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2013年12月31日火曜日

自立した主体を育てない日本の教育


 それは、経済や政治と密接に関係していた!!
 企業も、政治も、それを望んでいないから。
  しかし、第二次世界大戦後、それこそが求められた一時期もあった。一部の学者や文人のみによって? これで、国家から解放されて、「自由で、自立した主体」による社会形成が可能になったと。しかし、それが単なる夢であり続けているこの摩訶不思議な国。「幻想としての民主主義」しか存在しない国。

 というような内容のことが、「近代的人間類型の創出 ~ 政治的主体の民衆的基盤の問題」(169~175ページ)と「自由と独立」(176~186ページ)ともに『大塚久雄著作集』第8巻に書かれていた。

 「親心」「家族の関係」までもが「自由で、自立した主体」を形成する阻害要因になっているのだから、ハードルは極めて高いと言わざるを得ない。「自発性、合理性、社会連帯性への自覚的」なものが芽生える素地が極めて薄いということ。(宮本常一さんが描く民衆にも、そういう要素は皆無かな?)


福沢諭吉に目をつけた丸山真男、ベンジャミン・フランクリンに目をつけた大塚久雄。


 これが今年最後の書き込みです。

 日本の社会、経済、政治の問題は、大きいです。
 そして、その根底にある教育の問題を無視し続けていることも。

 さて、明日からの来年に、『ギヴァー』という視点が何を見させてくれるのか楽しみにして、2013年の書き込みを終わりにします。

 よいお年をお迎えください。

2013年12月30日月曜日

子育てと介護



 前回、二世代ぐらい前までの子育ては「大家族で、おばあちゃん、おじいちゃん、おねえちゃん、おにいちゃんが、お母さん以外にも存在していた」中で行われたということを書きました。
そういえば、この同じ状況はおじいちゃん・おばあちゃんの介護にも当てはまっていたのでした。
 しかし、その大家族というかコミュニティが崩壊したことで、最初(?)に切り捨てられたのが、年齢的には両端だったというか、弱い立場にあるものだった、ということだと思います。
 『ギヴァー』の作者のローリーさんは、記憶がなくてもいい社会と同時に、誰にもやさしい社会を過去に戻るのではなく、未来に作り出さなければならなかったので、ああいう設定しか選択肢がなかった(思いつかなかった?)のかな、と思うのです。

 私たちも、それがいやで壊したものに、今問題が多いからと、単純に戻るわけにはいきません。子育ても介護も二昔前ぐらいまでは、「施設」でするものではなかったのです。それが、家族や地域の崩壊によって、「施設」でするものに転換しました。しかし、その問題点に、ローリーさんは20年前に気づいてしまったようです。

 ちなみに、この両端の間にある問題の一つが、部活の体罰だと思うのですが、国民的英雄の王さんの言葉を返すようで申し訳ないのですが、単に「古き良き日本が失われた」と嘆いても、どうしようもありません。単純に、今となっては戻れるわけもないのですから。また、それがベストの方法だったわけでもないですし。

 このように、生まれてから死ぬまでに遭遇するさまざまな仕組みが変わってしまったのに、私たちがそれにうまく対応しきれていない問題があまりにもたくさんあります。(要するに、世の社会・経済・政治問題すべて、です。)それらに、「古き良き」に戻るのではない第三の方法を編み出していく必要が求められているんだと思います。それは、過去数十年抱え続けた問題ですが、新年を含めた未来も抱え続ける問題です。

2013年12月29日日曜日

生まれてから最初の1~2年が大切



 前回の年をとって死を迎える場面と表裏一体(?)の関係にある生まれたての頃についても、ここ数週間考え続けています。
最近読んだある教育書の中で、生まれてから最初の1~2年間にどういうふうに保護者に接せられたかが、単に人格(性格)を決定づける上で大切なだけでなく、学力にも大きな影響を及ぼすということが書いてありました。

