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2019年12月28日土曜日

「スウェーデンの民主主義」に学ぶ


前回の3つよりも、大切かもしれない2つです。

・地方レベルの政治家はもちろん、国家レベルの政治家も「普通の人」
~ 特別な車、お雇い運転手、その他いろいろな特権は与えられていません。
  普通の人でないと社会が必要なことを認識できなくなるから。
  その意味では、日本の国会議員の多くを「普通の人」と捉えている有権者はどれだけいるでしょうか? 「先生」という名前が象徴するように、「普通の人」ではないことを当人も、周りも意識しています。

・地方レベルも、国家レベルも、男女ほぼ同数。
~ 日本がスウェーデンのレベルになるのは、あと何十年かかるでしょうか?
  20年、30年では確実に無理で、100年でも半分も無理でしょうか?
  これだけを考えても、とても悲しいですし、真の民主主義が存在しないことのバロメーターとも言えると思います。

2019年12月27日金曜日

日本の民主主義とスウェーデンの民主主義


 『あなたの知らない政治家の世界 ~ スウェーデンに学ぶ民主主義』を読んで、改めて同じ「民主主義」という言葉では語れないと思ってしまいました。
 片や、試行錯誤の末にベストを模索し続ける社会であり、片や、机上の空論としてしかそれが存在しない社会です。
 主には、3つの点で学びたいです。
 ・情報公開 ~ ここ数年、日本国民は安倍さんの情報隠しに嫌気がさしています。自分に都合の悪い情報は、官僚を巻き込んで開示しません。それでは、まともな政治などが行われようがないのに。日本社会は「従順/服従/忖度」社会であること証明しただけでなく、それをより強固にした方がいいということをモデルで示しているようなものです。(民主主義社会とは逆さまな状況です!)
 ・オンブズマン制度 ~ これが、国レベルでも地方レベルでも機能しているとは言い難い状況が続いています。
 ・地方議員のほとんどはボランティア ~ これは、本からではなく、実際に90年代にスウェーデンを訪ねて知ったことでしたが、別な観点からの情報を得られました。今の日本では地方議員のなり手が急激に減少していると言います。職業議員ではなくて、ボランティア議員制に転換すれば、誰にとってもいいのではないかと、この制度を知った20年以上前から思っています!(国政も、日本の議員たちが大したことがやれているとはまったく思えませんから、あの井上ひさしさんが提案した「タッチ制」でいいと思っているぐらいです! https://thegiverisreborn.blogspot.com/search?q=%E5%90%89%E9%87%8C%E5%90%89%E9%87%8C で関連記事が。

 でも、政治家と一般市民との関係は、会社等の組織の重役と社員、学校の管理職と生徒(教師は、どっちに入る?)、家庭や地域の中の人間関係と構造的に同じということです。別に、日本の政治家だけが突出しておかしいのではなく! ぜひ、この本を読みながら、ありたい姿/あるべき姿を考えてみてください。


2019年12月23日月曜日

極めて黒い(東京)オリンピック


これまでも東京オリンピックについては、何度も書きました。

そして、最新は

ようするには、政治家、企業、マスコミがすべてグルになっています。
ある意味では、大学入試の茶番=黒い教育も含めて、どの分野も同じということです。
かなり高価な代償を払わされた上で、踊らされるだけなのが声なき民であり続けます。

声がもてるようにするには、どうしたらいいのでしょうか?

2019年12月10日火曜日

世間とは?


今回のタイトルは、「安倍さんの世間 それとも、単なる私物化?」でいこうと思いましたが、後者は除くことにしました。でも、それがメインのテーマであることには変わりありません。
日本に数多く存在する学者の中で、ほとんど唯一、私が人に紹介したいと思えるのは中世ヨーロッパ史の研究者で一橋大学の学長もした阿部謹也という人です。『ハーメルンの笛吹き男―伝説とその世界』に1980年ぐらいに出合って、その後、中世ヨーロッパについて書いているほとんどの本を読みました。
その彼が、自分の人生の最後の10年ぐらいを費やしたのが、「世間」の研究というか解明と紹介だったのです。「社会」と「世間」は同じようでまったく違います。片方は開いていますが、もう一方は閉じています。閉じているがゆえに、大きな問題も抱えています。阿部さんは、主には大学ないし学会という世間を中心に論じていました。なんとか改善させたいと! しかし、閉じていますから、阿部さんも太刀打ちできませんでした。
安倍さんにまつわる諸々の問題も、その「世間」が巻き起こしている問題と言えます。安倍さんは日本の首相という立場でありながら、実は彼の中では自分を取り巻く「世間」のことしか考えていないことがよくわかります。彼の世間の内側の人と、外側の人とで明快な区別が行われています。日本の政治とは、そういうものと言ってしまえば、それまでですが・・・・しかし、リーダーたるもの、それを貫き通していいのかとなると、まずいに決まっています。歴代首相の中で、安倍さんはその線引きが最も弱い人なのかもしれません。(ちなみに、「民主主義」について、日本の住民はそれを紙の上で知っているだけで、体験を通してしりません。そんな国が、改憲をしてしまうと、何も止めるものがなくなってしまう可能性が大です! もちろん、安倍さんの独裁的ともいえる物事の進め方の問題は大きいですが、それに対してまったくチェック機能を果たせない野党の非力は自分たちの存在感を無に等しい状態にしています。)
 この辺のことは、『ギヴァー』のコミュニティーのリーダーシップのあり方と対比して考え続けています。


2019年12月8日日曜日

開戦記念日


終戦記念日は、その1週間とか2週間前から、毎年いろいろ報道され続けています。
ヒロシマ・ナガサキがありますから、当然な流れと言えますが。

マスコミで「開戦」に触れるところは、ほとんどなくなっています(あったとしても、気がつかないような扱い!)。

しかし、より大事(なレベルではなく、はるかに大事)なのは被害者意識が詰まった終戦ではなくて、開戦のほうです。そこに焦点を当てない限りは、「二度と繰り返しません」と言っても、かなり疑わしいです。原因なしで、結果だけが存在するわけはありませんから。

開戦記念日を考えることは、それに至る日華事変、満州事変、韓国併合、日露戦争、日清戦争等を考えることになりますが(突発的に真珠湾攻撃が行われたわけではありませんから!)、終戦記念日から、はたしてそれらを考えることはあるでしょうか?

