるものであるべきだ。また、教育は子どもの心を豊かにし、どんなときも思いやりを忘れない人間に育てるものであるべきだ。そして、人生にとって何が重要かを教えるものであるべきだ。

138 教育は、「一つの正解」によって支配される
139 家庭や地域は、個々の仕組みの集まりであり、けっして「一つの正解」に縛られたりはしない。プライベートな時間は、個性の発達や価値観の発達に不可欠なものであり、それがなければ、私たちは個人になり得ない。「自由」が大切なわけ。
142 他者と共存することを学ぶには、まず個人として、家族として、自立して生きることを学ぶべきだ。なぜなら、私たちは自分に満足できて初めて、他人にも満足できるからである。・・・家庭や地域が再生されれば、子どもはかつてそうだったように、自分の力で学ぶようになる。

2012年1月16日月曜日

『バカをつくる学校』 5

●学校教育の「第四の目的」

 働き手を育てること。無知な労働者の養成。
 指示に従う人間、考えない人間の養成

65 何も伝えてくれないテストの点数  ノーベル賞受賞者、アメリカ大統領

71 百のことを知っている百姓から指示に従う無知な工場労働者へ

81~2 従順な大衆の存在が都合のいい制度・システム

82 学校生活の単調さ、退屈さと、消費社会(コーラとマックに代表される)はつながっている!

84 子どもたちをダメにする学校 ~ 教師に気に入られようと、次第の臆病になり、慢性的に退屈になり、やがて生きる目的を失ってしまう。本来、教室は感動的な場所であるべきなのに、そうした教室の意義は一度も見直されてこなかった。

  子どもをもっともダメにするのはマンネリである。学校に監禁され、同じことを繰り返される子どもたちは、やがて思考が停止する。こうした罠にはまった子どもたちは、ネズミと同じく、徹底した管理が必要になる。

94 エドワード・バーネイス著『プロパガンダ教本 こんなにチョろい大衆の騙し方』

95 ケネディの有名な演説「国が諸君に何をしてくれるかではなく、諸君が国のために何ができるかを問うてほしい」 ~ 民主主義国家から統治国家への転換
→124 「国家」の要求が「家庭」の要求に勝るという政治哲学を表現したもの

96~7 豊かになれない(ならない)多くの人々 ⇔ 教育との関係

2012年1月15日日曜日

『バカをつくる学校』 4

49 時間割(子どもたちのスケジュール)は、依存的な/従順な人間を作り出すための隠れた手段だ。彼らは自分の時間の使い方がわからず、自己の存在の意味も目的もわからない。この依存的で無目的な生き方は、国民的な病気である。それは学校やテレビ、習い事と深い関係があるはずだ。
 深刻な社会問題 ~ 麻薬や暴力、愚かな競争、性の乱れ、ギャンブル、アルコール、そして金品への執着 ~ もまた、じつは依存的な人格による病気であり、学校教育の産物にほかならない。 ← 他者依存症を作り出す学校が、依存症の社会を築き上げるのに大きく貢献している。自立した人間、自らの責任で行動する人間を探すことの難しさ?

50~52 そして子どもはこうなった
① 大人の世界に無関心になる
② 集中力がほとんどなく、あっても長続きしない
③ 未来に対する認識が乏しく、明日が今日とつながっているという感覚がない
④ 歴史に関心がない
⑤ 他人に対して残酷になる
⑥ 親しさや正直さを拒絶する
⑦ 物質主義になる
⑧ 依存的で、受け身で、新しい挑戦に臆病になる
 ← まさに現代の日本!? (東日本大震災+東電原発事故は、こういう流れにストップをかけてくれるきっかけになるのか?) 『ギヴァー』で描かれている世界もこれらとオーバーラップするところが多分にある。

53 この140年間、アメリカは「専門家」からなる司令部 ~ 中央のエリート集団 ~ の命令を、人々に押しつけようとしてきた。しかし、それはうまくいかなかったし、これからもうまくいかないだろう。そもそも、国民を中央の命令に従わせることは、民主主義というこの国の壮大な実験を否定するものだ。 ← アメリカの中央は、日本のそれよりもはるかに弱い。50の州がすべて中央と言っていいぐらいだから。
 スウェーデンと神奈川県の人口が近いことを考えると、文科省がすべてをコントロールする形よりも、各県が独立国のように競争した方が(いい意味で)、はるかにいいものができる可能性は高い。少なくとも、受身的でなくなり、主体的に行動する人が増えるわけだから。