 日本でも昨今、学級崩壊が日常化したり、問題を抱えた子どもが増えていることを、先生をしている友人たちからよく聞きます。要するには、落ち着きのない子どもたち/話の聞けない子どもたちの増加です。(学校はこれを、幼稚園や保育園のせいにし、幼稚園や保育園はこれを、家庭のせいにする形で、行き着く先は家庭問題になっています。)
 この問題に、より早くから、しかも日本よりもはるかに大きなスケールで遭遇しているアメリカの状況はどんなもので、そしてどういう対処が行われているのかを紹介している本です。
 その結果が、最初の1~2歳の段階でどれだけストレスをもつことなく、温かく接してもらえるかが大きなポイントの一つになります。接するのは、もちろん母親だけの必要はないわけです。昔は、大家族で、おばあちゃん、おじいちゃん、おねえちゃん、おにいちゃんが、お母さん以外にも存在していたことが、「落ち着きのない子どもたち/話の聞けない子どもたち/問題児」の誕生を防いでいたような気がします。しかし、核家族化が進み、地域性も弱くなり、一人の保護者への依存が高まるに従って、「落ち着きのない子どもたち/話の聞けない子どもたち/問題を起こす子どもたち」問題が誕生したように思います。要するには、この辺のことを踏まえることなく、ライフスタイルを変えてしまったことで必然的に起こった問題と言えるのかもしれません。

 この辺の『ギヴァー』での対処の仕方は参考になるかもしれません。
 出産母とは別に、<養育係>という存在をおいているのです。ジョナスの父がその一人です。双子の一人を平気で殺してしまうぐらいですから、大丈夫なの、と言いたくもなってしまいますが、そういうことも含めて(?)、有能な養育係なのかもしれません。
 そして、1年+αか月すると「最適の家族」のメンバーになるという仕組みです。おそらく、日中は核家族のおとうさんとおかあさんは働いていますから、子どもたちは保育園的なところに預けられているのでしょう。

2013年12月28日土曜日

年をとる、ということ



 『ギヴァー』誕生のきっかけを著者本人が語るビデオを見てから、ずっと考え続けています。
著者自身が語っていたように、この物語は記憶をコントロールできたらどんなかを中心に設定されたと思うのですが、<老年者>の家で描いたことは、ひょっとしたら著者の理想ではなかったのか、と。それは、<リリース(解放)>することも含めてです。

私の親の世代には、子どもたちの世話になりたくない、と思う人たちが少なくありません。(豊かになったからできることだとも思いますが。)しかし、実際に施設を訪ねて、話を聞くと、出てくることは愚痴ばかりです。決して、ハッピーではありません。
いまの介護(+医療)政策は、お年寄りをできるだけ長生きさせることが、主目的になっているようです。(そのことによる経済効果は計り知れないものがありますから!)しかし、心のこもったサービスが提供されているかというと、はなはだ疑問です。もちろん、人手が十分でないことや、長く居つけない職場であることが、そうしているのかもしれません。
こういう日本の介護現場や状況を見ていると、私自身、子どもの世話になりたいとは思いませんし、無駄なお金を使って(税金も含めて)社会に貢献できない状態では生き延びたいとも思えません。
そんなことを、ローリーさんも20年前に同じように考えていたのではないか、と。

 生まれてから社会に出るまでは、社会に直接的に貢献をしているわけではありません。最初と最後は、別に貢献ということは考えなくてもいいではないか。生を全うすれば、という考え方が主流だとは思いますが、私はリリース(解放)=尊厳死を選びたいという思いが強くあります。(そんなこともあって、パブロ・カザルスの言葉も紹介しました。)

 ということで、ローリーさんが『ギヴァー』の中で提示してくれている考えに大賛成なわけです。誰がどういう基準や、当事者がどこまで関与できるのかなど知りたいことは何点かありますが・・・・これらを明らかにすることは、近い将来日本でも必要なことなのかも・・・・いまのままでいいはずないと・・・・

 以上は、『ギヴァー』の主なターゲットである小学校高学年~高校生には、ちょっと考えも及ばないし、考える必要もないテーマだと思います。50代までの私ですら考えなかったぐらいですから。そして、単に著者自身の当時の切実なこだわり(?)と、一読者である私のこだわりでしかありませんから。

2013年12月27日金曜日

歴史から学ぶことの難しさ

いま、仮説実験授業の板倉さんの本を、読み漁っています。

その中に、こんなのが・・・・(出典:板倉聖宣セレクション1『いま、民主主義とは』の139ページ) 

  2005815日の毎日新聞の一面トップ記事
 日本が米国や中国などと戦った戦争について尋ねたところ、<間違った戦争だった>と答えた人は43%で、<やむを得ない戦争だった>という人が29%もいた。26%は分からない。
70代、60代の方が、肯定派が多いという結果。

同じアンケートをいましたら、どういう結果になるでしょうね?

