民主主義の教育は、各個人の持っている能力を最大限に発揮させることによって、すべての人々を豊かにするように務める。だから民主的学校ではそれぞれの児童が集団や社会を豊かにするために、自分のすべての能力を発達させることを学ぶものである。集団の中のものは、他の(人が?)持つ能力、才能に関心を持っている。教育計画は学校内のすべての児童に、個人としての自分の力をじゅうぶんに伸ばし、自分の社会に貢献できるような、あらゆる方法を進める刺激と機会とを与えるように組織されるものである。(カッコは引用者)
上の文章はどこから来たものか想像できますか?
昨日のピアジェの『教育の未来』の56ページを思い出してください。
たまたまある本を読んでいたら、見つけてしまいました。
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なんと驚くなかれ、日本の文部省です。(いまの文部科学省の前身。)
1950年に出された『小学校における学習の指導と評価 上』という資料の中の「民主主義においては個人差が尊重されねばならない」という中に書かれています。
まだアメリカの影響を色濃く受けていた時代だから、こんな文章が書かれてしまったのでしょうか?
いまも建前的には、同じようなことを言ったり、書いたりし続けているかもしれませんが、それが実現されるような教育、学校、授業になっているかというと、ほど遠い現状にあります。残念ながら、これが書かれた時よりはるかに後退しています。
時が過ぎるとともに、私たちは進歩するのかな?、と疑問を持ってしまいます。
「教育計画」は、いまとなってはほとんど教科書をカバーし、行事をこなす(プラス中学以上は部活)になってしまっています。もちろん、その2つ(プラス部活)がそれなりの「刺激と機会」になっているとは思いますが、「あらゆる方法」からすれば少なすぎます。
その原因は、ピアジェが『教育の未来』の38ページに書いていたことにつきます。
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