「記憶」は、『ギヴァー』の大切なテーマの一つです。

2019年12月6日金曜日

4姉妹の集合写真を40年間も撮り続ける!


 1975年、ニコラス・ニクソンは、43年に渡って4姉妹の写真を毎年撮影し始めました。ニコラス・ニクソンは、4姉妹のうちの一人であるベベと結婚しましたが、ニクソンの写真のシリーズは家族アルバム以上の記録になりました。この白黒写真のコレクションは、多くのギャラリーや博物館で展示され、本としても出版されました(Nicholas Nixon: The Brown Sisters. Forty Years)  

https://www.soolide.com/ja/67815 

2019年12月4日水曜日

ネガティブ・ケイパビリティ―


 ある本を読んでいたら、この言葉が出てきました。
 検索して見ると、


ネガティブ・ケイパビリティ(英語: Negative capability)は、詩人ジョン・キーツが 不確実なものや未解決のものを受容する能力を記述した言葉。日本語訳は定まっておらず、「消極的能力」「消極的受容力」「否定的能力」など数多くの訳語が存在する。『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』によると、悩める現代人に最も必要と考えるのは「共感する」ことであり、この共感が成熟する過程で伴走し、容易に答えの出ない事態に耐えうる能力がネガティブ・ケイパビリティ。(Wikipediaより)

  ここで引用されている、帚木蓬生著(2017)『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』(朝日選書)を早速借りてきて読みました。こちらでは、「事実や理由をせっかちに求めず、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいられる能力」と定義していました。(左の数字は、この本のページ数です。カッコ斜体は、私のコメントです。)

  9 私たちは「能力」と言えば、才能や才覚、物事の処理能力を想像します。学校教育や職業教育が不断に追求し、目的としているのもこの能力です。問題が生じれば、的確かつ迅速に対処する能力が養成されます。

  でも、ネガティブ・ケイパビリティは、その逆の能力(つまり、ポジティブ・ケイパビリティ)なのです。


10 帚木さんは、この能力を知って以来、生きることがずいぶん楽になりました、と書いています。「いわば、ふんばる力がついたのです。それほどこの能力は底力を持っています」

76 キーツとネガティブ・ケイパビリティ―を蘇らせたビオンによると、「答えは好奇心にとって不幸であり、病気なのです。<答えは好奇心を殺す>

141 創造(ラテン語でcreatio)の原義はto bring into beingで、「(無からこの世に)存在させる」です。つまり創造行為は、人間が神の位置に立って、無から有を生じさせる鋭意なのです。だからこそ、通常の能力ではなく、ネガティブ・ケイパビリティ―が介在しなければならないのだとも考えられます。

 第9章は、「ネガティブ・ケイパビリティ―が失われ、殺伐としてしまった教育」に特化した章です。

186 幼稚園から大学に至るまでの教育に共通しているのは、問題の設定とそれに対する解答につきます。(要するに、「正解あてっこゲーム」という名の「学校ごっこ」をやり続けます。させ続けます。それを勉強することと誤解して。)その教育が目指しているのは、ポジティブ・ケイパビリティ―の養成です。平たい言い方をすれば、問題解決のための教育です。しかも、問題解決に時間を費やしては、賞讃されません。なるべくなら電光石火の解決が推賞されます。この「早く早く」は学校だけでなく、家庭にも浸透しています。(そして、社会全体にも!
 問題解決があまりに強調されると、まず問題設定のときに、問題そのものを平易化してしまう傾向が生まれます。単純な問題なら解決も早いからです。このときの問題は、複雑さをそぎ落しているので、現実の世界から遊離したものになりがちです。言い換えると、問題を設定した土俵自体、現実を踏まえていないケースが出てきます。こうなると解答は、そもそも机上の空論になります。
 教育とは、本来、もっと未知なものへの畏怖を伴うものであるべきでしょう。この世で知られていることより、知られていないことの方が多いはずだからです。
 著者は、この後、江戸時代の漢籍の教え方について紹介してくれています。ある意味で、いま学校や大学で行われている学びの対極にあったものとして。そこには「土俵としての問題設定」自体がなかったものとして。

189 本来、教育というのはそれ(個人差があるので、落第や飛び級)が本当のありからではないでしょうか。
 ところが、今日の教育は画一的です。横並びで一年一年を足並揃えて、上級学年に上がっていく体制になっています。
 その結果、採用されたのが到達目標とその達成度です。その到達目標も、個々人に合った目標ではありません。あくまで一年毎の建前としての到達目標です。私は学校教育が到達目標を設定したときから、学校が変質したような気がします。
190 これでは、毎年落ちこぼれる/学校学業の場となる子どもが出ても仕方がありません。このところてん式の進級と進学に輪をかけているのが、試験です。この試験突破こそが、学習の最終目標と化してしまうと、たしなみ、素養としての教育ではなくなります。問題解決のための学習、勉強になってしまうのです。

 こうした教育の現場に働いているのは、教える側の思惑です。もっと端的に言えば「欲望」です。教える側が、一定の物差しを用いて教え、生徒を導くのです。物差しが基準ですから、そこから逸したさまざまな事柄は、切り捨てられます。何よりも、教える側が、問題を狭く設定してしまっています。そのほうが「解答」を手早く教えられるからです。

191 しかしここには、何かが決定的に抜け落ちています。世の中には、そう簡単には解決できない問題が満ち満ちているという事実が、伝達されていないのです。前述したように、むしろ人が生きていくうえでは、解決できる問題よりも解決できない問題のほうが、何倍も多いのです。
 そこで教える側も、教えられる側も視野狭窄に陥ってしまっています。無限の可能性を秘めているはずの教育が、ちっぽけなものになっていきます。もう素養とか、たしなみでもなくなってしまいます。
 ・・・教育者のほうが、教育の先に広がっている無限の可能性を忘れ去っているので、教育される側は、閉塞感ばかりを感じ取ってしまいがちです。学習の面白さではなく、白々しさばかりを感じて、学びへの興味を失うのです。
 学べば学ぶほど、未知の世界が広がっていく。学習すればするほど、その道がどこまでも続いているのが分かる。あれが峠だと思って坂を登りつめても、またその後ろに、もうひとつ高い山が見える。そこで登るのをやめてもいいのですが、見たからにはあの峰に辿りついてみたい。それが人の心の常であり、学びの力でしょう。つまり、答えの出ない問題を探し続ける挑戦こそが教育の真髄でしょう。
192 学習といえば、学校の課題、塾の課題をこなすことだと、早合点してしまいがちです。世の中には、もっと他に学ぶべきものがあるのに、親はそれを子どもに伝えるのさえも忘れてしまいます。(自然、アートなど。)
193 問題設定が可能で、解答がすぐに出るような事柄は、人生のほんの一部でしょう。残りの大部分は、わけが分からないまま、興味や尊敬の念を抱いて、生涯かけて何かを掴み取るものです。それまでは耐え続けなければならないのです。
195 不登校の子が発揮するネガティブ・ケイパビリティ―