過去の記憶を持たないギヴァーのコミュニティの人たちは、過去・歴史から学ぶという発想自体を放棄したわけですが・・・・

2013年12月2日月曜日

石破氏の「デモはテロ」発言


 本音が、ついペロッと出てしまいました。

 見事なぐらいの自民党の体質と言えると思います。

 自分たちにとって都合の悪い言動は、テロで片付けてしまう。

 彼らに言わせると「本来あるべき民主主義の手法」とは選挙ということになるのだと思いますが(そのためには、手段は選ばずで)★★、そうなると、前回の選挙で自民党に投票した人たちは、こういうことも含めて、投票していたと認識する必要があることを意味します。(それもこれも、民主党の不甲斐なさのなせる技から始まったことではありますが・・・)

 いずれにしても、感じるのは「おごり」と独裁的な匂いばかりです。

 そうでもありませんか?

 ギヴァーのコミュニティーの長老たちも、こういう発言はしてしまうと思いますか?

 来年の8月に封切られる映画で、メリル・ストリープさん扮する最長老に注目です。

 例によって、この件については、伊藤和子さんがうまくまとめてくれています



★ この類の失言・暴言は、自民および維新の党の議員が多いですね。選挙民の感覚とは、相当にずれている、と思わされる発言が。他の政党は、まだ少ない気がしますが、単純に、脚光を浴びる度合いが少ないだけ??

★★ 絶叫調のデモはダメで、選挙期間中の絶叫調の連呼はいいのでしょうか? 常人にとっては、前者の被害は皆無に等しいですが、後者1年おきぐらいに必ずあります。平和を乱す(=官製騒音公害の)最たるもので、ぜひやめてほしいです!!

2013年11月29日金曜日

老いるということ


 パブロ・カザルスの第2弾です。(出典は、『パブロ・カザルス 喜びと悲しみ』アルバート・E・カーン著。数字は、ページ数です。)

7 私はこの前の誕生日に93歳を迎えた・・・人が仕事を止めずに、周囲の世界にある美しいものを吸収しつづけるならば、年齢を重ねることが必ずしも老人になることでないことがわかるのだ。少なくとも、普通の常識的な意味で年をとることにはならない。私は多くのことに今までこれほど感激したこともないし、人生は私にとっていよいよ魅力的なものになっている。

10 仕事をしていれば人は年をとらない。そういうわけで、私も仕事を止めることなど夢にも考えることはできない。引退という言葉は今も将来も、私には縁がないし、私にはそんなことは思いも寄らぬ考えである・・・精神の続く限りは。私の仕事は私の人生である。仕事を離して人生を考えることはできない。いわば引退なるものは、私には棺桶に片足を入れることなのだ。仕事をし、倦むことのない人は決して年をとらない。仕事と価値のあることに興味をもつことが不老長寿の最高の妙薬である。日ごとに私は生まれかわる。

 年を取るにつけ、こういう言葉が身にしみます。
 果たして、カザルスの言葉をうらやましいととるか、当たり前ととるか、それともかわいそうに、ととるか?
 最初の人にとっては、定年は極めて残酷なものかもしれません。
 それとも「ハッピー・リタイアメント」でしょうか?

2013年11月27日水曜日

パブロ・カザルスの母の言葉


今だからこそ、響く言葉!

母にとって最高の掟は個人の良心だった。
母やよく言ったものだった。
「私は法律は重んじないのが主義ですよう」
また、母は法律には役に立つのもあるが、そうでないものまる、だから善い悪いは自分で判断しなければならないとも言っていた。母は特定の法律はある人たちを守るが、他の人には危害を加えることを知っていた。今日のスペインでは法律によって守られるのは少数者で、多数の庶民は法律の被害者である・・・母は常に原則に従って行動し、他人の意見に左右されることはなかった。己が正しいと確信することを行ったのである。

弟のエンリケにスペイン陸軍から召集令状が来たとき、
「エンリケ、お前は誰も殺すことはありません。誰もお前を殺してはならないのです。人は、殺したり、殺されたりするために生まれたのではありません・・・・。行きなさい。この国から離れなさい」
それで弟はスペインを逃げ出して、アルゼンチンに渡った。だが11年間、母は弟と合わなかった。・・・私は思うのだ、世界中の母親たちが息子たちに向かって、「お前は戦争で人を殺したり、人から殺されたりするために生まれたのではないのです。戦争はやめなさい」と言うなら、世界から戦争はなくなる、と。
       (『パブロ・カザルス  喜びと悲しみ』
         アルバート・E・カーン著、14ページ)

2013年11月13日水曜日

安倍さんの「道徳の教科化」

皆さんは、小・中学校時代に体験した道徳の授業を、どれくらい覚えていますか?

