家族の次は、「友だち」がテーマです。
27 「アッシャーとぼくは、ずっとずっと友だちだよ」 ~ 二人は小さいときからの遊び友だち。ジョナスの母は、「12歳の儀式を終えたら、もう11歳のグループと過ごすことはなく、今までの友だちとはお別れすることになる」とジョナスに言う。
41 ジョナスはフィオナが好きだった。彼女は、成績優秀で、もの静かで品がよく、けれどユーモアのセンスもある。
50~56 フィオナへの好意が、ジョナスの<高揚>を引き起こした夢の告白のシーン。それを、錠剤を飲むことでコントロールしているジョナスのコミュニティ。
184~187 戦争ごっこに興じるフィオナやアッシャーたちに、本当はそれがとても悲惨なゲームであることを伝えられずに喪失感におしつぶされそうなジョナス。その後、「ちょっと川べりをサイクリングしない?ジョナス」とフィオナに誘われる。
188 「なんてかわいいんだろう」と思い、「これほど楽しいことがほかにあるだろうか。川べりの道を自転車でのんびり走りながら、おしゃべりしたり笑いあったりする。それも心優しいガールフレンドと」と考えたが、ジョナスはわかっていた。「もうそういう時間は自分から奪われている」ことを。「幼年時代、友情、屈託のない安心感 ~ そうしたすべてが消え去ろうとしている」ように思われた。
ジョナスはアッシャーとフィオナに深い愛情を感じていた、けれども二人はその愛情を返してはくれないだろう。記憶がないのだから。 ~ ここでの「記憶」は、短期的な記憶ではなく、長期的な人類の記憶。
友情と愛情、恋愛と性も、哲学のテーマです。(ページ数は、『14歳からの哲学』池田晶子著の「友情と愛情」「恋愛と性」の章より)
99 自分が友だちに本当に求めているのは何なのかということについて、一度ゆっくりと考えてみるといい。ただいっしょにワイワイやって面白いだけの友だちというのは、やっぱりそれだけのことであることが多い。本当に面白いのは、決してつまらなくならないのは、大事なことを語り合える友だちだ。大事なことを語り合うのだから、信頼できる友だちだ...大事なことによってつながっているのだから、壊れると言うことがないんだ。
100 本当の友情、本当の友だちこそがほしいのだけど、いない、と悩んでいる人が多いみたいだ。でも、いなければいないでいい、見つかるまでは一人でいいと、なぜ思えないのだろう。
一人でいることに耐えられない、自分の孤独に耐えられないということだね。でも、自分の孤独に耐えられない人が、その孤独に耐えられないために求められるような友だちは、やっぱり本当の友だち、本当の友情じゃないんだ。本当の友情というのは、自分の孤独に耐えられるもの同士の間でなければ、生まれるものでは決してないんだ。なぜだと思う?
自分の孤独に耐えられるということは、自分で自分を認めることができる、自分を愛することができるということだからだ。孤独を愛することができるということは、自分を愛することができるということなんだ。そして、自分を愛することができない人に、どうして他人を愛することができるだろう。一見それは他人を愛しているように見えても、じつは自分を愛してくれる他人を求めているだけで、その人そのものを愛しているわけでは本当はない。愛してくれるなら愛してあげるなんて計算が、愛であるわけがないとわかるね。
孤独というのはいいものだ。友情もいいけど、孤独というのも本当にいいものなんだ。今は孤独というとイヤなもの、逃避か引きこもりとしか思われないけれども、それはその人が自分を愛する仕方を知らないからなんだ。自分を愛する、つまり自分で自分を味わう仕方を覚えると、その面白さは、つまらない友だちといることなんかより、はるかに面白い。人生の大事なことについて、心ゆくまで考えることができるからだ。
101 考えるということは、ある意味で、自分との対話、ひたすら自分と語り合うことだ。だから、孤独というのは、決して空虚なものではなくて、とても豊かなものなんだ。もしこのことに気がついたなら、君は、つまらない友だちと過ごす時間が、人生においていかに空虚で無駄な時間か、わかるようになるはずだ。ただ友だちがほしいって外へ探しにいく前に、まず一人で座って、静かに自分を見つめてごらん。
そんなふうに自分を愛し、孤独を味わえるもの同士が、幸運にも出会うことができたなら、そこに生まれる友情こそが素晴らしい。お互いにそれまで一人で考え、考え深めてきた大事な事柄について、語り合い、確認し、触発し合うことで、いっそう考えを深めてゆくことができるんだ。むろん全然語り合わなくたってかまわない。同じものを見ているという信頼があるからだ。
本当の友情を知るということは、人生のひとつの喜びだ。うわべの付き合いだけの友達の多さなんかより、たった一人でも、君はそういう友だちを見つけるのがいい。大丈夫、そう思っていれば、必ずそれは見つかるよ。それまでは君は、自分の孤独を、うんと豊かにして待っているんだ。だって、そうでなければ、素晴らしい友だちが現われた時、君は彼に応えることができないじゃないか。
哲学というのは、行動を明快にしてくれるものだったのですね!!!
102 愛情というのは、無条件であるものなんだ...人間が人間を無条件で愛するというのは、ものすごく難しい。ある意味では、人はこれを学ぶためにこの世で生きているとも言えるんだ。
でも、やっぱり哲学は難しいか?!
105 同性の友だちのことで悩むよりも、異性の友だちについての関心の方が、もっと切実なものがあるかもしれない。どうしてそうなのだと思う?
これはまったく単純な理由だ。そこに性欲があるからだ。性欲、つまり性交をしたいという欲求だ。なぜ性交をしたいという欲求があるかといえば、子どもをつくって子孫を増やすという生物としての本能が、そうなっているからだ。性欲というのは食欲と同じ本能的な欲求で、その意味ではまったくの自然なんだ。
他の動物の場合には、決まった発情期というのがあるが、なぜか人間にだけは、発情期がない。つまり、年がら年中のべつまくなし発情している。いつでも性交できるし、いつでも性交したいという状態であるわけだ
106 そうすると、それが本来は子どもをつくるための本能の仕組みであったという事実を、人は忘れがちになる。忘れて、性交によって発生する快楽の側にばかり関心がゆくようになる。そのうえ、性交するたびに子どもができるのでは大変なことになるというので、性交しても子どもができないような工夫をも人間は開発したから、性交と生殖とを完全に切り離すことが可能になった。つまり、性交の目的を生殖ではなくて快楽に限ることができるようになったんだ。こうして、性欲とは、生殖の欲求ではなくて快楽の欲求であると、実際に人々は思うようになっているといういわけだ...刹那の快楽への欲求に目がくらんで、恋愛の対象と性欲の対象とを同じものだと思ってしまう。混同して錯覚してしまうんだ。
108 よく考えると、人が人を好きになるのに明確な理由なんかないみたいだ。本当に好きなら、やっぱりこれも無条件なんだ。
ジョナスのコミュニティは、性欲をおさえるために、毎日飲む錠剤を開発したようです。でも、「ジョナスが錠剤を飲まなくなってもう4週間になる。<高揚>が再び訪れ、ジョナスは眠りとともに訪れる喜ばしい夢にいくぶんの後ろめたさを感じ、恥らっていた。だが彼にはわかっていた。ぼくはもう戻れない、これまでずっと暮らしてきたあの感覚のない世界には」と、コミュニティのやり方(規則)に背くことを宣言しています。
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