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2015年12月24日木曜日

ウ~ン、まったく国際貢献度が弱い、ニホン!



確か、どこかの国の首相は、国際貢献こそがニホンの生きる道、のように言ってませんでしたか??

2015年12月6日日曜日

チャールズ・ディケンズの『二都物語』の書き出し


そうです、あの有名なやつです。初版は1859年です。

●まずは、英語バージョン
It was the best of times, it was the worst of times, it was the age of wisdom, it was the age of foolishness, it was the epoch of belief, it was the epoch of incredulity, it was the season of Light, it was the season of Darkness, it was the spring of hope, it was the winter of despair, we had everything before us, we had nothing before us

以下の2つは、どなたの訳だか控えておくのを忘れました。(教えていただけたら、クレジットを入れます。)

●和訳 1
「それはすべての時代の中で、最良の時代であり、最悪の時代でもあった。英知の時代であるとともに、愚鈍の時代であり、信念の時代でもあったし、不信の時代でもあった。それは光の季節でもあれば、暗闇の季節でもあったし、希望の春でもあれば、絶望の冬でもあった。」

●和訳 2
それはおよそ善き時代でもあれば、およそ悪しき時代でもあった。
知恵の時代であるとともに、愚痴の時代でもあった。
信念の時代でもあれば、不信の時代でもあった。
光明の時でもあれば、暗黒の時でもあった。
希望の春でもあれば、絶望の冬でもあった。
前途はすべて洋々たる希望にあふれているようであれば、また前途はいっさいの暗黒、虚無とも見えた。
人々は真一文字に天国を指しているかのようでもあれば、また一路その逆を歩んでいるかのようにも見えた。
要するに、すべてはあまりにも現代に似ていたのだ。


 いずれにしても、150年以上たった今も、同じことが言えてしまうのですからスゴイです。私たちは進歩しているのでしょうか?


 ギヴァーのコミュニティは、ジョナスのアクションで前に進むことができたのでしょうか?


2015年12月4日金曜日

「市議会だより」の全戸配布

 私が住んでいる市では「市議会だより」を、「より多くの市民の皆様に議会の活動状況をお知らせするために、平成27年4月から、各家庭の郵便受け等に直接投函する方法での配布をしています。配布につきましては、市議会の予算で、配布業者に委託をしており、その予算は800万円以上が計上されています。」(こんな無駄をあえてしている議会は、全国にどのくらいあるのでしょうか? ぜひご存知の方は教えてください。)

 それを知った私の反応は・・・(以下は、議会担当者へのメールのコピーです。)

一桁違っていたら、妥当かな、と思えますが、
中身のないものに、800万円をかけても、中身が濃くなるものではありませんから、税金の無駄遣いの一言です。(←これは、○○さんの責任ではありません。議員たちの責任です。半分か3分の1は役所サイドにも責任があるかもしれませんが・・・・

もし、お疑いになるようでしたら、市民アンケートないし抽出して市民に対してアンケートなりインタビューなりをしてみたら、明らかになると思います。

費用対効果には、ぜひ敏感になってください。お願いします。


 さらには、市民・国民=有権者の責任も忘れるわけにはいきません。
   選ばれている議員の質やレベルと選ぶ側の市民・国民/有権者の質やレベルは、みごとなぐらいに比例関係にあるわけでしょうから。
  しかし、一方で、仕組み/制度が機能していないとも思わざるを得ません。
  半分前後の人は、毎回の選挙で投票に行かないことを選択し続いていますから。
  以下は、その辺に関する関連情報です。

  質やレベルのどうしようもなく低い市議会だよりを出す(いまの議会を維持する)ことよりも、議会や議員の質・レベルをはるかに向上させることこそが、議会事務局の最大の役割の気がします。(そのために、800万円強の予算を効果的に使えば、議員の質や議会の質は飛躍的に向上する可能性があります。) そんな先行事例は日本にあるはずがないので、ぜひ海外の議会・政治家のあり方に目を向けてください。ひょっとしたら、いまの地方自治で一番大切なことだと思います。日本中を被っている政治・政治家・議会に対する不満を改善することになりますから。

  少なくとも、ギヴァーのコミュニティでこういうことが起こることはないでしょう。日本の政治は、コミュニケーションが取れていないがゆえの無駄。
  ウ~ン、でも、ギヴァーのコミュニティはいまいち意思疎通が取れていない? ジョナスがコミュニティを飛び出さざるを得なかったわけですから。 表面的にはすべてOKな社会ではあっても、矛盾を抱えていた。話し合いではとても解決しないレベルの。