一昨日のトップ・ニュースの一つは、「道徳、教科に格上げ 有識者会議案」でした。

この有識者会議の中に、現場の教師は何人いると思いますか?
おそらくいないから、こういう提案になるんだと思います。

しかも、人選は安倍さんがやりたいことをやれるようにするための「お墨付き」を出すことが目的の人選になっていると思います。
なにせ、安倍さんが大好きな分野の一つですから。前政権の時は、実現できなかったので、今回はなんとか実現すべく、見えないところですでに動き出していたわけです。

これで道徳も、教科書+テスト、ということになるのでしょうか?

基本的には、私が長らく関わっていた環境、人権、平和などと同じで価値と行動を扱うテーマですから、なかなか教科になりにくいという部分はあります。が一方で各教科が価値と行動を扱わない/伴わないでいいかというと、すべて伴わないと本来は困ることでもありますから、やれないことはないというべきでしょうか? でも、教科書+テストにすることがいいことなのかどうかは、また別問題です。

でも、日本では常に教科=教科書+テストのセット化されて捉えられます。とても悲しいことですが・・・・・。要するに、政治家も、有識者も、マスコミも、そういう頭しかないというか、そういう体験しかしていないわけです。 いつまでも、戦前のままというか、明治の初期のままというか。


教えること、学ぶこと、教育の価値観が博物館的に古いままが続いています。

『ギヴァー』のコミュニティは、この辺に関しては、毎晩の感情共有や、間違いを犯した時の公式謝罪、ミスや規則違反の際の処罰等で対応しているようですが、表面的にはそれで事なきを得ているように見えても、根本のところではジョナスのように満足を得られていない人が少なくないことが伺われます。

安倍さんの努力、これとまったく同じことをやっているようにしか見えません。

2013年11月7日木曜日

映画化最新情報・配役決定


来年8月15日封切りを目指して、すでに南アフリカのケープタウンでロケがはじまっています。

配役も決定です。
当然のことながら、若い俳優が中心ですが、オスカー俳優が2人も登場します。
ギヴァー役のジェフ・ブリッジズと、最長老役でメリル・ストリープです。

で見られます。



2013年11月5日火曜日

『ギヴァー』と真逆な世界

 前は『チェロの木』で紹介しましたが、絵本『ルリユールおじさん』で有名な(そして、ゴッホと宮澤賢治をライフワークにしている)いせひでこ作の『大きな木のような人』を読みなおしました。2度目です。1度目には気づかなかったことに気づきました。
 『ギヴァー』とは、真逆な世界を描いているのでは、と。

表紙の裏には、「その木は、なにも語らない。
       でも、たくさんの物語を知っている」

7ページには、「人はみな心の中に、一本の木をもっている」

49ページには、「大きな木よ。じっと記憶する木よ。
        おまえは見てきたものに、わたしは耳をすます。
        おまえから生まれたことばが、わたしの物語になる」

などと書かれています。

木と人間の大切なつながりが書かれた絵本です。(『チェロの木』も、そして『ルリユールおじさん』もそうでしたが。)

それに対して、『ギヴァー』の世界には木はあります(戦争ごっこのシーンを思い出してください)が、木の色はありません。季節もありません。気を育てるということもありません。世界の中の木を集めるという発想もありません。

『大きな木のような人』の主人公は、日本人の女の子の<さえら>です。(舞台は、パリ?)
フランス語で、<あちこち>という意味らしいです。

そういえば、『ギヴァー』のテーマのひとつが、elsewhere(いずこ)でした。
ここだけは、共通するかも?


2013年11月1日金曜日

『ギヴァー』と関連のある本 99


協力者の矢内一恵さんが、『ギヴァー』に関連のある本を教えてくれ、かつ紹介文まで書いてくれました。(以下に、そのまま掲載します。)

Baby”(Patricia MacLachlan著、邦訳『潮風のおくりもの』)という作品があります。The Giver”と対極をなす本ではないかと感じています。しかし、リンクするところが非常に多いとも感じています。この2冊の本は、プロットはまったく違いますが、どちらの物語にも登場するいくつかのキーワードでお互いに引かれあっているように思います。これらのキーワードが、物語の進行を加速させる上で、重要な役割を担っています。

