1ヵ月半近く前から続いている哲学アプローチも、そろそろ終わりです。
池田さんの本(『14歳からの哲学』)の中でも、最後の2つのテーマ(「人生の意味」と「存在の謎」)しか残っていません。
内容的には、かなり難しいです。ある意味ではこれまで1ヶ月半扱ってきたいろいろなテーマの行き着く先みたいなところですから。(ページ数は、池田さんの本)
180 無は「ない」のだから、死は「ない」、だから死を前提にして生きることはできないという真実だ。
この真実に気がつけば、多くの人たちがそれを時間だと思っている「時間」というもののあり方が、まったく違ったものになることもわかるはずだ。死はないのだから、生の時間は、終点としての死へ向かって前方へ直線的に流れるものではなくなるんだ。でも、世の人は、時間は前へ流れるものだという間違った思い込みで生きている。それで、いろいろな予定したり計画したりして、忙しいとか時間がないとか文句言ってるわけだけど、それはすべて自分でそう思っている思い込みに過ぎない。時間というものは、本来、流れるものではないんだ。過去から未来へ流れるものではなくて、ただ「今」があるだけなんだ。だって、過去を嘆いたり未来を憂えたりしているのは、今の自分以外の何ものでもないんじゃないか。
なんかわかったようで、キツネにつままれたような...
「今」があるだけ、「今」しかないのだから、今やりたいことをやろうというのは、だから、その意味では正しい。でもそれは、どうせ死んでしまうからじゃない。なるほど人は死ぬけれども、死はないのだから、嘆いたり憂えたりしないで、今やりたいことをやる、やることができるんだ。これは素晴らしいことじゃないだろうか。生きることが空しいというのは、間違った前提から出てくる、間違った考え方なんだ。
181 むろん、間違っているからといって、他人のそれを正すことはできない。間違いに気づくのはその人でしかないし、気づくために考えるのも、どこまでもその人がするしかないことだからだ。
182 生きる苦しみや死ぬ怖れに出合って、人はそのことの意味や理由を求める。そうしなければ、その苦しみを納得できないと思うからだ。でも、いいかい、納得できないということなら、宇宙が存在する、なぜ存在するのかわからない宇宙がなぜか存在するというこのこと以上に、納得できないことなんかあるだろうか。宇宙が存在するということは、
神が創ったのではない宇宙が、しかし存在しているというこのことは、とんでもないこと、ものすごいこと、まったく理解も納得もできないことではないだろうか。これは、奇跡なんだ。存在するということは、存在が存在するということは、これ自体が驚くべき奇跡なんだ。存在するということには意味も理由もない、だからこそ、それは奇跡なんだ。
183 自分が、存在する。これは奇跡だ。人生が、存在する。これも奇跡だ。なぜだかわからないけれども存在する自分がこの人生を生きているんなんて、なんて不思議でとんでもないことだろう。まさか今さら両親から生まれたなんてことで、この不思議が納得できるわけがないよね。だって、その両親が存在するということだって、やっぱり同じ奇跡なんだから。
こう書かれてしまうと、ジョナスのコミュニティの「ニュー・チャイルドの配属」も同じ奇跡という意味では、不思議と違和感を感じなくなります。
人生が存在するということ自体が奇跡なんだから、そこで味わう苦しみだって、奇跡だ。なぜあるのかわからないものが、なぜかあるんだから。そんなふうな、あること自体の驚きの感情を失うのでなければ、苦しみの意味や理由を求めて悩むことは少なくなるだろうし、人生が空しいだなんて思うこともなくなるだろう。なぜか宇宙が存在して、星々が永遠に生成消滅を繰り返しているなんて奇跡的な出来事が、どうして空しいことであるはずがあるだろう!
君もこれからの人生で、苦しいことにであったり、死への怖れに捉われたりした時には、空気の澄んだところへちょっと出かけて、星空を見上げてみるといい。きっと、恐ろしく不思議で、妙に懐かしいような感覚に浸されるはずだ。そして、どうしてこんなものがあるのだろうという問いが、そのまま、どうしてこんなもの、この自分のこの人生があるのだろうという問いへと返ってくるのに気がつくはずだ。苦しみですら奇跡だ、そう納得できたとき、その苦しみが消えていることにも気がつくだろう。宇宙は存在する、存在しないのではなくて存在する、じゃあどうして自分が存在しなくなるなんてことがあるだろう、何のことを自分だと思い込んでいたのだろう、不思議の感覚は、さらなる問いとなって、どこまでも深まってゆくはずだ。
ハァ~ン??!!
184 この不思議の感覚、奇跡だという感情は、おそらく、敬虔な信仰をもつ人が神様★に捧げる祈りに似ている。自分を超えた存在や力に、自分の心において出会うんだ。人は、驚きと同時に、深い畏れを知る。そして、この苦しみは神から与えられたものだと、ごく自然に思えるようになるのだろう。このような信仰こそ美しいものだ。それは、考える精神が、考えに考えた果てに至り着く感覚と同じものだ。
これが、神であり、信仰!!!
感謝という感情があるね。君は、人に何かをしてもらった時、感謝して「ありがとうと言うね。あの「ありがとう」とは、もともとは、この奇跡の感情を言うものなんだ。在る理由のないものがなぜか在る。この驚きに発するものなんだ。だから、存在への驚きを知る人や敬虔な信仰をもつ人は、苦しみにすら感謝して、「在り難う」と言うだろう。苦しみや、むろんのこと喜びという経験を、この身に経験することができるのは、宇宙が、自分が、なぜか存在するからこそだ。やっぱりこれはものすごく在り難いことだと思わないか。
すべては、奇跡的な存在である自分、宇宙を受け入れ、感謝するところからスタートするしかない、ということ??!!
★ 「宗教」の章で、池田さんは「この意味での神は、民族や宗教によって違わないし、信じる信じないとも関係がない。なぜならそれは、自分や宇宙が「存在する」ということそのものだからだ。「存在する」ということは、信じることではなくて、認めることだ。それを事実として認めることだ(177ページ)」と言っています。
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