2015年12月3日木曜日

ギヴァーのコミュニティでのコミュニケーション


前回の「アサーティブ」を書いてから、ギヴァーのコミュニティでのコミュニケーションについて考えていました。

 映画では、メリル・ストリープが務めた最長老の独裁的なイメージが強い感じがしないではありませんでしたが(従ってアグレッシブ!)、本の中では最長老の存在感はほとんどないので、宮本常一の『忘れられた日本人』に収録されている極めて古風な「村の寄合」の意思決定方法に似ている感じをもちます。

少ない人数の人たちが、そこで住み続けることを前提にした意思決定だからだと思います。勝ち・負けをつくらない意思決定法と言えるかもしれません。(ギヴァーのコミュニティも、人口約3500人程度の小さなコミュニティです。)時間は掛かるのですが、これの良さはあると思います。

 しかし、そのやり方が今の日本で通じるかというと・・・・

 そこで参考になるのは、私が15年前に書いた『会議の技法』ではないかと思いました。多様な方法を紹介しています。それ以降、たくさんの(大量の?)会議関係の本が出ました。それほど、誰もが会議では苦労し続けている証しだと思います。そして、確実にアグレッシブ(攻撃的)とノン・アサーティブ(非主張的)しか存在せず、アサーティブ(自分も相手も大切にした自己表現)にはなれていないという実情も続いています。(そういえば、『会議の技法』はアサーティブという言葉を使わずに、それへの糸口もちゃんと紹介している本でした。)国会議員や地方議員には読んでもらって、自分の役割(仕事)を磨くきっかけにしてほしいです。


2015年11月29日日曜日

新国立競技場のその後に「意義あり」


2500億もかけるのおかしいということで白紙に戻ったのですが、それが今は1600億程度になり、都の負担も500億から400億になって、何も問題なしという状況のようです。問題視する報道は、ほとんど聞きませんから。

過去のオリンピックスタジアムは皆500億円前後です。
シドニー  572億円
アテナ   360億円
北京    525億円
ロンドン  583億円
リオ    440億円

なぜ東京が3倍にもなるのでしょうか? 日本の物価はそんなに高いのでしょうか?
誰かが、どこかで儲けているということでしょうか?
皆さんは、この理由を知りたいと思いませんか?

別に国や都が払うのではありません。それらがお金をもっているわけではありませんから。すべては、税金です。
東京都民は、国負担の800億円分を税金で取られた上に、都負担分の税金まで払わされます。二重の負担です。いったい、これにいい理由はあるのでしょうか? 
おかしいことがわかっているからなんでしょう、国の施設に税金を支出するにあたって住民訴訟の対象とならないよう根拠となる法整備も行われるということです。」


安倍さんに言わせると、これも一億総活躍の一環なので問題なしのようです。

2015年11月27日金曜日

アサーティブ

 「聞く・話す」にまつわる本(全部、英語)のブッククラブをしているのですが、その中で「アサーション・アサーティブ」との関連を提示した人がいて、懐かしく思うと同時に、何冊かの本を読んで見ました。
 懐かしいというのは、1994年にERICから出した『私、あなた、そしてみんな』と、その日本版の『人間関係を豊かにする授業実践プラン50』(小学館)★の柱の一つがアサーティブだったからです。
 何冊か読んだの中には、あとでその一部を紹介する『教師のためのアサーション』(園田雅代他編著)と『アサーション・トレーニング』(平木典子著)が含まれます。

 読んでいて、いまの日本の政治状況そのままか、と思わされてしまいました。(コピーをクリックすると拡大します。)




         出典:『教師のためのアサーション』の2~5ページ

 攻撃的/アグレッシブは、いったい誰でしょうか?
 それに対して、非主張的/ノン・アサーティブなのは?
 アサーティブな存在が、紹介してからもう20年以上もたつのに、どこにも見当たらないのが残念です。(そして、先は長いな~、とも思わされます。)

 これだけでわかりにくいなら、以下の『アサーション・トレーニング』の30ページの3つのタイプの特徴一覧表を見ていただくと、ピンと来るのではないでしょうか?