Baby”はそれだけを読めば、最愛の人を失ったときに感じる悲しみ、虚脱感、そしてその悲しみや孤独とどのように向き合い、乗り越えていくのか、というのが大きなテーマになっています。語られる情景は季節の移り変わりの中のゆったりとした、何気ない日常生活ですが、細やかで、やさしい眼差しに溢れ、まるで手で織物を編んでいくような暖かさがあります。
一方、The Giver”は無機質な光景の中に画一化され管理された日常生活が、感情の起伏を許されることなく描写されていき、読み進めるうちにその違和感は読者にある種の恐怖感と寒々しさを与えていきます。

このように、設定上は対角線上の両極端にありながら、磁石のようにお互いを引きつける働きとなるものが、memory<記憶>でしょう。そのmemoryを軸に、emotions<感情>, words<言葉>,という概念が絡み合い、2つの物語をさらに強く共鳴させているように感じます。
The Giver”の登場人物たちは<記憶>を持たないゆえに、喜怒哀楽を感じることはなく、死を死とも受け取れない、いや受け取る必要のない世界で暮らしています。Baby”の中に登場するbabyは名前をつけられることもなく1日で亡くなってしまいますが、その死の<記憶>は家族に大きな苦しみ、孤独、怒りという感情を残し、それは日を追うごとに大きくなっていきます。

ここで考えさせられるのが、人にとって、人類にとって<記憶>を持つことの意味は何か。The Giver”ではThe Giverその人がwisdom<知恵>だという答えを提示し、<記憶を受け取る人>の必要性を述べていますが、心揺さぶられる苦しみ、痛み、悲しみ、哀しみ、怒り、楽しみ、悦び、などあらゆる感情を体験することなしに、果たして<知恵>が適切に<知恵>として働くことはできるのだろうか、と私は疑問に感じます。
Babyの登場人物が担う<記憶>は、<喜怒哀楽の感情の体験>を通して、「人生を前進させる」という形で生かされ、最後の場面でその効果を発揮していると思います。
<記憶>は「人生」に彩りを与える重要な要素なのです。それが、人類の歴史としてなのか、一人の人生としてなのかは関係なく、常に<感情>とセットでなければならないのだろうと、考えさせてくれます。

この2つの作品のもう一つの共通のキーワードとしてwords<言葉>について少し。言葉には力、あるいは意味が存在するのか。The Giver”の登場人物たちは、言葉の正確な使用法にこだわっていますが、そこに本当の「意味」を見出しているとは思えません。むしろ、衝動の根源となるものを圧殺するための使用法のようにみえます。
Baby”には「Dirge without Music(音楽のない葬送曲)」という詩が作品内に登場します。この詩の登場で、主人公の少女、およびその家族たちが心のうちに閉じ込めていた衝動を一気に開放させていきます。

主に、memory, emotions, wordsを極めて簡単に対比させて考えてみましたが、ほかにも、あらゆる場面において対比させて読むことができ、非常に考えさせられる要素が満載です。現代の私たちに、「人が人であるために…」という課題を、やさしいくあたたかい眼差しで投げかけるbaby、チクリと冷徹な思考で投げかけるThe Giver
<記憶>は<喜怒哀楽の感情の体験>がなければ生まれることはできず、<感情>というスパイスが効かなければ、<知恵>には到達できない。その<知恵>を人類の「叡智」とできるかは、まさしく現代の私たちが下す選択にかかってくるのだろうと思います。感情を経験することがなくとも得られる「知識」との違いが浮き彫りにされる瞬間だろうとも思います。

2作品の個々の世界観を味わい、またリンクする部分で読者の想像的思索を深めるのに、ぜひとも同時に読んで楽しんでもらいたいです。どちらも小学高学年用に書かれた作品ですので、できることなら原書で、そして若い人たちに読んでほしいと、心から願います。

2013年10月31日木曜日

『憲法なんて知らないよ』

 この池澤夏樹著の本で一番面白いと思ったのは、最後の解説で、なだいなだ(ちなみに、このへんちくりんな名前は、スペイン語のnada y nadaから来ています。Nadaは「無い」という意味です。yは「and」です。従って「無いと無い」。つまり「何もない」です)さんが紹介していたことです。

 解説者が、「全国ラジオ子ども電話相談室」の回答者をしていたときのことだそうです。
 一人の小学4年生が電話をかけてきて、「日本は民主主義の国なのに、どうして代議士の子どもが代議士になるのですか」という質問をしてきた、と。(以下、文庫版の202~206ページのやりとりのダイジェスト版)

