2週間前の「服従」「同一化・画一化」から始まって、「老年の家」にまつわる諸々のことも併せて考えると、『ギヴァー』で描かれているコミュニティと日本社会のことがよく見えてきます。
老年の家の住居人たちは、あくまでも「お客さん」でしかないんですね。
施設を運営する側も、そのように見ています。「あくまでもサービスの対象」として。
「一緒に場をつくっていく仲間」とは、間違っても捉えていません。
主役は、あくまでも管理・運営者側です。
同じことは、学校や大学、政治や行政、会社でも言えてしまいます。
主役は子どもたち・学生、選挙民・市民、社員とはいっても、それはあくまでも言葉のみで、実際に実現しているところはどれだけあるでしょうか?
家庭も、同じことが言えるかもしれません。
私たちのこの家庭、保育園・幼稚園、学校・大学、そして会社や役所等での長年の主役が逆転している経験が、服従・依存、同一化・画一化、バラバラ、受け身・主体性のなさ等と深く結びついています。さらには、いいコミュニケーションやいい人間関係が築けないこととも。
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