★ いまは絶版ですが、14刷までいった90年代後半から2000年代初頭にかけての隠れた(?)ベストセラーでした。


2015年11月11日水曜日

『六にんの男たち』と『たったひとりの戦い』

2冊の絵本の紹介です。
これらは、『ギヴァー』との関連というよりは、
わずか2か月前のことですが、もう何年の前のことになってしまった感じです。
日本人(人間?)は、あっという間に忘れてしまうようです。
安倍さん(自民党)は、こうなることをお見通しでした。

『六にんの男たち』(デイビッド・マッキーさく)は、がんばって豊かになり、自分たちの富を守るために兵隊を雇いました。しかし、その兵隊たちがあまりにも暇なので、近くの人たちを攻めさせて、さらに豊かになり・・・を繰り返して、大きな軍隊をもつようになりました。
そして、川を隔てた人たちと、ひょんなことから戦争に・・・生き残ったのは、それぞれ「六にんの男たち」でした・・・(残りは、みんな死んでしまった)というお話。

なんかどこかの国が前にたどったことのある歴史上の事実のような気がしてします。
豊かになり、心配で軍備増強をし、兵隊たちを遊ばせておくわけにはいかないので、「有効な使い道」として土地を拡張し、さらに豊かになり、軍備を増強し、さらに拡張し・・・です。

それに対して、
『たったひとりの戦い』(アナイス・ヴォージュラードさく)は、兵隊をたくさんもっている赤の国と青の国が戦争することになってしまったので、そんなことをさせたくない青の国を追放された王子が、兵隊をもたない黄色の国の名前で、2つの国に挑戦状を書きました。「戦場で待っているぞ」と。

たくさんの兵を連れて赤と青の国王たちは戦場にやってきましたが、黄色の国の兵隊はいつまで待ってもやってきません。両国の兵隊たちは長く待たされる間に、家族が来、そして村までできてしまいました。(その間、両国は仲良くなってしまいました。)赤も、青も、黄色の国も、みんな幸せに暮らしたとさ、というお話。

国会での議論よりも、はるかに説得力があると思ってしまいました。

2015年10月26日月曜日

『マシューのゆめ』(レオ・レオーニ作) その2



前回は書きませんでしたが、マシューが美術館の中を歩いていた時に出会ったニコレッタの存在です。
彼女が、抽象的な絵がたくさん飾ってある部屋で、「ここに ある え、みんな すきじゃない?」と、マシューに言ったのです。(マシューは、この路線でその後絵を描き続けます。)

その晩、マシューが見た夢は、ニコレッタといっしょに、楽しそうにいろんな色が重なり合い、音楽にのってゆっくりと動いていくところでした。
そして、「こんな しあわせは はじめてだった」ので、マシューはニコレッタを抱きしめ、こう言ったのです。「いつまでも ここに いよう」と。

そしてその後、彼は夢で見たことをすべて実現させたのです。

ニコレッタの「ここに ある え、みんな すきじゃない?」が出発点でした。
(それとも、この発言はマシューのだったのでしょうか? あるいは、『てん』の中でワシテの先生がチッポケナ点にサインさせ、額縁に飾った代わりに、マシューが通っていた学校のクラスのみんなと美術館に連れて行かれたのが、すべての出発点だったかもしれません。)

もう一点は、(この上のことと関連することかもしれませんが、)同じものでも見方が変りえる、ということ。
「きたない ごみの やまの あせた いろは、かがやいた。
くしゃくしゃに なった しんぶんさえ、やわらかく なめらかに みえた」
そして
「とおくから、みみなれた おんがくが きこえる ような きが した」

この最後のところなんて、『ギヴァー』のラストシーンを思わせませんか?

すでに、夢(記憶?)の中で見ていたから、これらを想像できたのでしょうか?
夢を見ていなかったら/記憶がなかったら、できないことを意味するのでしょうか?

2015年10月23日金曜日

『ギヴァー』と関連のある本 111



『マシューのゆめ ~ えかきになったねずみのはなし』レオ・レオーニ作

最初に読んだ時、この本、私の好きな『てん』(ピーター・レイノルズ作)に似ている! と思いました。(出版年からすれば、『てん』が『マシューのゆめ』に似ているのですが。)
美術館に連れて行ってもらったことがきっかけになって、描くことに専念し、たくさんのいい絵を描いて有名になる、というお話です。

でも、何回か読むことで、違うことが見えてきました。
タイトルにもある「ゆめ」という要素が気になったのです。
これは、「ゆめ」が正夢になったお話と思ったときに、もう一冊私が好きな『ギヴァー』を思い出しました。

『ギヴァー』のコミュニティに、夢を見ている人はいるのでしょうか?
記憶なしで、夢は見られるのでしょうか?

