『青い馬の少年』を読んでいて気づいたことの2つめは、ネイティブ・アメリカンの名前の付け方のこだわり具合が、『ギヴァー』の中での名前の付け方と対照的だと思えたのです。
『青い馬の少年』の主人公は難産で、その結果として目が見えなくなったと思われます。
一晩じゅう
声を、あげることもなく
目は、とじたままで
息はあさく、弱く
泣き声さえ、あげられなかった・・・
ストーリーテラーのおじいちゃんが、その子を外に連れ出したところ、二頭の大きな青い馬がかけてきて、馬は立ちどまって、その子をみつめた・・・
するとおまえは
おおきな、青い馬にむかって
腕をひらいた。
わしはいった。
「馬が、この子に、話しかけている。
この子の、兄さんたちなんだ。
暗い山をこえて、やってきたんだ。
この子は、死んだりしない」
そして名づけの祝いの儀式で、おじいちゃんは、「青い馬の力をさずかった少年」という名前をつけました。
力強い名前でなくちゃ、いけなかったのおじいちゃん。
子どもは、だれだってみんな
力強い名前が、必要なんだ。
じょうぶに育たなくちゃいかんからな。
そして、その子は、生まれたての子馬に、「虹」という名前をつけます。自分の目となる馬に。
それに対して、ジョナス、リリー、フィオナ、ゲイブリエルといった名前は誰が、どういう意味をこめてつけていたのでしょうか?
そういえば、使ってはいけない名前も一つか、二つありました。
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