200 解決すること、答えを早く出すこと、それだけが能力ではない。解決しなくても、訳が分からなくても、持ちこたえていく、消極的(ネガティブ)に見えても、実際には、この人生態度には大きなパワーが秘められています。
 どうにもならないように見える問題も、持ちこたえていくうちに、落ち着くところに落ち着き、解決していく。人間には底知れぬ「知恵」が備わっていますから、持ちこたえていれば、いつか、そんな日が来ます。
 「すぐには解決できなくても、なんとか持ちこたえていける。それは、実な能力の一つなんだよ」ということを、子どもにも教えてやる必要があるのではないかと思います。


2019年12月3日火曜日

ドクター・スースの名言


 ドクター・スースは、私が大好きな絵本作家の一人です。
 すでに、このブログで『きみの行く道』 を中心に、何冊か紹介しています。

 今日は、彼の名言をいくつか紹介したくなりました。
(もちろん、『ギヴァー』というか、ジョナスとの関連で)

今日という日、君はだった。これは真実よりも確かなこと。
君よりも君らしい人なんて、この世には存在しないんだよ
Today you are You, that is truer than true. There is no one alive who is Youer than You

時として問題は複雑であり、答えは簡単である
Sometimes the questions are complicated and the answers are simple

●向こうからここまで、ここから向こうまで、面白いことはどこにでもある
From there to here, from here to there, funny things are everywhere!

●際立つように生まれついたのに、なぜ周りに合わせようとするの?
Why fit in when you were born to stand out?

●あなたこそが、行くべきところを決める人物なのです
You are the guy who’ll decide where to go



2019年11月30日土曜日

審議会という茶番


「NHK中央放送番組審議会」のニュースをラジオで聞きました。
もちろん、はじめてではありません。
これまでに何回も聞いています。
「性懲りもなく、続けるな~」という印象しかありません。
これによって、いったいどういうメリットとデメリットがあるのか当事者たちは考えたことがあるのでしょうか?

実は、各省庁や自治体が行っている有識者(?)で構成される審議会や委員会も同じです。この種のものが役所は好きです。
自分たちが言う代わりに、第三者に代弁させれば「通りがいい」「反論が言いにくい」という論理だからです。
基本的には、その審議会や委員会の裏方というか担当部署のシナリオ通りに進みます。
そうでないと、担当部局にとっての審議会や委員会の意味がないというか、ありがたみがありませんから。
そうなると、担当部局にとって煙たい発言は出ないことを意味しますし、間違って出されてしまうと、それをもみ消すのに努力することになります。
しかし、そもそも審議会や委員会のメンバー自体、担当部局が選出するわけですから、予期しない発言をするような人は選ばれないことも意味します。

以上が、狭い意味での「当事者」★についてでした。
しかし、その審議会や委員会の結果を聞かされたり、結果の判断を押し付けられたりする聴衆や納税者はどうなのでしょうか?
ありがたく聞いたり、物言わず税金を納め続けたりする存在でいいのでしょうか?

この点についても、ジョナスのとったアクションから学ばされます。

審議会や委員会に関しては、ジョナスのコミュニティーの方が、まだマシな気がします。
少なくとも、建前のものは排除している気がします。(現行体制を維持するというレベルでは、同じかもしれませんが!)

個人レベルの行動と、集団レベルの制度については考え続け(そして、行動し)ないと、単に思考停止で同じことを繰り返すだけだったり、より良いものをつくり出す妨げになったりすることに手を貸しているにすぎません。
私たちは常に選択をもっていますし、事実、選択をしています。
「選択はない」や「選択などできない」と思い込む方が楽ですが・・・・それは暗に、現状維持を選択しているわけで・・・・


★NHK中央放送番組審議会では、「たくさんの」とは言えませんが、ある程度の番組については話し合われ、そして「いいコメント」や「(聞いていても)当たり障りのないコメント」が委員から発せられます。「当事者」の中には、それらの番組の制作にかかわっていた人も含まれます。褒められてうれしい場合はあるでしょうから、多少はやる気につながるとは思われます? しかし、さらによくするための発言が出てくることは考えにくいので、ここでも「これまでの路線でやればいい」ということになります。
 各学校で設けられつつある学校評議員会(理事会)や、各企業や組織の第三者評価委員会等も、基本的には同じ構造です。

2019年11月13日水曜日

『「与える人」こそ成功する時代』

 ギバーは、人に惜しみなく与える人。テイカーは、真っ先に自分の利益を優先させる人。
 『ギヴァー』と関係のあるところがあるのではないかと、読んでみました。(数字は、本のページ数です。)
 引用している箇所は、人が仕事をどうするか、人がどう人間関係を作るのかということですが、『ギヴァー』のテーマに大いに関係があるのではないでしょうか?

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10 自分がその仕事をせずにはおれないという“意義”がポイント。

「自分にとっての意義のあることをする」
「自分が楽しめることをする」

 この条件が満たされれば、ギバーは他人だけではなく、自分にも「与える」ことができる。自分が認識する「意義」のもとに、他者と自己が一体化するからだ。他者に対する共感と愛着が生まれる。こうなると、ギブはもはや犠牲ではない。何のことはない。真のギバーはギブすることによって他者のみならず、意義に向って仕事をする自分自身を助けているのである。だから自然とギブするという成り行きだ。
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 いかがでしたでしょうか?