『マシューのゆめ』では、ゆめが想像力の源になっていました。
ゆめ=想像力なしには、何事も始まらないとさえ思えます。

そうなると、ギヴァーのコミュニティでは何も始まらない?
(日本は、大丈夫なのかな? と心配にもなります。)

ジョナスとギヴァーだけが記憶をもっているので、夢を見られる。ということは、想像して何かをつくり出せる。
その結果、ジョナスはコミュニティを、ゲイブリエルを連れて脱出するというアクションを起こしました。それは、単にゲイブリエルを助けるためだけでなく、コミュニティのメンバーすべてが記憶を持てるようにするために。
それは、みんなが夢を見、そして想像して何かをつくり出せるようにすることでもありました。

レオ・レオーニの作品は、こういうテーマを扱っているものが多い気がします。

2015年10月19日月曜日

『ギヴァー』と関連のある本 110



『一わだけはんたいにあるいたら......』グンナル・ベーレフェルトさく

島には、あるきどりが すんでいた。

ふしぎなことに いつも 列をつくって あるいていた。
おなじほうを むいて、 きちんと ならんで あるいていた。

ある日のこと、一わが はんたいの ほうこうへ あるきだした!

「あいつ、あたまが へんになったんだ。」
みんな、わいわい がやがや おかしなとりを ののしった。
おかしなとりを ふみつけた。
「ばかな やつめ! みんなと おなじように あるくんだ!」
「きちんと ただしく あるきなさい!」
おかしなとりを けとばし、 つっつき、 おどしつけた。
「まっすぐ あるけ!」「あしなみ そろえろ!」「列を くずすな!」
みんな、 口ぐちに どなりつけた。

そのとき とつぜん、 もう一わの あるきどりが、
おおきく はばたき まいあがった。

これは また なんてこと!
あるきどりたちは、 われもわれもと はばたきだした。

「いったいぜんたい どうしたの?」
「おれたち、 ちがうほうへも いけるんだ!」
「とぶことだって できるんだ!」
「およぐことだって できるのよ!」
「ぼくたち、 つばさが あったんだ!」

「さあ とぼう! おい風だって むかい風だって へいきだぞ!」

ひろいひろい、この大空、 力いっぱい とんでみよう!


以上、全部ではありませんが、ほとんど全部、書き出しました。
ジョナスの行動が、コミュニティにもたらしたことを思い浮かばせてくれます。

と同時に、私たちが日々していることも。(それは、前半の部分ですが。)

でも、反対に歩き出す最初の一羽よりも、飛び立った二番目の方が大事な存在なのでしょうか? それとも、最初の一羽がいたからこそ、二番目の行動が可能になったのでしょうか? ジョナスは、どっち?

2015年10月18日日曜日

『ギヴァー 記憶を注ぐ者』を読みました。しかも一ヶ月に2度も。



というTさんが感想を送ってくれました。

初めは9月中旬に渋谷で『ギヴァー 記憶を注ぐ者』の映画を観たのがきっかけでした。迫力ある展開をもう一度味わいたかったのと、なんでこのコミュニティが存在するのか、その背景をもっと知りたくて本を手に取りました。

その後は『ギヴァー 記憶を注ぐ者』の本『ギャザリングブルー』『メッセンジャー』再び『ギヴァー 記憶を注ぐ者』の本と、展開に乗っかって(飲み込まれて?)たった一ヶ月で、『ギヴァー』を二度も読んでしまいました。


何がそんなに自分の心にヒットしたのか。

自分の心の中に描いたギヴァーの世界と、今の仕事、今の教育、今の世の中の問題点とぴったりと(恐ろしいくらい)重なったからかもしれません。

衝撃だったのは・・・

「すべてが同じなのならば、選択のしようがないですよ!ぼくは朝起きて、どうするか決めたいんです!」
ジョナスのふりしぼられた叫び。これって教室の中にいる子ども達の声なのかもしれません。

同一化、予測可能なギヴァーの世界に起こっていることは正解をあてっこする授業そのもののように感じます。
与えられたものを与えられた通りにこなすだけ。
ジョナスのように声が上がらないよう、つつがなく授業をずっと行っていたとしたら、子どもは同一化に向かうだけ。会社も学校も同様で、誰かが決めた事を押しつけられて、それをこなすことに必死になっていたら...やっておくことが無難、ことなかれ的、意味や価値を感じない。自己有能感やモチベーションが高まる瞬間ってどうやってつくっていったらいいのでしょう?


ジョナスの父が双子の一方を解放した後はとても辛かったです。ジョナスの高ぶる感情のあとのギヴァーの言葉もぐさりときました。「かれらは何も知らないのだから」「与えられた人生なのだから」

疑いもせずに平気で過ごせてしまうことほど恐ろしいことはない。そう感じました。


その後、ジョナスがコミュニティを飛び出したあと展開ですが、ここのページ数ってそんなにありません。
でも、読んでも読んでも先に進まない不思議な感覚を味わいました。

色鮮やかな一つ一つの風景の美しさ。
花のにおい、水の冷たさ。凍えながら記憶をもとに体を温める感覚、やっと手にしたジャガイモ。泣きやまないゲイブの声。

自分自身もジョナスといつの間にか一体化して、同一化の世界を飛び出し、じっくり新鮮さを味わう内的な時間をじっくり楽しんでいたのかもしれません。


改めてふり返ってみると、この本を通して
・問うこと(当たり前を疑うこと)
・選択すること
・勇気を持って行動すること
・愛を分かち合うこと
ってどういうことなのか?を問われたように感じます。
これらの問いは以前もどこかで考えたと思いますが、この物語を通して強く鮮明に頭の中に残ったように感じます★★


