フランスからしばらくぶりに帰ってきた人が、「東京を歩くのはこわい」と言っていました。携帯/スマホを見ながら歩いている人が多いからです。「周りの人のことなど、おかまいなしで、よくもまあ、ここまで自己中心になれるね!」と。確かに、読みながら歩きますから、周りのスピードと波長が合いませんし、前から来る人も見えていません。
そういえば、スマホで忙しくなって、電車の中で、耳栓から音楽の音がガンガン聞こえてくる人は大分少なくなったのはいいことですが、電車に乗っても乗客の半数以上は、スマホをいじっている昨今です。本など読んでいようものなら、奇人・変人扱い!
さらには、「横断歩道では、赤信号で、車が通らないのがわかっているのに、ご丁寧に青になるまで待っている人の多いこと」。昔、一時期はやった「赤信号、みんなで渡ればこわくない」のまさに反対で、忠実にルールを守り続けています。
しかし、上記のスマホを見ながら歩くという、ある意味ルール違反のほうは、どうなるのでしょうか? 一貫性がないというか・・・
そして、通勤時間帯の電車の中の人の動きについてもおもしろい指摘をしてくれました。「数人は吊り輪などにつかまっているけど、圧倒的多数の人は隣の人に寄りかかっているだけ。そうする方が楽だから。(中には手すりに手が届かない人がたくさんいる問題もあるけど。)でも、急にスピードを緩めたり、早めたりすると、みんなで揺れてしまう。これって、日本社会や組織の縮図じゃない?」と。まったく! ある意味で、他人任せ。
いずれも、「自分というものを消す」という共通点が見出せるでしょうか?
自分というものをもつのがきわめて億劫な社会・日本です。
吉田兼好さんの時代から?
『ギヴァー』のコミュニティと似ている点?
それとも、『ギヴァー』のコミュニティの方が自分を出している?
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