2019年6月23日日曜日

映画を見ての気づき


 1)これまでは、ギヴァーのコミュニティーの人数は、一つの年齢層が50人なので、約3500~4000人と計算していたのですが(80歳以上まで生きる人はいないと思います。その前にリリースされてしまう可能性が大なので)、映画では150人で設定されていました。そうなると10500~12000人がいることになります。

2)「選ばれし人」としてレシヴァ―に選出されたジョナスがもっていた4つの特徴は、
 ・知性
 ・誠実さ
 ・勇気
 ・はるか先を見る力

 まさにリーダーがもっているべき資質!
 ギヴァーのコミュニティーの長老たちは、下手な会社や役所の人事担当よりも、はるかに目が肥えているようです。
 結果的にその判断が、あえてもたないことを選択していた愛を含めた感情や記憶などを全住民が再びもつことになる原因になったわけですが・・・・


2019年6月22日土曜日

いま、ギヴァーの映画が無料で見られます


気に入った方は、ぜひ拡散してください。

私は2回目ですが、正直、はじめて見た時の印象よりも、かなりいいです。
1回目は、本のイメージが強すぎて、かなりガッカリでしたが、
今回は、あれをよくも1時間半にまとめたものだと感心してしまったぐらいです。

2019年5月20日月曜日

筒香嘉智の言葉「子どもは大人の顔色を窺いながら野球をしている」


変わろう、野球 

筒香が、少年野球を含めた日本球界の在り方に疑問を抱き始めたのは、2015年オフに訪れたドミニカ共和国での影響が大きい。その前年にも、以前から耳にしていた現地の様子を自分の目で見てみたいと思い立ち、現地に1週間ほど滞在。2015年には晴れてDeNAの許可も下り、ウインターリーグへの正式参加が実現した。約1か月を過ごしたカリブ海の小島で、現地の選手が伸び伸びと勝負を楽しむ姿にショックを覚えた。
「みんな野球が好きで好きでたまらないって言うんです。本当に楽しそうにプレーするし、雨で試合が中止になると本気で悔しがる。日本では試合や練習がなくなると、みんな大喜びするのに、この差は何なんだろうって思いました。
「日本では、監督やコーチが子ども達を怒るのは当たり前。教えたことをやらなかったり失敗したりすれば怒鳴り散らすから、子どもはみんな大人の顔色を窺いながら野球をしている。だから、野球教室に行っても、自分から前に出てくる子って少ないんですよ。それが、ドミニカでは正反対。子ども達が失敗しても、監督やコーチは『また次頑張ろう』って声を掛けるし、いい点を見つけて褒めている。それはみんな『次こそホームラン打ったろ』って、やる気出しますよね」
「僕は常に、自分を客観的に見る目を持つようにしています。もう1人の自分が、少し離れた場所から見ている感じ。気持ちが入り込みすぎて視野が狭くなることもある。状態を崩している時は、大概『これが、これが』と思い込みすぎていますね」
 子ども達が持つ才能が大きく開花するようにと思って始めたはずなのに、いつの間にか指導者の思い入れが強くなり、子ども達が怒られないように大人の顔色を窺いながら野球をするようになっていないだろうか。いいと思っていた指導が、実は子ども達の将来を危ぶむものになっていないだろうか。主役はプレーする選手=子ども達であり、監督やコーチ=大人ではない。
 この辺については、『遊びが学びに欠かせないわけ』に詳しく書かれています。
 プロになれるのは実は1%もいませんから、筒香選手が書いているように指導の目標がどこにあるのかも問われています。その意味では、『遊びが学びに欠かせないわけ』にあるように、コーチや大人の存在なしの、草野球的な方が、社会的スキルやライフスキルを身につけるためにもはるかにいいわけです。

ギヴァーのコミュニティーは、日本に近いのだろうか? それとも、ドミニカに近いのだろうか、とも考えてしまいます。戦争ごっこをしていたところは描かれていました。競争を煽るような競技は、子どもの数の少なさもあって、あまり行われてはいない感じです。
子どもの遊びに関する絵本でおすすめなのは、私が大好きな作家の『ウェズレーの国』です。

2019年5月17日金曜日

「働くということ」


「黒井千次氏の『働くということー実社会との出会いー』(講談社現代新書)を漫画化した『漫画 働くということ』を読んで面白かったです。中学生は読めませんでしたが、私にとってはピッタリでした」というメールを中学校で教師をしている知人からもらった。

『漫画 働くということ』をリクエストしている間に、『働くということー実社会との出会いー』に挑戦してみたが、読めなかった。自分は中学生レベル??

約2か月後に『漫画 働くということ』が借りられたので、読んだ。今度は、最後まで読めた。文字数がはるかに少ないから? 漫画が助けになったから? 読めはしたが、これというインパクトや印象はない。 「会社員」や「公務員」では物足りず、働くことの意味というか、やりがいを求め続けるが、それを確実に得ながら仕事をしている人はそうはいないのが現実。お金のために買われた時間を提供しているのであって、自己実現や自己表現として仕事に向かえている人はそうはいない。(たまたま、自分はそれ=自己実現・表現の手段としての仕事が30歳ぐらいからできてしまっているから、読む必要性を感じないのかもしれない。)

ギヴァーのコミュニティーでの仕事/職業/働くということを考えると、この本に書かれた内容とは大分違う。そもそも、12歳で自分の仕事(役割)がコミュニティーから提示されるから選択などのことも一切考える必要はない。そしてすべての仕事(役割)は、コミュニティーが必要なものであり、それによる賃金の差もない。誰もが、同じ生活の質を享受できる仕組みになっている。各人の性格や得意・不得意等を考慮して、誰がどういう仕事(役割)に就くかは、経験豊富な長老たちによって決められる。ちなみに、結婚相手や子どもも、長老たちが決定してくれる。

どちらの仕組みの方が、自己実現・表現には向いているんだろうか?

2019年4月19日金曜日

立候補者もなり手が激減!


 今回の選挙の問題点は、投票率の低下だけではありません。
 それは、立候補者が少なくなっている問題も顕著になっているようです。首長や議員のなり手がいなくなっているのです。(ある意味では、学校でクラス委員のなり手不足、管理職のなり手不足、PTA役員のなり手不足、教員の組合加盟率の低下と似ているかもしれません。というか、両者は同じコインの裏表の関係にあるのかもしれません。)
 理由は、いろいろあると思いますが・・・・総じて、オウナーシップ(「自分たちのもの」と思える意識)の希薄化が根底にありそうです。
 そうなると、立候補する人たちは奇特な人たちと言えるでしょうか?
 しかし、それでも私たち投票者の多くは、選択肢が提供されているとは思えないままですから、投票率がドンドン低下するのは必然と言えます。
 そして、無投票当選がいいことかといえば、必ずしも、そうは言えません。
 要するに、個々人の努力(立候補したり、投票したり)ではどうしようもない問題で、システムが機能していない問題の領域にすでに入っています。

 この辺についても、ギヴァーのコミュニティーから学べることがありそうです。
 そして、北欧の議会からも。日本とは違って、費やす時間があまりにも短いのです。(逆に、日本の場合はほとんど議会が機能していないのに、費やす時間が長すぎます。これ自体、膨大な税金の無駄遣い!)