『ギャザリングブルー』『メッセンジャー』を読み終えて。なんでマティは自分自身をトレードしなくてはいけなかったのか。もやもやしています。今後の展開がとても気になります。

★★最初の1点目は最近読んでいる『たった一つを変えるだけ ~ クラスも教師も自立する「質問づくり」』にもつながりますし、あとの3点はポジティブに生きていく上で欠かせない要素かもしれません。

2015年10月17日土曜日

『ギヴァー』と関連のある本 109



『戦争で死んだ兵士のこと』小泉吉宏さく

表紙に、飼い犬の姿が。
待っていた飼い主は戻ってこない、という意味??

『ギヴァー』の中で、ギヴァーがジョナスに戦争の記憶を注入する場面が出てきます。

あのシーンで死んだ兵士の記憶を辿ると、この絵本になるのでは、と思いました。

誰にも歴史というか、記憶があるということがわかり、かつ「召集」という一つの巡り合わせで、ハッピーな生活から生死の境をさまよう生活に入っていくことがわかる絵本。

結局、表紙の犬とはどういう関係かは、絵本を読み終わってもわかりませんでした。
でも、待っている人は永遠に帰って来ないことを象徴しているのかも。渋谷のハチ公のように

2015年10月13日火曜日

『ギヴァー』と関連のある本 108

絵本『だって・・・』石津ちひろ・作、下谷二助・絵です。

内容が言わんとしていることは・・・・

二助: 子どもって、勝手気ままに反発するでしょ。ワクをはめようとする大人とぶつかるのは当然なんだろうね。そういうところに生まれてくる「だって」というセリフがね、たくさんきこえてくる生活というのはさ、ある意味でとってもすばらしいことなんじゃないでしょうかね。だから「だって」がなくなってしまうっているのは・・・・。

ちひろ: いっけんスムーズみたいだけど、じつは・・・・。

二助: じつは「だって」の大切さをね、見失っちゃってるというね。

ちひろ: 「こういう人なのね」ってあきらめちゃうと、おたがいに「だって」っていわなくなるんじゃない?


以上は、作者二人の対談の形で、本の内容を解説してくれているものの引用でした。

最後の「人」は「組織」や「社会」に置き換えられてしまいます。
ギヴァーのコミュニティでは、すでに「だって」が完全に証明した社会です。
日本は大丈夫でしょうか?

ラグビー日本代表ヘッド・コーチのエディー・ジョーンズさんは、「日本では高校、大学、トップリーグでも高いレベルでパフォーマンスする指導ができていない。規律を守らせるため、従順にさせるためだけに練習をしている。それでは勝てない」と、「だって」思考で枠を出た発想と行動を起こさないと、失うものが多いことに警笛を鳴らしています。

ギヴァーのコミュニティで、唯一「だって」を言い、そして行動したのはジョナスでした。

2015年9月27日日曜日

『ギヴァー』と関連のある本 107



しばらくぶりの『ギヴァー』と関連のある本です。
それは、絵本『せかいでいちばんつよい国』デビッド・マッキー作です。

<一部を紹介します。> 絵といっしょにコピーして紹介したいところですが、著作権に引っかかってはまずいので、遠慮しました。それほど、絵も文章もいいです!!

むかし、大きな国が ありました。
大きな国の 人びとは、じぶんたちの くらしほど すてきなものはないと、
かたく しんじていました。
この国の へいたいは、たいへん つよくて、 たいほうも もっています。
そこで 大きな国の だいとうりょうは、いろんな国へ、せんそうを しにいきました。
「せかいじゅうの 人びとを しあわせにするためだ。われわれが せいかいじゅうを せいふくすれば、 みんなが われわれと おなじように くらせるのだからな」

しばらくたつと、まだ せいふくされていない国は、たったひとつに ありました。
あんまり 小さな国なので、だいとうりょうは、これまで ほうっておいたのです。

小さな国に ついた だいとうりょうは おどろきました。
なんと、この国には へいたいが いなかったのです。
これでは せんそうが できないでは ありませんか。
小さな国の 人びとは、大きな国の へいたいたちを おきゃくように かんげいしました。
だいとうりょうは、いちばん りっぱな家を もらい、
へいたいたちは、あちこちの家に とめてもらうことに なりました。

