鶴見さんの本の3回目です。
28 戦争にゆくゆかぬというような自分の人生に深くかかわる判断は個々人がきめることだ。 ← 他人が決めることでも、ましてや国家が決めることでもない!
家庭も学校も会社も、個人の私的信念を軽くみるようであってはいけない。
しかし、私的信念を重くみるということは、その私的信念のまちがいの可能性をのこすということである。教師が自分でまちがいのない答えをもっているとする教育方針からは、まちがいの危険をあらかじめ、親心をもって、また権威をもって排除される。そのような教育に私たちはこれまでながくならされていて、それを不思議と思わなくなっている。そのために、入学試験にあわせた学校教育制度がとおっている。 ← 私たちは、いったい何を大切にしたいのか、を問われているわけですが、選び間違いをずっとし続けているようです。
30 まるごと(whole)と全体(total)
明治のはじめには、手ばやくつよい国家をつくるために、集団として型にはめ込む教育が、小学校だけでなく、中~大に必要となった。規格化、均質化。 ← 『ギヴァー』も画一化を徹底した社会です。
まるごとというのは、そのひとの手も足も、いやその指のひとつひとつ、においをかぎとる力とか、天気をよみとる力とか、皮膚であつさ、さむさ、しめりぐあいをとらえる力とか、からだの各部分と五感に、そしてそのひと特有の記憶のつみかさなりがともにはたらいて、状況ととりくむことを指す。その人のこれまでにうけた傷の記憶が、目前のものごとのうけとりかたを深めたり、ゆがめたり、さけたりすることを含む。 ← ウ~ン、と唸ってしまいます。一人ひとりのかけがいのない体験、記憶が大切にされる教室、学校、会社、家庭、地域、社会は可能なんでしょうか? 最大限に努力をしないと、まずいわけで・・・私たちはその努力をどれだけしているのかが問われてしまいます。
まるごとの教育は可能か? 偶発性教育。 親にむずかしく、教師には一層むずかしい。 ← WW&RWのアプローチならかなりのレベルで可能!
37 宮本常一の『忘れられた日本人』の一こま ~ 村という集団が全体ではなく、まるごととして動いた例の紹介。個々人が自分の役割・立場で有機的に動く。事前の相談などはしない。それぞれが経験と関係を築けているから。 ← それとコミュニティの規模と関係する。
38 教育は、連続する過程であり、相互にのりいれをする作業である。教える~教えられる、そだつ~そだてられるは、同時におこり、そして一回でおわるのではなく、その相互作用はつづいていく。 ~ しかし、一回の授業、一つの単元でよしという感覚で進み続けている日本の学校や大学の授業。
0 件のコメント:
コメントを投稿