 このまま行くところまで行くのを待つのか、制度が機能していないことは明らかなので、現在の制度に代わる新しいやり方を模索することに着手するかの選択肢を私たちは持っていると思うのですが、そのように捉えている人は、はたしてどれだけいるでしょうか?
 同じことは、学校や福祉制度にも言えると思います。(家族や結婚制度などにも?! この辺すべて、『ギヴァー』のテーマと言えます。)

2019年4月16日火曜日

地方議会選挙考


また、連呼がうるさい1週間が来ました。
これは、議会制民主主義が機能していない証明としか思えなくなっています。
機能していたら、これほど無駄なことをやる必要はないわけですから(膨大なお金の無駄であるだけでなく、騒音公害をまき散らしていることを当事者たちが気づいています!)。
それとも、膨大なお金を使うことが地域の活性化になっているとでもいうのでしょうか?

ぜひ、このうるさい選挙で当選した人たちに最初にしてほしいことは、次回の選挙で「今よりはマシな選挙にするためにはどうしたらいいか?」を考えてもらいたいです。(当選した人たちは、そんなことはするはずがないでしょうか? いまの制度の恩恵を受けている人たちですから。そうなると、当選しなかった人たちがやるべき??)
まともな人がやりたいとは思えず、聞かされるのも辟易している「連呼」を無くすことが、いまの議会制民主主義をより機能するものにする鍵のような気がします。
もちろん、これはすべての選挙に言えることです。

この「連呼」は、ギヴァーのコミュニティーでは考えられないことです。

2019年4月12日金曜日

いまの医療は、人を死なせない



医療の進歩によって、人をなかなか死なせなくなっています。
それは、果たしていいことなのでしょうか?
植物人間化した状態が、必要以上に長く続いています。
これは、本人にも、家族にも不幸な気がします。★
本人も、家族も、どう対処していいのか分からずに困った状態になっています。
医者は、当然、点滴や薬の投与を止めるわけにはいきませんし、家族も止めてほしいとは言えません。
本人は、もうそれが言えるような状態にありません。そして、その状態が数か月続くというわけです。★★
これは、本当に技術と医療の進歩と言えるのでしょうか?  少なくとも、ソフト面を無視したハード面のみの進歩です(ある意味で、エレベーターと同じように!)。

終末期にどう対処したらいいかは、『ギヴァー』の隠れた(大きな)テーマの一つです。
著者のロイス・ローリーが、この物語を思いついたのは両親が老人ホームに入っていた時だったそうです。一人は、からだはいたって元気なのに過去の記憶を失っており、もう一人はからだを病んでいるのに記憶は失っていないという状態を突き付けられたのでした。その結果、彼女がうみ出したのが「リリース/解放」でした!
私も、それを最初に読んだ時は「何と冷酷な!」と違和感をもちましたが、12年経ったいまになると(というか、60歳を過ぎたころからは)、「とてもいいアイディアではないか」と思いはじめています。
自分の死を選べたり、尊厳をもった死を迎えられたりするというのは、本人にとってはもちろん、家族や面倒を見る病院や介護施設の関係者にとっても、とても大切なことだと思います。
いまの日本の医療や介護は、まったくそのことを考えているとは思えません。そう言えるのは、自分自身、身近な二人の死を体感したからです。
制度というのは後からついてくるものです。大切なのは、本人がどのような死を迎えたいかです。★★★
ここ数年、そのことを考えさせられ続けています。
『ギヴァー』は、そういうことにも役立つ本です!

★ 技術の進歩でエレベーターというものができ、便利に高層ビルの上下を行ったり来たりできるようになったのですが、私たちは依然として、その中でどう振る舞ったらいいのか分からないのに似ています。でも、その時間は短いからいいのですが、この医療の進歩による生き伸ばしは、数か月の時間になります。
★★ この「死なせない」ことによって生まれているコストは膨大でもあります。
★★★ たとえば、しっかり「快復の見込みがない場合は、1週間以上の点滴はお断り」と書き残しておくとか。

2019年4月10日水曜日

食品ロス問題


2月20日には「レジ袋」を扱いましたが、こちらも大きな問題です。(そういえば、去年の12月28日にも扱っていましたし、ブログでは扱いませんでしたが、節分前の恵方巻き廃棄問題も1月に加熱していました! 関東で、恵方巻き商戦が過熱したのは最近のことでは??★) 

なんと、年間に646万トンを捨てている!
これは、WFPが1年間に途上国へ援助している量の2倍に相当します。
内訳は、事業系が357万トン。家庭系が289万トン。
前者には、食品工場から出荷されなかったものや、スーパーやコンビニの売れ残りなどが含まれます。
ちなみに、レストラン等での食べ残しは、食品廃棄物に含まれると思われ、その量はなんと2842万トンです。
食品ロスは、あくまでも「まだ食べられるのに捨てているもの」を指します。 

この食品ロスの問題(も、食品廃棄の問題)は、ギヴァーのコミュニティーでは起こり得ません。そういう仕組みを構築しているので。
それに対して、日本の仕組みは、食品ロスや食品廃棄物を最大化するようになっています。GNP至上主義が物事の仕方・考え方に根づいてしまっていますから。
教育問題も含めて、日本の多くの問題はこれ(経済成長主義)に起因しているような気がします。 

★ 調べてみたら、「恵方巻きという風習が関東で知られるようになった歴史は浅く、21世紀に入ってからで、火付け役はコンビニであった。 元々は主に関西で行われていたこの風習を、関東に輸入しようという動きは20世紀にもあったが、ほとんど普及しないままに・・・」とのことでした。要するには、いかにして儲けるか!! 利益を上げるか!

2019年4月8日月曜日

投票率の低下に歯止めがかからない!