へいたいたちは、小さな国の 人びとと おしゃべりをし、めずらしい 石けりを おしえてもらい、むかしばなしに 耳を かたむけました。
小さな国の 歌を ならい、じょうだんを きいて わらいころげました。

この国では たべものも かわっています。
へいたいたちは、台所に 入っていって、あじみをしました。
へぇ、おいしい!
ほかに することもないので、へいたいたちは、
小さな国の 人びとの しごとを てつだうように なりました。
 ・
 ・
 ・
なつかしい ふるさとに もどった だいとうりょうは、ほっとしました。
ところが、おやおや、なんだか ようすが へんです。
あちこちの家から、小さな国で たべていた りょうりの においが してきます。
小さな国 石けりが はやっています。小さな国の ふくを きている人も いました。
だいとうりょうは、にやりと わらいました。
「まあ いいさ。 どれも これも、せんそうで ぶんどってきた ものだからな」

<紹介、終わり>

大きな国は、アメリカ? 中国?

小さな国は、ニホンや『ギヴァー』のコミュニティであってほしい気はしますが、はるかに及びません。ニホンの場合は、近づこうとしているようには思えません。『ギヴァー』のコミュニティではジョナスがコミュニティを飛び出したことによって、これまでの秩序が乱されることになりますから、今後どうなるかはまったくわかりません。(その方が、ニホンよりは可能性がはるかに高いような気がします。)

ちなみに、井上ひさしさんの『吉里吉里人』も、同じ発想のもとに書かれた本ですので、ぜひご一読を。

2015年9月16日水曜日

「国民をバカにしないでください」 <緊急配信>



国会のしていることは(安保法案に限りませんが!)、まさにこれにつきてしまいます!

SEALDs奥田愛基さんが国会で要望(全文)

これを聞いていた議員たちよりも、そしてその席には座っていなかった他の国会議員たちよりも、はるかにまっとうな内容のスピーチではないかと思いました。

大方(9割以上?)のニホン人の思いを代弁した。

そして、これを聞ける/理解できる耳が国会議員たちにないということは、もはや民主主義(代表制民主主義)が機能していないことを、自分たちが証明してしまうことになります。

奥田さん以外に公聴会で意見を述べた5人のも含めて、以下で見られます。

彼の意見が、格段にインパクトがありました。いわゆる有識者と言われる人たちよりも。(ネット社会の影響もあり?)時代は、確実に「有識者」の時代ではなくなりつつあることを見せてくれたビデオでもありました。


私はそれ以上に、この国会の会議のもち方に時代錯誤的なものを感じました。(おそらく、明治に最初にできたときから、何も変わっていないのでしょう! 変えようともしないのでしょう!)
奥田さんが話し始める前に言った(言わざるを得なかった)ように、多くの人が眠らないとやっていられないような議事進行をいまだにやり続けているのです。
もっと参加型の進行(会の持ち方)がいくらでも可能なのに!!
こういう場のもち方自体が、確実に、民主的な物事のやり取りを阻害し続けているんだと思います。国会に限らず、すべての場で。

『ギヴァー』の世界では、起こらないことだとも思いました。

2015年9月13日日曜日

今回の北関東・南東北の大雨



とても、悲惨な大雨です。しかも、秋の収穫前の。

しかし、密かに喜んでいる人たちもいる気がします。
安保法案を通そうとしている人たち= 安倍自民

この1週間、ニュースがそちらの報道を優先するので、国民の7~8割が不安をもっており、理解もしていない法案が、すんなり通ってしまう運びになっています。(その意味では、絶妙のタイミングとしか言えないかもしれません。自分たちが悪者にならずに済むのですから。)

形はどうなれ、でもこの法案が通ることは、自民党が大勝した段階で決まっていたと思います。投票した人たちは、このことも含めて投票してくれた、と少なくとも安倍さんはじめ自民党は解釈しているのですから。

しかし、もし通ってしまったら、どうなるんでしょうね?
民主主義が、機能していないことをさらけ出す?? 選挙という制度は機能していても。

2015年9月12日土曜日

『ギヴァー』と密接に関係する本の紹介

新刊です。
タイトルは、『たった一つを変えるだけ』

何を変えるか?
一人ひとりが質問できるようにすることです。

「問い」「問うこと」「質問すること」は、このブログで繰り返し扱ってきました。
『ギヴァー』の大切なテーマだと思っているので。

このことに興味を持ち始めたのは、1986年に『ワールド・スタディーズ』(サイモン・フィッシャー&デイヴィッド・ヒックス著)に出会ったときです。あまりにもいいので、訳して出してしまいました。(今回の本と同じように!)