54 (ヨーロッパの)エリート教育の根底には、自己認識こそ真の認識の土台だとする信念がある。そこでは、どの年齢の子どもも、自分一人で対処すべき課題を与えられる。その課題には、孤独に打ち勝つということも含まれる。 → 「7つの大罪」と対極にある教育

55 ところが、いまの学校教育は、子どもたちが自己認識を深めるための時間を奪い去っている。・・・どんな幼い子どもでも、自分で学習できることを信じなければならない。私たちは、子どもたち一人ひとりが、それぞれの個性や自信を深められるようなカリキュラムをつくらなければならない。  → WW&RW。一斉授業で教科書をカバーする授業では、それは無理。
56 自己認識さえ身につけば、彼らは自力でどんどん学んでいくだろう。そして自己教育にこそ、永遠の価値がある。
  子どもたちには、今すぐ自由な時間を与えるべきである。そして、できるだけ早く、現実社会との接点を取り戻してやるべきである。→ METやCPEHSやCoalition of Essential Schools、Best Practice High Schoolなどが試みていること。 そのためには抜本的な改革が必要だ。 → 学校の中だけに閉じ込めておくことは、子どもたちのためにならない!! 48ページの「テレビ・学校・習い事」では、悲劇が続くだけ。

58 自立学習や社会奉仕、冒険、プライバシーの保護、多様な研修プログラム(1日以上の体験学習) ~ これらはいずれも、学校教育の真の改革にとって有力で、安上がりで、効果的な方法である。しかし、どんな大規模な改革を行おうと、教育の中心に家庭を置かないかぎり、病んだ子どもや病んだ社会を救うことはできない。学校が子どもを親から引き離すかぎり、悲劇は終わらないのである。
  豊かな人生の基礎となるのは、国のカリキュラムではなく、「家庭のカリキュラム」だ。健全な教育のためには、まず学校が率先して家庭生活を尊重し、親子の交流を促して、家族の絆を強めなければならない。
  抜本的な教育改革にとって最大の問題は、強大な既得権益がマスコミを支配し、学校制度そのものから利益を得ているということだ。
  私たちが耳にするのは、じつはマスコミが伝える公認の意見だけである。 ← 2011年の原発事故報道と同じレベル!!

2012年1月14日土曜日

『バカをつくる学校』 3

●精神病の学校

43 「階級分類装置」としての学校
 現在、学校は深刻な危機にある。そしてそれは、さらに深刻な社会の危機と関係している。
 アメリカの識字率の低下、麻薬の売買、10代の自殺率は世界最高(裕福な家庭の子どもたち)、そして貧困の問題、離婚の問題、犯罪の問題等、山積みの問題
 学校の危機は、地域社会の危機と関係がある。子どもと高齢者は隔離され、世間から完全に無視されている。もはや彼らに話しかける人はなく、日常生活で両者がふれあうこともない。そんな地域社会では、未来も過去もなく、ただ現在が続くばかりだ。実際、「地域社会」という言葉は死語かもしれない。私たちは地域社会ではなく、ネット社会に生きており、そこでは誰もが一人ぼっちだ。 ← この辺、まさに日本を描いているよう?!

44 30年の教師生活をとおして、私はある興味深い現象に気づいた。学校は、世の中の創造的活動から取り残されている。もはや科学者が科学のクラスから生まれるとか、政治家が公民のクラスから生まれるとか、詩人が国語のクラスから育つなどと思っている人はいない。
  実際、学校は命令に従うことしか教えていない。優しく、思いやりのある多くの人々が、教師として、助手として、管理者として働いているにもかかわらず、彼らの努力は学校の抽象的な論理の押しつぶされている。教師たちが奮闘する一方で、学校は精神病にかかったかのように、分別のかけらも示さない。学校がチャイムを鳴らすと、詩を書いていた生徒はノートを閉じ、別の教室へ移動して、今度は進化論を覚えなければならないのである。 ~ 先の「7つの大罪」がすべてをコントロールしているところ