地方選挙第一幕のニュースが流れています。

自民が勝ったか負けたかと同じレベルで報道されているのが、投票率が過去最低のニュースです。
やるたびに投票率は下がっています。
選挙民の4割前後しか投票していません。
その半数前後を獲得して投票しますから、当選者は実は選挙民の2割の票しか獲得していない計算になります。
いまの選挙制度では、それでも「民意は得た」になります。
しかし、選挙民の半数以上が選挙すること自体を放棄している制度に、どれだけの正当性があると言えるのでしょうか? 
そして、約2割しか票を獲得していないで「民意を得た」は成立するのでしょうか?  

ますます投票率が低下する中で、これまでとは異なる民意を反映する、より民主的な制度が必要なことは明らかなのですが、政治家たちはそんなことにはまったく興味が内容です。いまの投票率が低い方がいいからなのでしょう。大方の選挙民は、投票に行っても行かなくても、何も変わらないと思っています。実際に、変わりません!)
しかし、社会としてはそれでいいのかは、はなはだ疑問です。  

ギヴァーのコミュニティーでは、こういうことはあり得ません!
まったく異なる仕組みを使っていますから。
違ったやり方はあるわけです!


2019年3月1日金曜日

『ギヴァー』と関連のある本 125 


前回紹介した『ひとりぼっちの不時着』に続いてゲイリー・ポールセンの訳されている本の中で、『ギヴァー』のテーマと関連ありそうな本を何冊か読んでみました。

『ギヴァー』のなかで、ジョナスはギヴァーに記憶を注入される形で戦争のシーンを見ることになったのですが、それ自体なかなか生々しかった(というか、痛々しかった)ことをよく覚えています。ゲイリー・ポールセンの『少年は戦場へ旅立った』は、それが最初から最後まで続いているような本です。(それ以上は、あえて書きません。ぜひ一読ください! 短い本です。ひょっとしたら、戦争物としては最高傑作かと思わされるぐらいでした。そんなにたくさんのこのテーマを扱った本を読んでいない私が言うのもなんですが。)

『さまざまな出発』のなかにも戦争シーンが描かれていました。この本は、平行して進む5つの物語の一つとしてですが。この5つの物語の書かれ方は、面白い方法だと思いました。



2019年2月20日水曜日

日本はプラスチックの消費大国


年間に約300億枚のレジ袋を消費


微小プラ、すでに人体に 貝からも検出 健康への影響は

ギヴァーのコミュニティーと、私たちの社会を比較したときに、大きく異なることの一つは、ごみ(とくにプラスチック)です。 日本社会には、溢れていますが(それなしでは、暮らしが成り立たないぐらいに!)、ギヴァーのコミュニティーではほとんど見かけないと思います。ゴミもプラスチックも。

もちろん、根っこにあるのは生き方そのものです!

2019年2月19日火曜日

『ギヴァー』と関連のある本 124


13歳の少年が、カナダの森林地帯に飛行機で脱落してしまい(パイロットは、心臓発作で死亡)、54日間もたったひとりで生き抜いた物語です。(左側の数字は、ページ数です。)

60 ブライアンは以前、パーピッチという男の先生に国語を教わっていた。パーピッチ先生の口ぐせは、「積極的なれ、前向きに考えろ、状況をしっかり把握しろ」だった。パーピッチ先生はそういう言い方をした。
62 (そして、自分の持ち物を全部出して、草の上にならべた。)さあ、これでぜんぶだ。いや、ちがう。もうひとつあるじゃないか。持ち物はこれでぜんぶだけれど、まだほかに、自分というものがある。パーピッチ先生はブライアンたちに向かって、くり返し言った。「きみたちのもっとも貴重な財産は、きみたち自身だ。そいつを忘れるな。自分自身が、最高の宝なんだ」
(自分以外の最高の宝は、原書のタイトルになっている「手斧」でした。)

100 (手斧を使って、火を起こした後に)ぼくには友だちができた。ようやく、仲間ができた。腹をすかせてはいるけれど、いいやつなんだ。友だちの名は“火(ファイア)”だ。(これが、蚊の大群やけものから救ってもくれた。)

117 (自然の中で生きるすべを徐々に身につけていく。ある意味では、原始時代の狩猟採集民=最初の科学者+エンジニアになっていく! → このテーマに関心のある方は、『遊びが学びに必要なわけ』がおすすめです。

123 ブライアンは、(カメが生んだ)卵を小さな砂浜からそっくり隠れ家へうつし、寝場所の近くに埋めなおした。運んでいるとちゅうで、卵をもうひとつ食べたいという気持ちをおさえるには、ありったけの意志の力が必要だった。

125 ぼくは、前とはちがう。ものの見方も、音の聞き方もちがっている・・・いまでは音がすると、聞きながらそうとはせずに、音の正体を知ろうとするだろう。枝が折れたり、風が動くと、さっとふり向き、音のしたほうを見つめるだろう。まるで、心の目が音波の進んできた道を逆にたどるとでもいうように、その音の正体をつきとめるだろう。
 (都会人から自然人への変化。現代文明に浸りきった人間から、原始の人間への回帰。)

225 ブライアンに起きた変化の多くは、半永久的なものになるだろう。まわりで進行中のできごとにたいする観察力と、それに反応する能力が鋭敏になったが、これはおそらく一生ついてまわるはずだ。また、前よりも思慮深くなった。これからは、なにか話す前に、ゆっくり考えるだろう。(食べ物はどんなものでも、かつてきらいだったものでさえ、ブライアンにとって喜びの種でありつづけるだろう。)

162 一日一日がたがいにかさなりあい、とけあうように過ぎていった。だから2、3週間もすると、時がたったことを示すものは、戸口のそばに毎日つける印だけになってしまった。でも、ほんとうに時をはかるものさしになるのは、日数ではなく出来事だった。一日というものには意味がなかった。おぼえておく価値はなかった。日がのぼって、沈む。そのあいだが明るいというにすぎない。
 けれども、出来事のほうは、脳裏にくっきりと焼きついた。だから、それを利用して時間をおぼえることにした。起こったことを学び、記憶し、心のなかの日誌につけておくことにした。 ~ 『ギヴァー』でも、記憶は大きなテーマの一つ!

171 なにをやるにもがまんが必要だ。待つときも、考えるときも、正しいことをするときでさえもそうだ。食べ物のことだけじゃない。生きることすべてに、がまんし、考えることが必要なんだ。 ~ そして、数多くの苦難(ムースや竜巻に襲われたりすること)に遭遇し、それを乗り越えることも含めて・・・・しかし、その竜巻が、湖に沈んだ飛行機を水面に浮かせてくれることになった!

