ある本を読んでいたら、この言葉が出てきました。
検索して見ると、
ネガティブ・ケイパビリティ(英語: Negative capability)は、詩人ジョン・キーツが
不確実なものや未解決のものを受容する能力を記述した言葉。日本語訳は定まっておらず、「消極的能力」「消極的受容力」「否定的能力」など数多くの訳語が存在する。『ネガティブ・ケイパビリティ
答えの出ない事態に耐える力』によると、悩める現代人に最も必要と考えるのは「共感する」ことであり、この共感が成熟する過程で伴走し、容易に答えの出ない事態に耐えうる能力がネガティブ・ケイパビリティ。(Wikipediaより)
ここで引用されている、帚木蓬生著(2017)『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』(朝日選書)を早速借りてきて読みました。こちらでは、「事実や理由をせっかちに求めず、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいられる能力」と定義していました。(左の数字は、この本のページ数です。カッコ斜体は、私のコメントです。)
9 私たちは「能力」と言えば、才能や才覚、物事の処理能力を想像します。学校教育や職業教育が不断に追求し、目的としているのもこの能力です。問題が生じれば、的確かつ迅速に対処する能力が養成されます。
でも、ネガティブ・ケイパビリティ―は、その逆の能力(つまり、ポジティブ・ケイパビリティ―)なのです。
10 帚木さんは、この能力を知って以来、生きることがずいぶん楽になりました、と書いています。「いわば、ふんばる力がついたのです。それほどこの能力は底力を持っています」
76 キーツとネガティブ・ケイパビリティ―を蘇らせたビオンによると、「答えは好奇心にとって不幸であり、病気なのです。<答えは好奇心を殺す>
141 創造(ラテン語でcreatio)の原義はto bring into beingで、「(無からこの世に)存在させる」です。つまり創造行為は、人間が神の位置に立って、無から有を生じさせる鋭意なのです。だからこそ、通常の能力ではなく、ネガティブ・ケイパビリティ―が介在しなければならないのだとも考えられます。
第9章は、「ネガティブ・ケイパビリティ―が失われ、殺伐としてしまった教育」に特化した章です。
186 幼稚園から大学に至るまでの教育に共通しているのは、問題の設定とそれに対する解答につきます。(要するに、「正解あてっこゲーム」という名の「学校ごっこ」をやり続けます。させ続けます。それを勉強することと誤解して。)その教育が目指しているのは、ポジティブ・ケイパビリティ―の養成です。平たい言い方をすれば、問題解決のための教育です。しかも、問題解決に時間を費やしては、賞讃されません。なるべくなら電光石火の解決が推賞されます。この「早く早く」は学校だけでなく、家庭にも浸透しています。(そして、社会全体にも!)
問題解決があまりに強調されると、まず問題設定のときに、問題そのものを平易化してしまう傾向が生まれます。単純な問題なら解決も早いからです。このときの問題は、複雑さをそぎ落しているので、現実の世界から遊離したものになりがちです。言い換えると、問題を設定した土俵自体、現実を踏まえていないケースが出てきます。こうなると解答は、そもそも机上の空論になります。
教育とは、本来、もっと未知なものへの畏怖を伴うものであるべきでしょう。この世で知られていることより、知られていないことの方が多いはずだからです。
著者は、この後、江戸時代の漢籍の教え方について紹介してくれています。ある意味で、いま学校や大学で行われている学びの対極にあったものとして。そこには「土俵としての問題設定」自体がなかったものとして。
189 本来、教育というのはそれ(個人差があるので、落第や飛び級)が本当のありからではないでしょうか。
ところが、今日の教育は画一的です。横並びで一年一年を足並揃えて、上級学年に上がっていく体制になっています。
その結果、採用されたのが到達目標とその達成度です。その到達目標も、個々人に合った目標ではありません。あくまで一年毎の建前としての到達目標です。私は学校教育が到達目標を設定したときから、学校が変質したような気がします。
190 これでは、毎年落ちこぼれる/学校学業の場となる子どもが出ても仕方がありません。このところてん式の進級と進学に輪をかけているのが、試験です。この試験突破こそが、学習の最終目標と化してしまうと、たしなみ、素養としての教育ではなくなります。問題解決のための学習、勉強になってしまうのです。
こうした教育の現場に働いているのは、教える側の思惑です。もっと端的に言えば「欲望」です。教える側が、一定の物差しを用いて教え、生徒を導くのです。物差しが基準ですから、そこから逸したさまざまな事柄は、切り捨てられます。何よりも、教える側が、問題を狭く設定してしまっています。そのほうが「解答」を手早く教えられるからです。
191 しかしここには、何かが決定的に抜け落ちています。世の中には、そう簡単には解決できない問題が満ち満ちているという事実が、伝達されていないのです。前述したように、むしろ人が生きていくうえでは、解決できる問題よりも解決できない問題のほうが、何倍も多いのです。
そこで教える側も、教えられる側も視野狭窄に陥ってしまっています。無限の可能性を秘めているはずの教育が、ちっぽけなものになっていきます。もう素養とか、たしなみでもなくなってしまいます。
・・・教育者のほうが、教育の先に広がっている無限の可能性を忘れ去っているので、教育される側は、閉塞感ばかりを感じ取ってしまいがちです。学習の面白さではなく、白々しさばかりを感じて、学びへの興味を失うのです。
学べば学ぶほど、未知の世界が広がっていく。学習すればするほど、その道がどこまでも続いているのが分かる。あれが峠だと思って坂を登りつめても、またその後ろに、もうひとつ高い山が見える。そこで登るのをやめてもいいのですが、見たからにはあの峰に辿りついてみたい。それが人の心の常であり、学びの力でしょう。つまり、答えの出ない問題を探し続ける挑戦こそが教育の真髄でしょう。
192 学習といえば、学校の課題、塾の課題をこなすことだと、早合点してしまいがちです。世の中には、もっと他に学ぶべきものがあるのに、親はそれを子どもに伝えるのさえも忘れてしまいます。(自然、アートなど。)
193 問題設定が可能で、解答がすぐに出るような事柄は、人生のほんの一部でしょう。残りの大部分は、わけが分からないまま、興味や尊敬の念を抱いて、生涯かけて何かを掴み取るものです。それまでは耐え続けなければならないのです。
195 不登校の子が発揮するネガティブ・ケイパビリティ―
200 解決すること、答えを早く出すこと、それだけが能力ではない。解決しなくても、訳が分からなくても、持ちこたえていく、消極的(ネガティブ)に見えても、実際には、この人生態度には大きなパワーが秘められています。
どうにもならないように見える問題も、持ちこたえていくうちに、落ち着くところに落ち着き、解決していく。人間には底知れぬ「知恵」が備わっていますから、持ちこたえていれば、いつか、そんな日が来ます。
「すぐには解決できなくても、なんとか持ちこたえていける。それは、実な能力の一つなんだよ」ということを、子どもにも教えてやる必要があるのではないかと思います。