その中に、
「教 育の鍵は、知識よりむしろ『問いかけること』です・・・(中略)・・・ワールド・スタディーズが目指すのは、学びかたを学ぶ力、問題を解決する力、自分の 価値観を自覚する力、自分で選択できる力です。これは、ひとえに『問いかけ』に、単に質問するだけでなく、子どもたちが自分で疑問点を洗いだし、答を見つ けていけるようにすることにかかっています。『問いかけ』は、情報が目まぐるしく移り変わる今日の世界では、私たち教師が子どもたちに提供できる最良のも のと言えましょう」(15ページ)
と書いてありました。
今でもそこに書いてある大切さは薄れていないと思いますし、そのまま『たった一つを変えるだけ』にも流れている考え方です。(このことが、私が『ギヴァー』への興味を持たせた根底にあったのかもしれません。)

本は、学校で教師が生徒たちにどのように「質問づくり」ができるように教えたらよいかを、わかりやすく書いていますが、この方法を開発した二人の著者は、もともとはまちづくり/コミュニティづくりが専門です(いまでも、その活動が中心です)。

二人の経歴は、以下の通りです。

●ダン・ロスステイン ~ ルースとThe Right Question Instituteの 共同代表。長年、対象としていた人びとから学び、そのノウハウをコミュニティ・オーガナイザーや都市計画家として、より効果的な市民参加や民主的な社会シ ステムの構築に応用してきた。全米各地だけでなく、イスラエルでも仕事をしたことがある。ハーバード大学およびハーバード大学教育大学院(博士号取得) 卒。http://rightquestion.org/

●ルース・サンタナ ~ 生活保護を受けて家族を育て、工場労働者として働き、そして学校に戻って卒業し、大学・大学院(Springfield College) で学び、自分自身の体験をモデルとして、多くの人と共有する活動を展開している。対象がどんな人でも(教育のレベルや所得などが)、見事なぐらいにニーズ に合わせて対応できるのが特技。今は母校で教えてもいる。25年ほど前に、当時ルースが住んでいたマサチューセッツ州のローレンス市で市の都市計画担当職 員であったダンと住民代表として出会った。

本文から、教育の転換とよりよい社会づくりに欠かせない「質問づくり」について書かれた一節を紹介します。

学校教育での取り組みは、彼らにとっては12~3年前からのことで、それ以前は(いまでも!)、成人・社会・社員教育やコミュニティづくりで使っています。アプローチは、まったく同じです。

『ギヴァー』のコミュニティも(ということは、ニホンも?)、質問することを忘れた社会です。過去を知ったジョナスだけが、質問をし、そして自分なりの答も見出して、行動に移しました。私たちも、ジョナスに見習わなければいけないと思います。この本を参考にしながら・・・

本は、9月4日の発売でした。
でも、私を通すと、税込み価格が2592円ですが、著者(訳者)割引で税・送料共込みで2200円です。ご希望の方は、名前と住所と電話番号をpro.workshop@gmail.com にお知らせください。
お近くの図書館でリクエストを出して読んでいただくという方法もありますので、ぜひ民主的な社会づくりのためにご協力よろしくお願いします。

2015年9月11日金曜日

続・軽減税率

財務省案「率直に言ってみっともない」
「バナナのたたき売りみたいだ。そんなことをやりだしたら税の話ではなく、福祉給付金みたいなバラマキの話になる」
http://www.yomiuri.co.jp/politics/20150911-OYT1T50007.html?from=ytop_main4

消費税還付手続き、わずらわしそう 財務省案が判明
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150910-00000009-asahi-pol

「軽減税率もどきだ」
http://www.yomiuri.co.jp/politics/20150910-OYT1T50191.html?from=ytop_ylist

別に政治家でなくても言えることばかりですが、財務省(官僚)やマスコミは誰が言ったかが大事です。内容の質よりも。
圧力を糧にして、ぜひ、グチャグチャを少しでもまともなものにしてほしいです。

2015年9月10日木曜日

グチャグチャな軽減税率



東京オリンピック招致関連がグチャグチャだと思っていたら、こちらはその比ではありません。
その「適当」具合も。
目に見えるか・見えないかの差も大きいのかもしれません。(あっちで声を出す人はいても、こっちでは聞きませんから。)
しかも、金額は、期間限定のオリンピック「問題」と違って、桁が違うのがずっと続きます。そして、各人にとっての影響は毎日続きます。

2017年4月に税率が10%に引き上げられるのにあたり、軽減税率を適用する線引きは大切です。
「酒を除く飲食料品」「生鮮食品」「精米」などが候補に上っています。

問題は、「複数の税率を設けると事業者の経理処理が複雑になるため、いったん10%の税率を課した上で、払いすぎた税金分を後から支給する方式を導入する方向だ」です。

1)
本当に、国にそんなことができるのでしょうか?
あれだけ、年金で失態をしておいて。(あれだけ問題を犯し続けても、すべては税金でカバーされています!)
自分たちで、管理したい。継続的に関わっていたい、からなのではないでしょうか?