46 最初に学校制度を構想した人たちの目的は、大衆を厳しく管理することだった。つまり、学校は公式どおりに行動する人間、コントロール可能な人間を生み出すためにつくられたのである。 ← まさに、『ギヴァー』の世界。 そして、日本?
  この役割は見事に果たされ、社会ではますます階級化が進んでいる。

48 テレビ・学校・習い事
 現在、子どもたちの生活は2つの慣習に支配されている。それは、テレビと学校である。
 そもそも、幼少期や思春期というのは、実際に仕事を体験したり、冒険したり、思いやりを知ったり、自分が本当に学びたいと思うことを見つけたりする時期だった。子どもはその時期の大半を地域社会で過ごし、あらゆる人々との交流を通して、家庭を築く方法など、一人前の大人になるための知恵を学んだ。ところが、今の子どもたちにはそうした時間がない。 ← 地域を奪われた子どもたち!! 確かに、私も娘も、中学に入る前までは、地域で遊んだ!(中学や高校でも同じようにやれる方がいいんだろうが。) 『ギヴァー』にはそれがある?? 山田洋次監督は、満州から引き上げてきた中学校時代に「アルバイト先で年の行った人たちがいろいろと助けてくれたし、めんどうを見てくれた」と言っていた。それを通して、いろいろ学び、人間のよさも学んだと。
 ちなみに、アメリカを中心に欧米で20年ぐらい前から盛んに取り入れられているのが、週のある曜日(の午前や午後)を、最低でも1学期、可能なら年間を通して職場体験にあてるサービス・ラーニングというアプローチ。日本で行われている3~5日間の職場体験は、体験する側にとっても受け入れ側にとっても「お客さん」意識が拭えないが、1学期間ないし1年間となると、職場の人とメンターとメンティー(指導者と弟子)の関係が築かれる。弟子のサイドが、少しは当てにされる存在にもなる。 

2012年1月13日金曜日

『バカをつくる学校』 2

前回に引き続き、『バカをつくる学校』です。



●義務教育における7つの大罪 (←第2章に相当)

 タイトルは、「義務教育」になっていますが、大学も含めた強制的な学びの場の特徴を、著者は、以下の7つとしてまとめています。

① バラバラ・ブツギリ ~ 一貫性のなさ
② クラス/学年分け
③ チャイム  受動的 ~ 無関心
④ 主従の関係(権力者としての教師) 自由のない学校  ~ 感情的な依存
⑤ 指示待ち、従順、無力化(自ら考え、行動しない人間の養成所)~ 知的な依存
⑥ 通知表 ~ 自尊心を低くする
⑦ 監視、宿題、勝手な行動はさせない、画一集団

 ← 私たちがあまりにも当たり前にしていることばかりなので、「大罪」と言われると違和感をもたれる方もいるのではないでしょうか? 逆に言えば、それほど巧妙に浸透していると同時に、習慣化しているということです。 でも、これらは学校だけでなく、社会に広くまん延していると思いませんか? ちなみに、①は「カリキュラム」ないし「教科書」と置き換えられます。

33 1850年に使われていた5年生の算数や作文の教科書を見てみると、その内容が現在の大学レベルに相当することがわかる。学校はしきりに「基礎学力」の養成を叫んでいるが、彼らはそのために子どもを12年間も拘束し、「7つの教育方針」を叩き込んでいるのである。 → やる気になれば、100日もあれば身に付いてしまう。ひたすら学びたくなる時期を待つSudbury(サドベリー)のアプローチでは、もっと短いでしょう。

 社会問題が蔓延し、私たちの生活が非人間的になり、個人や家族、地域社会の重要性が顧みられなくなったからではないだろうか。
 つまり、これは中央統制がもたらした衰退である。当然、義務教育はますますエスカレートし、子どもたちを地域社会から遠ざける。彼らは子どもの教育を専門家の手に委ねることで、地域社会を崩壊させ、子どもと成熟した人間にさせないようにしているのだ。アリストテレスによれば、人は地域社会で積極的な役割を果たさない限り、健全な人間にはなれない。彼の教えが正しかったことは、学校や老人ホームを見れば明らかである。 ← 社会の様々な問題と、地域社会や家族の崩壊と、教育のやられ方には密接な関係が。ほとんどコインの裏表の関係で。

