358 スナイダーは、「惑星本来の姿を求めて地球を見る訓練」を「精神の浄化」(p81)と呼ぶ。そして、遠くから離れて見ることが、そのまま最も近くの自己を凝視することにつながる、と言う。このように、物と心、現象と本質、裏と表、個別性と普遍性、差異性と同一性とを自由自在に見てゆく柔軟性が、スナイダーの生き方の特質である。
実際、この柔軟性こそ禅修業の眼目にほかならない。
そのほか、「雑用はまさに道である」(p277)とか、「本当に道をきわめた人、心の洗練された人は、日常的な事柄の中に喜びを見つける」(p277)とか、「誰でも、初めは道の上を歩かなければならない。脇にそれて野性の世界に入るのは、そのあとのことだ」(p280)といった言葉は、(十数年間におよび日本での禅修業中に)師匠や先輩から繰り返し聞かされたアドバイスの、スナイダー流の表現だろう。
359 山登りは「歩く禅」なのだ。歩くリズムによって、心身を一つにし清めてゆく修行である。スナイダーは言う。
「それに必要なのは、ある種の自己放棄と直観力を養う術、つまり自分自身を空っぽにする訓練だ。優れた洞察力が身につくのは、持てるものすべてを失ったそのあとのことだ」(p50)
こうした自覚に基づいて生活するなら、どんな営みもすべて修業である。問題は、まさにその生き方、ライフスタイルなのだ。
→ 私にとっては、週末の農作業です。まだ、「修業」とまでは言えませんが。
360 スナイダーは、「場所」の詩人でもある。しかし、その「場所」は単なる物理的空間ではない。「いま、ここ、わたし」の場所なのだ。臨済の言う「即今目前聴法底」(いま、私の目の前で耳を傾けているお前さん自身)はどうなのか、という問いである。だから、場所はただの客観でもなく、ただの主観でもない。それは、野性と同じで、「主体にも客体にもならない」(p329)とスナイダーは言う。
最後は、スナイダー自身の言葉です。
10 私自身の仏教は、だいぶ古い形のものとなって、アニミズムやシャーマニズムにきわめて近くなりました。アメリカ先住民の宗教は、一種に民間神道と言えます。生きとし生けるものへの畏敬の念は、神道の考えから明らかに読み取れる部分です。もっと視野を広げると、さらに別の組織体が見えてきます。植物や動物の共同体、つまり「野生システム」として知られているものです...究極的には言葉自体も一種の「野性システム」であり、詩も同じ秩序をもつと私は信じています。
→ 限りなく、『アボリジニの世界』(や縄文時代の日本、アメリカ先住民たちが元気だったアメリカ)に近づいています。
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