今日紹介するのは阿部謹也さんの『ヨーロッパを読む』★です。
阿部さんは、私が好きな研究者/書き手★★の一人で、『ハーメルンの笛吹き男』以来、出たものはほとんど読んできましたが、この本はどういうわけか抜けていました。
内容的には、他の本で阿部さんが書いてきたことを講演の形で話したものですから、私にとってはあまり新しい発見はありませんでしたが、ギヴァーとの関連で思い出させてくれたことがいくつかあったので紹介します。
一つは、時間、空間、死生観が12~3世紀に大きく転換したということです。それには、村や町の共同体の出現と、その中に教会が必ず存在することが大きな要素だといいます。
それは、2つの宇宙=小宇宙(自分の身の回り)と大宇宙(その他)の捉え方の違いとも言い換えられます。 ← ギヴァーのコミュニティも、内と外をかなり明快に分けていました。そして<よそ>というか<かなた>というか<どこか自分とは関係ないところ><違うところ>(Elsewhere)は、『ギヴァー』シリーズの大きなテーマの気がしています。
教会に相当するものが、いまの日本やギヴァーのコミュニティにはないのも共通点かもしれません。
2つ目は、中世の音の世界も、いまとはまったく違っただろうということです。阿部さんは、現代人には想像もつかないだろう、と言います。機械音が、基本的にはない世界です。
ギヴァーのコミュニティも、私たちの社会とは大分違う感じをもっています。人の迷惑をまったく考えないスピーカーでの放送(自治体の)は同じですが。
3つ目は、日本における意思決定は人間関係の持ち方によっている、という指摘です。少なくとも、いまのヨーロッパにおいては関係のとり方を押し付けない。(その意味では、歴史を知る/歴史的に捉えることはとても大切!)もちろん、そういう時期もヨーロッパにはあり、いまだに残している部分もあるが・・・日本は、世間で個を位置づける。それ以外の捉え方がない! 個が存在しない日本。世間を離れたら自立できない日本人。親子関係も世間/自立できない関係。世間と社会の違い。後者は、理性、合理性、日々努力しないとわからないもの。前者は、序列、あいまい、理性の排除、義理人情など。自己を意識させない世間、と厳しいことばが続きます。さらに、個人、人格、人権は、いずれも存在しない日本、とも。
そして、世間をどう扱うかは、日本の大きな問題 ~ 世間を広げる可能性はあるのかないのか。世間を捨てることはできるのか、と。(以上のことは、主に第7章のテーマですが、本全体のテーマであり、少なくとも阿部さんの最後の10年ぐらいのテーマでした。)
この点について、ギヴァーのコミュニティではどうなのかな、と大きな?マークです。
4つ目は(3つ目に比べると軽い?テーマですが)、明治以前に「体育」という概念がなかった日本。それに対して、オリンピックはギリシャではじまり、中世ヨーロッパではすでに体育が十分に行われていた、というのです。でも、今度の柔道界のいざこざや大阪市の高校バスケ部の「体罰」事件などを見せられてしまうと、単なる「体育」や「スポーツ」以外の何ものかとつながっている、と思わされてしまいます。
それに対して、ギヴァーのコミュニティの「体育」「スポーツ」は?
★ 今回の本との出会いの出発点は、2月17日に書いた『スリー・カップス・オブ・ティー』です。パキスタンとアフガニスタンといえば、ペシャワールの会の中村哲さんとの共通点を思い出し、彼の本を読んでみようとチェックしてみたら、ほとんどが石風社という出版社から出ていたのです。それで、他に私が読みたそうなのをリストアップした中に、『医者は現場でどう考えるか』と、阿部さんの『ヨーロッパを読む』が含まれていました。(ちなみに、この選書法は『ブッククラブ』の本の208ページで紹介した「芋づる式」という極めて効果的な方法です。)
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