2)
他の国で、上記の方式を取っているところがいくつあるか?
そして、ちゃんと機能しているのか?
こういう情報を見つけました。

3)
そして、「複数の税率を設けると事業者の経理処理が複雑になる」のか?
おそらく、そんなことはないと思います。
複数の税率方式を取っている国は、どれだけあるのか? そして、問題は抱えているのか? 国は、ちゃんと示すべきです。

もし、「複数の税率を設けると事業者の経理処理が複雑になる」が言い訳なら、単純に導入方法がグチャグチャだった(先見性がまったくなかった!)から、ということを自分たちで証明したようなもんではないでしょうか?
そもそも、国の借金をあれだけ膨らませても、なんとも思っていない財務省が考えることですから・・・・

こういったグチャグチャは、『ギヴァー』のコミュニティでは起こりえません!!

2015年9月6日日曜日

続、ニホン vs. ニッポン



あなたは、どのように読みますか?

「中国で人気の日本の絵本」「日本人」「日本政府」「日本時間」「日本文化の見直し」「東日本大震災」「西日本全域に台風の影響」「日本語」「日本企業」「日本の領土」「日本のロケット」「日本国内」「日本料理」「日本の米」

洗脳はコワイ!を書いて以来、5か月間、NHKのラジオ総合で「ニッポン vs. ニホン」について聞き耳を立て続けました。(テレビは見ないし、他の局は聞かないので、チェックのしようがありません。)

言えることは、良識のある人=普通の人のほとんど(99%)は、「ニホン」としか言わない事実です。

それに対して、「ニッポン」派は、アナウンサーと一部の政治家(どちらかというと、自民党?)に限定されるということでした。★

先日も、NHKのラジオ総合で、毎週週末の夕方にやっている番組で小学生たちが作文を読んで「ニホン」を連発するのですが、担当のアナウンサーは、その後のコメントで「ニッポン」を連発です。あたかも、「日本を、ニホンと呼んでは間違いで、ニッポンと言わないと間違いなのよ!」と暗に声を大にして言いたいがごとくに。あるいは、NHKという組織に言わされているので、「私は、しかたなく言い続けますが、あなたはニホンと言い続けていいのよ!」というメッセージを込めながら???
一緒に担当している、年長のアナウンサーはこの「問題」に関わりたくないのか、「日本」と言わざるを得ないところを、意図的に避けているようでした。

そのアナウンサーたちも、自分の本音でしゃべる時は、「ニホン」になる時が、度々でした。
意識しないと「ニッポン」とはまだ言えないのかもしれません。
若い人たちは、最初から「ニッポン」一色に染まっているようなので、問題ないようですが・・・・
組織からの相当の圧力があるのでしょう。
アナウンサーや政府関係者が、「洗脳マシーン化」しているわけです。

ある意味では、国旗・国家と同じです。

でも、それで人の心は買えるのでしょうか?


★ そのアナウンサーたちも、日本人や東日本・西日本や日本時間などは、すべて「ニホン」で統一していました。★★
「ニッポン」と言ったり、「ニホン」と言ったり、大変だろうなと思ってしまいます。そして、「ニホン」で統一したら、スッキリするのにと。
  若いアナウンサーは、考えていないんでしょう、何でもニッポンと言えばいいと思い込んでいるようです。それに対して、ベテランたちは国名のニッポン以外は「仕方なく」言っているように聞こえます。
  NHKが「ニッポン」を根拠にする理由も見直せば、それがおかしいことにすぐ気づけるのに・・・・なんと戦前の「大ニッポン帝国時代」=洗脳の時代に決まったことを、後生大事に守っているだけなのです。アナウンサーで、そこまでちゃんと確認して、自分が言い続けている人はいるのでしょうか? これが、「洗脳」の恐ろしさ、です。

ニッポンを言いたい人には、どうぞ、としか言いようがないと私も思っています。
でも、公共放送を自認しているNHKがそれをアナウンサーにやらせておくことは、「言いたい人の自由」でしょうか?? 私には「洗脳」としか言いようがありません。 聞く人の立場を無視した。

★★ いや、そうでもないことがわかりました。この場合の、ニッポン派もいました。要するに、統一性がまったくなく、極めていい加減であることが。それこそ、「強制」の結果だと思います。