絵本の『青い馬の少年』は、以前に読んだことがあります。
ある本の中で、作者の一人へのインタビューが載っており、その中でこの絵本が書かれる過程についての紹介があったので、その部分を確認することを主な目的に再度読んでみました。
最初の時は(ギヴァーとの関連で)読めなかったものが、今回はいくつか読みとれましたので紹介します。 → ここ2~3年事あるごとに確認させられることですが、人は読むタイミングで読めるものが違うことを痛感します。
その前に、普通、絵本は文と絵を一人がかくか、それぞれを分担してかくかのいずれかですが、ビル・マーティンという人は、あえてジョン・アーシャンボルトという人と二人で文を書く形で何冊かの絵本を出しています。(ちなみに、二人の出会いは、大学での講演にビルが来た時の送り迎えの運転手を学生だったジョンが担当したのが縁だそうです。)二人で書くことで、見落としがちなところをおさえたり、深まりや広がりを持たせられると、上のインタビューでビルは語っています。
作家であり、詩人であり、編集者であるビルは、「読書は、目で読むだけでなく、声に出して、ことばの響きを楽しむことも含まれると考え、朗読やストーリーテリングを子どもたちに教えてい」ます。
なお、この『青い馬の少年』はまさにストーリーテリングの形式で書かれている絵本なのです。
それで思い出したのが『ギヴァー』でした。
ギヴァーからジョナスに記憶が注がれることを、一種のストーリーテリングと捉えられないか、と思ったのです。
ストーリーテリングは、確実に記憶に残り、そして伝承されていく方法です。
それに対して、ジョナスが学校で受けている授業は、残らない/役立たない象徴のようなものとして描かれていた気がしないではありません。(日本中で行われている授業のほとんども?? いったい記憶にしっかり残り、しかも役に立つように変えていくにはどうしたらいいのでしょうか?)
今の世の中、テレビがストーリーテリングの代役をつとめている気がしないではありませんが、それでいいのでしょうか?
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