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2010年8月13日金曜日

親鸞 下

 ちょっと横道にそれます。  前回は、『親鸞』(五木寛之著)の上しか読んでいませんでしたが、やっと下を借りられて、読みました。
 前回のテーマは、「自分探し」でしたが(それは、下でも続いているのですが)、今回のテーマは「選択」のような気がします。

 仏教用語では「せんたく」ではなく、「せんちゃく」(より厳密には、浄土宗では「せんちゃく」で、真宗では「せんじゃく」)と読むようです。意味は、「一定の立場のもとに不要なものを捨て、必要なもの、正しいものを選び取ること」です。


 以下、『ギヴァー』と関連すると思ったところの引用です。

19 無戒であるということは、仏法の常識や世間の常識など、それらのすべてにとらわれず自由に生きることをいう。あらゆる習俗、行儀を無視して、約束ごとにしばられずに生きることじゃ。

 仏門に限らず、「とらわれずに自由に生きること」は難しいこと。しかし、大切なこと!


31 選択とは、みずからが選びとったということだけではなく、むこうから選びとられた、という事実も大事なのではないのか。

 なかなか後者の感覚を味わうことは少ないと思いますが...

222(271) 選択というのは、2つのなかからどちらかを選びだすことではない。それは片方を捨て、片方に身命をかけることで、魂が2つに引き裂かれる恐ろしい行為でもある。その引き裂かれた魂からしたたる血が、念仏なのではないのか。

 ここまで言われてしまうと...

216 ほんとうのことは、おそろしいこと

222 法然上人が自分に選択集の書写を許したということは、<巣立てよ。みずからの道を歩め>と、はげましてくださったのではないか

 この辺、ギヴァーがジョナスに記憶を注ぎ込むのにオーバーラップする部分が無きにしも非ずと、思ってしまいました。

206 叡山との関係を最後までなかなかきることができなかった法然上人

 これも、ジョナスとは異なる、ギヴァーのあり方とオーバーラップしてしまいました。
 逆に言えば、法然を超える存在になっていく親鸞(ギヴァーを超える存在になっていくジョナス)ということに?

275 善信時代の親鸞の(革命的ともいえる)説法の仕方が記述されている

 ひとことで言うと、一斉授業で教師が話し続けるアプローチから、生徒たちの声を聞き、必要に応じて答える(ライティング・ワークショップやリーディング・ワークショップの中でのカンファランスの)アプローチへの大転換です。
 無戒であるがゆえにできること?

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