34 学校は、モデルとなる社会を支えるための体制としてつくられた。それは、支配階級を頂点とするピラミッドにおいて、大多数の人々をその従順な土台にしようとする制度である。 ← 日本の明治維新が導入した学制も、まさに同じことが言えると思う。しかし、北欧やオランダあたりの学校制度を見ると、違う可能性が見えてくる気がする。スケール(規模)の違いか? ビジョンの違いか?

35~6 隠れたカリキュラム として書かれていることは、アメリカだけでなく、今の日本にこそ言えること!!! 実際に教科書や時間割等で行われている「見えるカリキュラム」よりも、隠れたカリキュラムはそれと気がつかないうちに注入されるので恐ろしいです。

 グローバル経済は、人々の真の要求に応えていない。私たちが求めているのは、やりがいのある仕事、手ごろな住宅、充実した教育、適切な医療、美しい環境、誠実で責任感のある政府、社会や文化の再生、あるいは純粋な正義である。

 ところが、この国は生産性ばかりを追求し、大衆の現実とはかけ離れた生活を提案している。私はそれが明らかな間違いだと思うし、別の生き方を知っている人なら、ほとんどがそう思うはずだ。

 人生の意味とは、家族や友人、自然、季節の移り変わり、ささやかな儀式、好奇心、寛容、情熱、他者への奉仕、適切な自立やプライバシーの中にある。また、自由でお金のかからない真の家族、真の友人、真の地域社会の中にある。こうした人生哲学を取り戻せば、私たちはみずからの生活に満足し、世界経済の「専門家」が提唱する物質的満足は必要なくなるだろう。 → 山田洋次さんが映画の中で追い求めてきたこと?!

2012年1月12日木曜日

『ギヴァー』と関連のある本 78

前回紹介した大分県姫島のサイトを見ると、左側に「教育に関する点検及び評価」「姫島村学力向上支援プラン」があります。これらは、全国に右へ倣えであることもあって(つまり、主体的に取り組んでいるわけではないので)、これらを毎年繰り返しても教育はよくなりません。(accountabilityを「説明責任」と誤解してしまったがゆえの悲劇=時間と税金の無駄づかいです。)

 この教育と関連して極めて刺激的な本を年の初めの休み期間中に読みました。
 タイトルは、なんと『バカをつくる学校』(ジョン・テイラー・ガット著)です。
 タイトルが正しいようでは困るのですが、読んでみると納得してしまいます。内容はアメリカの学校教育についてですが、残念ながらそのまま日本にもあてはまってしまいます。ほとんどすべてにわたって、アメリカの5~20年ぐらい後を追いかけているのが日本ですから。
 ガットさんは、評論家ではありません。30年間公立学校の教壇に立ち、ニューヨーク州最優秀教師賞にまで輝いた人ですから、体制側にも認められる実践をしていた人です。

 それでは、本の内容を数回にわたって紹介していきます。


3 学校の目的? ~ 「子どもが授業に影響されることなく、自分で自分の信念を築き、みずからの経験にもとづいて判断する」=「自立した学び手になる」ということは、国の指導的な教育者たちのリストの上位にはランクされていないはずだ。 ← 同感です。

●学校という神話

14 自分は教師として、子供たちの力を伸ばすどころか、抑えつけているのではないか・・・そして次第に、チャイムによる中断、まとまりのない時間割、年齢による区別、プライバシーの欠如、絶え間ない監視といった国の教育制度全体が、子どもたちを自分で考えて行動することから遠ざけ、依存的な人間にしようとしていることがわかった。 ← まさに『ギヴァー』の世界でしていること。でも、日本もまったく同じ気がしてきます。