193 (すぐには、飛行機のところに行こうとせずに、優先順位を考えて、計画して行動する。まさに「積極的なれ、前向きに考えろ、状況をしっかり把握しろ」を実践! その結果、サバイバル用品の入ったバッグを回収することができ、「非常用発信機」をそうとは知らずに作動させて、自分の位置を近くを飛んでいた飛行機に知らせることになって、救出されることにつながった!)

 最後に、もう一つ『ギヴァー』と『ひとりぼっちの不時着』の関係について・・・両者とも、毎年その年最高の児童文学作品に贈られるニューベリー賞の受賞作品だということです。実は、これまでに『ギヴァー』と関連する本として紹介してきたものの中には、この章を受章している作品が少なくありません。その受賞作と日本語に訳されている本のリストは、http://www.yamaneko.org/bookdb/award/us/newbery/index.htmで見られるので、面白いと思えるものからぜひ試し読みしてください。
 日本には、これに匹敵するような文学賞はあるのでしょうか?

2019年2月12日火曜日

『牧野富太郎 ~ 私は草木の精である』渋谷章


控えめに、『ギヴァー』と間接的に(?)関連のある本として紹介します。それも、もう64冊目になります。
牧野富太郎の存在をたまたま、テレビのドキュメンタリー番組で知りました。
私たちは、野口英世は学び(学ばされ)ますが、牧野富太郎について知っている人はどれほどいるでしょうか? そして、偉人伝では、何をどう(どこまで)知るのかも決定的に重要なのですが、その辺について、紹介する側はどれだけ考えているのでしょうか? この点については、http://wwletter.blogspot.com/2019/01/blog-post.htmlは決定的に重要な気がします(が、日本の教育からはほとんど丸ごと抜けていると思います)。

図書館で借りられる牧野富太郎関連の本を読んでみた中で、一番ピンと来た本が『牧野富太郎 ~ 私は草木の精である』渋谷章でした(左側の数字はページ数です。『ギヴァー』との関連で抜き書きしました)。他によりよい本をご存知の方は、ぜひ教えてください。

12 (神秘的/不可能とも思える彼の存在は、むしろ当然なことであることがわかる、)そして何よりも牧野富太郎の人間的魅力がその中心にあることに気が付くことだろう。さらにその魅力の中心には、一つのことに情熱的に打ち込んだ人が例外なくそうであるように、熱心さと集中力、それに自分自身を裏切らない誠実さがあることにも気が付くことだろう。牧野富太郎の生涯は、単なる植物学者の一生でもなければ、一愛好家としての一生でもない。彼の生涯をたどることによって“絶対の探求”を身をもって示し、自分に与えられた生を一つのことだけに費やした人間の本質と実在を明らかにする貴重な経験をすることになるのである。
13 明治維新に幼年期を過ごす ~ 日本は新しく生まれ変わろうとしていたのある。こうして牧野富太郎は何もかもが新しくなった日本で、一生を送ることになったのであった。
14 当然ながら植物学の世界にも時代の波は押し寄せてきた。しかしながら新生日本の植物学者はどのような生涯を送るべきかということを牧野富太郎以前に身をもって示せた人間はまだ一人も居なかった。そして牧野富太郎にとって、もしこのような見本が必要であるなら、彼自身がそうならなければならなかった。そのため牧野富太郎は自分の価値観、世界観に従って自分の生涯を決定しなければならなかったのである。肩書も資格も、彼は必要とはしなかった。だから彼は全く自由な立場で生涯を送ることが出来たのであったそして、これが彼の生涯を通しての立場でもあった。

24 伊藤塾での体験 ~ この塾では、町人の出身者は下座の者とされ、士族の子である上座の者に礼儀を尽くさなければならなかった。この身分の違いだけは牧野富太郎の努力でも覆すことが出来なかった。彼の学力には、上座の者も一目置くほどのものがあったにもかかわらず、彼が上座の扱いを受けることはなったのである。おそらく牧野富太郎が生涯にわたって権威や肩書というものを必要以上に避け続けた背景には、少年の頃伊藤塾で体験しなければならなかった自分というものへの不信感が秘められていたことだろう。(中略)牧野富太郎はこのような大人の世界を絶対に許さなかった。

28 彼の本格的な勉強は、小学校をやめたからこそ始めることが出来たといってもよいからである。これ以後、彼がとった勉強方法は独学であった。これは場合によっては最も苦しい勉強方法であると同時に、最も楽しい勉強方法でもある。場合によっては最も不安な勉強方法であると同時に、最も自信にあふれた勉強方法でもある。場合によっては最も危険な勉強方法であると同時に、もっとも効果のある勉強方法でもある。ただはっきりしていることは、本当に自らすすんで勉強をしようと思っている人にしか、この勉強方法がとれないということだ。牧野富太郎が小学校をやめたのは、そこで学問が行われていたためではなく、学問が行われていなかったためであったことは明らかであろう。

32 生まれながらの教師 ~ 良い教師というものは、決して生徒に自分の知識を押し付ける指導はせず、生徒自身があこがれるような見本をもって示し、自分の専門については非の打ち所がない知識をもっていなければならない。
33 牧野富太郎は、佐川小学校で良い教師だった。以前、この小学校で(生徒として)不愉快な思いをしたことがある彼は、悪い教師というものがどのようなものかということをよく知っていたからである。かつて生徒の立場から厳しく教師を批判していたのに、今度は彼が批判される立場となった。彼は教師の立場ではなく、生徒の立場でいつも考えるようになった。・・・教えること、そのものを楽しんだ。

43 彼には、植物に関することなら、どのような人からも、心から学ぼうとするだけの寛大さと情熱とがあった。そして知識を得る手段を書物だけに限定してはならないという反省も得た。植物を前にして、植物を知ろうという人々は、皆同じ価値があるのだ。<接し方の違いがない。>

52 学者の3つの顔: ①自分の知識と権威を認める一般人に見せる気さくで慈愛に満ちた顔と、②自分と同じ地位のものに見せる傲慢な顔と、③自分の地位を脅かす実力をもった者に見せる憎悪に満ちた冷酷な顔、である。

132 優秀な教育者とは、決して弟子を指導したり、知識を押し付けたり、自慢したりはしない。本人自身が身をもって示すことにより、他の人々に自らの意志でそのような人物になりたいという強い願望を、自分の力で押さえ付けることができないほど呼び起こせる人なのである。

191 植物をトータルの捉えようとしていた牧野富太郎!

