『ギヴァー』と関連のある本27で、五木寛之さんの『親鸞』上と下を紹介しました。その時は宗教的な本というよりも、親鸞の生き様として読みました。ジョナスに引きつけながら。
今回の本は小説『道元禅師』を書いた立松和平さんとの対談集です。(どちらが発言したのかについては、書き出していません。)二人の問題意識は、「少なくともここ10年以上、日本では命のデフレ、魂の恐慌が起こっている」(16ページ)にあると思います。
ちなみに、『ギヴァー』と関連がある本なのか、そうでないかの基準は極めてあいまいです。たとえば、今回の本は関連があるのか、前回紹介していた『哲学者とオオカミ』は関連があるのか、自分でもどう位置付けたらいいのか悩んでいます。
29 親鸞、道元、栄西、日蓮、法然 ~ まさに宗教的なルネサンスの時代
49 そして、全員が比叡山の中退組 ~ 規制の枠組みに入っていては大事はできない!
41 面授 ~ 本当に大事なところは、文字や文書では伝えられない。必ず師から弟子へ面と向かって伝えていかないといけない。心から心へ伝えることが大事だと。語られる言葉こそが、実は真実だと思っている。なぜかというと、語られる言葉には表情があり、声という声色があり、それから身振り手振りがあり、その時の目の色があり、感情がこもっている。面授とは、それらをまるごと言葉として伝えるわけです。対面しての面授がなぜ大事かというと、言葉に含まれた諸々の要素を全部、全的に受け取ることができるから。 ~ ギヴァーからジョナスに伝えられたことは、まさに面授によるとも言える気がしました。
42 文字というのはそうではなくて、語り手の本当の全的な真意は伝わりません。
釈迦(お経)も、キリスト(バイブル)も書かなかった。
190 文章が伝えるものというのは、そのときの自分の声とか全身全霊とともに語る言葉として伝えられるものではないから、真実の半分ぐらいしか伝わらない。
192 真宗ではいまでも聞法(もんぽう)を一番大事にするんです。要するに、直接声で話を聞くということです。文字で読むのではなく、聞法で、人から人へと直接伝えるということです。
空海にしても最澄にしても、中国に渡って、師匠の正当な教えと向き合って、面授されることが必要だからです。どの本に出合ったかということが大切ではないんです。
44 本来は古典も一回性のものなんじゃないか。詩も、歌も、経も、肉体から肉体に伝えられるものなんです。
45 『ブッダのことば ~ スッタニパータ』中村元訳・岩波文庫
50 道元は、比叡山の修行中に重大な疑義を持ってしまった。親鸞も。法然も。 ~ 疑問、疑いを持つことの大切さ。それが新たな行動のエネルギーに。
道元と親鸞の共通点: 両者とも比叡山に入った。幼少で母と別れた。貴族の出身。中退して比叡山を下りた。そして比叡山にいるときに非常に大きな疑惑というか疑義にとらわれた、疑いを心に抱いた。
道元は、すべてのものに最初から仏性があるなら、改めて厳しい修行をする必要があるのだろうかという疑義。 親鸞は、修業しても、仏に出会えない。
55 道元と親鸞を結びつけるもの: 日本の文化、日本の思想、日本人の仏教にした
75 すばらしいことをやっている間に、いかに死ぬかということを考えなくちゃいけない。
79 心身(しんじん)脱落 = 意識しなくてももっている秩序や観念の関係性がバラバラになって、自由自在になるという境地のこと
80 いまのわれわれが生きるためには、数知れない小さい悟りを大切にしていく。 ~ 気づきおよびそれにもとづいた行動
87 宗教的なものに惹かれるのはシックマインド。ヘルシーマインドには宗教は必要ない。 前者は、「病める心」というよりは、「悩める心」。
89 自然とはいったい何か? 私は日記を毎日書いている。だれが来たとか、どこでどうしたとか、箇条書きでそっけもない文章を書いている。余白に、自然の観察もメモしてあり、それを後で見ていくと、ほとんど一緒だ。多少、一週間ぐらいの違いはあるけど、ほとんど一緒といってよい。これが自然だ。 ~ 今回の地震と津波、そして放射性物質による汚染について考えさせられてしまいます。
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