 そこで私は、ときどきゲリラ的な授業を企画し、出来るだけ多くの子どもたちを生の素材 ~ さまざまな交流や自由な環境 ~ に触れさせようとした。つまり、私は彼らが自ら考え、自ら学べるような実体験の場所を提供したのである。 ← 『ギヴァー』の世界でも、日本でも、こういう試みは許されないような空気があります。橋本武さんが灘中学校で実践していた『銀の匙』を3年かけて教えるような実践を。いまでも、やる気さえあれば、いくらでもやれてしまうのに。

15 私の考えを理論的、あるいは比喩的に表現すれば、教育は「油絵」よりも「彫刻」に似ている。つまり、油絵では、キャンバスに絵の具という素材を「加える」ことでイメージが生まれるが、彫刻では、素材を「削る」ことによって、石(や木)の中に閉じ込められたイメージが浮かび上がる。ここに決定的な違いがある。 ← どちらか一方だけというよりは、バランスの問題の気がする。相手によって。量的には後者の部分が多いことには賛成だが。WW&RWのアプローチはまさにそう。教科書をカバーするアプローチは、振り子が前者に行き過ぎている!

 私は自分の専門知識を子どもに押し付けるのをやめた。その代わりに、彼らの本来の才能を邪魔しているものを取り除こうとした。私にとって、教師の仕事は、もはや教室で生徒に知識を授けることではなくなった。学校は今もその無益な教育方針を続けているが、私はこうした教育の伝統をできるだけ打ち破り、生徒一人ひとりの可能性を引き出そうとした。

 政府に支配された学校は、私のような教師が増えると、学校制度全体が危機にさらされるとして警戒する。 → 学校という制度は、あくまでも社会全体の歯車のひとつであることを思わされます。少なくとも、社会のあり方と教育のあり方は強固に関連しているわけです。

2012年1月9日月曜日

大分県姫島村

「民主主義とは 問い返す島」として大分県姫島村が朝日新聞(2012年1月1日付け、第1面)で紹介されていました。

 なんと50年以上にわたって村長選で投票がない島なのです!

 大分県国東半島の右上に浮かぶ島。人口は、2200人。 ← 『ギヴァー』のコミュニティは3500人です。こういうことがやれるには、人口規模がカギだと思います。そこに住む人々がお互いを知っている規模です。

 1955年の村長選を最後に、過去15回連続で村長選は無投票だそうです。無投票は民主主義をないがしろにしているイメージが濃い中で。
 現村長の無投票選出に対する考えは、「民主主義に選挙は必要だけれど、現実には選挙のための政治になっていないでしょうか」です。

 まったくその通りです。

 私の住む府中市も東京都も、そうなっています。基本的に誰が首長になろうと変わりありません。国政ですら変わりありません。

 今回の朝日の特集は、間接民主主義が機能不全を起こしていることに焦点を当てるようです。


 ちなみに、村議選は行われているのか総務課に問い合わせたところ、行われており、8人いるそうです。「機能していますか?」との質問には、「機能は、問題なく、しております」と答えてくれましたが、私の住んでいる府中市や東京都の議会が機能しているかと問われたら、「まったく機能しておらず、単なる税金の~それも膨大なる~無駄づかいです」と答えるしかありませんから、あてになりません。単に地方自治法に基づいてやっているのだと思います。  ~ しかし、わが府中市や東京都と違い、かなり村議の給料は抑えている可能性はあります。姫島の職員の給料をワークシェアリングで低く抑えているのと同じように。

 ここで思い出したのは、やはり『ギヴァー』のコミュニティの意思決定機関である長老会と、井上ひさしの『吉里吉里人』の大統領選出法です。前者は、どのように選出されているのかはわかりませんが、選挙でないことは確かです。後者の選出法は、なんと「タッチ制」でした。井上さんは、誰がなっても同じことをすでにわきまえていたので、究極のいい加減とも言える「タッチ」でいいでしょうと考えたのでしょうし、いま私たちが選挙でしているアホなことをユーモアを持って痛烈に批判したかったのでしょう。そして、もちろん、そうすることでアホなことを早くやめて、もっとまともな方法を考える必要性を訴えたかったのだと思います。なんと言っても、機能していないことだけは確かなのですから。

 それには、上ですでに書きましたが、人口の規模がカギだと思います。