213 彼の生涯と植物学の研究とを見て気が付くことは、彼自身の植物に関する知識への絶対的な自信である。彼は自分自身に誠実であったが故に、自分に一番適したことを知ることが出来たし、自分に一番適した生き方を選ぶことも出来た。そして彼自身、遺文が植物のことに関しては、この世界で一番詳しい人間であり、少なくともそのような人間になれることをよく知っていたのである。そのため、誰も牧野富太郎のことを認めなくても、彼は気にしなかった。彼は自分自身に対する自信が余りに大きかったために、他人の非難も、不幸な運命も、彼の自尊心を傷付けることは出来なかった。

2019年2月3日日曜日

『ギヴァー』と関連のある本 123


『漫画 君たちはどう生きるか』(原作・吉野源三郎、漫画・羽賀翔一)の中から、『ギヴァー』に関連すると思った箇所を抜粋します。

●ものの見方について
52ページ: いや、君が大人になるとわかるけれど、こういう自分中心の考え方を抜けきっているという人は、広い世の中にも、実にまれなのだ。(中略)たいがいの人が、手前勝手な考え方におちいって、ものの真相がわからなくなり、自分に都合のよいことだけを見てゆこうとするものなんだ。
114ページ: 「あたりまえのこと」っていうものが曲者で・・・・・ひとつのわかりきったことを、どこまでも、どこまでも追いかけて考えてゆくと、ものごとの大事な「根っこ」の部分にぶるかることがあるんだ・・・・・

 ~ ギヴァーのコミュニティーも、日本社会も、「あたりまえのこと」だらけという感じがします。「根っこ」の部分を見ようとせず。

●真実の経験について
98ページ: 生まれつき目の見えない人には、赤とはどんな色か、なんとしても説明しようがない。それは、その人の目があいて、実際に赤い色を見たときに、はじめてわかることなんだ。――こういうことが、人生にはたくさんある。
 たとえば、絵や彫刻や音楽の面白さなども、味わってはじめて知ることで、すぐれた芸術に接したことのない人にいくら説明したって、分からせることは到底出来はしない。
 殊に、こういうものになると、ただ目や耳が普通に備わっているというだけでは足りなくて、それを味わうだけの、心の目、心の耳が開けなくてはならないんだ。
 しかも、そういう心の目や心の耳が開けるということも、実際にすぐれた作品の接し、しみじみと心を打たれて、はじめてそうなるのだ。
 まして、人間としてこの世に生きているということがどれだけ意味のあることなのか、それは、君が本当に人間らしく生きてみて、その間にしっくりと胸に感じとらなければならないことで、はたからは、どんな偉い人をつれてきたって、とても教えこめるものじゃあない。
103ページ: 世間には、他人の目に立派に見えるように、見えるようにと振る舞っている人が、ずいぶんある。そういう人は、自分がひとの目にどう映るかということを一番気にするようになって、本当の自分、ありのままの自分がどんなものかということを、つい、お留守にしてしまうものだ。

 ~ 実際に赤が見えたジョナスは行動を開始しました!
   私たちは心の目や心の耳は開いているでしょうか?
   学校や社会は、それらを実現するようにしているでしょうか?
   「しみじみと心を打たれ」る体験をどれだけ提供できているでしょうか?
   「本当の自分、ありのままの自分」を消す方向で機能している方のウェートの方がはるかに多くないでしょうか?

2019年1月11日金曜日

本を読ませない社会


「人類の歴史において、貴族の特権や神の戒律や軍隊規則をふりかざす独裁者、暴君、抑圧者たちには、アーリア人であれ、黒人や東洋人、アラブ人やスラブ人、あるはどんな肌の色の、どんなイデオロギーの者であれ、みな共通点がある。誰もが本を徹底して迫害するのだ。
 本はとても危険だ。ものを考えることを促すからだ。」

以上は、『アウシュヴィッツの図書係』からの一節(10ページ)です。

 『ギヴァー』やこのブログで紹介した『華氏451度』を含めたフィクションで描かれた世界も、現実の世界も、それを証明しています。
 『ギヴァー』のコミュニティーでは、ギヴァーのいる部屋以外には本はほとんどありませんでした。ジョナスは、それらを最初に見た時に驚いていました。
 いまの日本も、それに結構近い状況にある気がしないではありません。表面上の「自由」はあるのですが、学校教育でも、社会教育でも「選書能力」を磨くことを、殊の外、おろそかにしていますから、いい本=ものを考える本になかなか出合えない(意図的に、出会わせない)状況が埋め込まれているからです。
たとえめぐりあえたとしても、どこまで考えられるのかという部分が日本の国語教育(読解教育)では、極めて心もとないのです。

どういう打開策があるかというと・・・・講師やリーダーのいないブッククラブが一番いい気がしています。
 これなら確実に、ものを考えることを促すだけでなく、アクションも呼び起こします。
 仲間との読み合いの経験が増すと、一人読みでも同じことができるようになります。
 http://igasen.blog22.fc2.com/ の2018年の年末から2019年の年始にかけての『ようこそ、一人ひとりをいかす教室へ』の一人ブッククラブなど。

 でも、まずは2~5人ぐらいのブッククラブから楽しんでください。
 私自身は、常時、3~5つのブッククラブをしています。(全部メールないしオンライン上でのやり取りです。それなら、場所や時間を超越していますから、どこの人ともやり取りができます!)
 昨年の12月には、より実のある教育研修を提供することで課題を抱えている4つの県の指導主事(元も含む)の方々と、『ペアレント・プロジェクト』(ジェイムズ・ボパット著)を教員研修の視点から読み合いました。たくさんのヒントが得られました。
 一人では、まずこの本を読むところまで至りません。たとえ読んだとしても、読みの深まりや広がりを得るところまでは至りません。しかし、今回は5人で読み合ったことで、確実に教員研修の現実と可能性に引き寄せる形で読むことができ(教員研修の原則のようなリストを創り出すことができ)、さらには各人の持ち場でやれることがいろいろと見つかりました。
 このようなことを、最初から一人だけでやれる人を日本の国語教育を含めて学校教育では育てようとしているでしょうか?
 「いない」という結論に達してしまったので、それを確実に実現しているリーディング・ワークショップやライティング・ワークショップを紹介することにしたのでした!