「それはねえ・・・ほんとうにどうしてだろう」
考えたら、こっちが分からなくなった。だから一緒に考えることにした。
「どうしてだろうねえ」
「どこかが間違っているのじゃないですか」
「そうに違いない。きっとそうだ。だけど、どこが間違っているのだろう?」
「そこが分からないんで、電話をかけたのです」
「親に聞いたかね」
すると、学校の先生に聞けと、そして学校の先生に聞くと、ラジオ子ども電話相談室に聞いてみろと言われたそうだ。(なださんは、ここで「たらい回しだ」と思い、なぜたらい回しと言うのだろうと思ったそうだが、それは子どもが電話をかけてきた主旨ではないので、後で考えることにしたそうだ。果たして、答えは出たのだろうか?
「う~ん、学校の先生はそういったか」といいながら、ぼくは考えている(時間稼ぎをしていた?)と、
「もしかして、民主主義って、勉強するのに時間がかかることなんじゃありませんか」
ぼくは子どもの答えにしびれた。
「それだ。それだよ、君」
「なにが、それですか」
「時間がかかるということ。日本は、建前は民主主義の国になったんだ。でも、まだ、本当の民主主義になったとはいえない。だから親が代議士なので、子どもも代議士になる場合がまだ多いのだよ」
「選ぶ人が、まだ民主主義が分かっていないのですか」
「きっとそうだ。選ばれる方が、民主主義が分かっているかどうかも問題だがね」
「選ぶ人も、選ばれる人も、民主主義とはなにかが分かるまで、時間がかかるということですか」
「そうだよ、ぼくはそう考える。時間がかかるばかりでなく、さまざまな経験をして、そうなるための努力をしなければならないという意味もある。ともかくも、日本はまだ十分に民主主義になっていないということだ」
ぼくはなんとかそう答えて、「少し分かってきた」と、その子どもに許してもらったが、今でも、そのときのことを忘れない。

 結局、どっちがどっちに教えていたのでしょうか? 「相談」というのは、所詮はこんなものなのではないでしょうか? 相談してくる側が、すでに答えを持っている。された側は、一緒に寄り添って聞き役をすればいい。(以上、なださんの解説は終わり。)

ひょっとしたら、「日本は民主主義の国なのに、どうして代議士の子どもが代議士になるのですか」という問題は、第14条の第2項の「貴族や貴族階級などの制度は認めない」に触れているかもしれません。制度化はされていないわけですが、実態はそうなわけですから。

他に気づいたことは、読みやすい憲法が書いてある、ということ。
その理由は、あの硬いのではなくて、英文をわかりやすく翻訳してくれているから。
(そもそも、あれを最初に訳した/書いた人たちは、読まれることを想定していたのかな、とさえ思ってしまいます。読まれない方がいいということを前提にしていたのでは、と勘ぐってしまいます。単純に、法律用語の限界??)

とにかく前文はいいです。これに反対する人はいるのかな?

冒頭で紹介したのと同じように、「日本は民主主義の国なのに、どうして天皇はいるのですか?」と小学校高学年の子どもが質問してきてもおかしくないかもしれません。(ちなみに、これは憲法第1~8条に書かれています。なんと、一番議論の多い第9条の前の8つの項目がすべて、そのことに費やされているのです。)

『ギヴァー』のコミュニティには、憲法はないだろうな~、と思ってしまいました。
あなたは、あると思いますか?
3500人のコミュニティには必要なくて、国家には不可欠なのが憲法?
日本の自治体レベルには「憲章」はありますが、憲法といわれるものは存在しません。
憲法は、国家にしか認められていない?
国家というのは、それほど構成員に対して拘束力を持つ存在??
なお、日本国憲法には、地方自治に関するものが、申し訳程度に第92~95条で扱われています。でも、実質は、憲法とは別の「地方自治法」という法律で決められているそうですから、そちらを見ないとわからないようになっています。(でも、これって、国の都合で決めた法律なんじゃないの??)

2013年10月29日火曜日

バーナード・リーチの『日本絵日記』

 陶芸家のバーナード・リーチの『日本絵日記』を読んで、手仕事と工業が比較されているところがありました(25~7ページ)。『ギヴァー』の心地よさ的なものは、前者のみしかコミュニティには存在しないのではないかと思わせるところのような気がします。(そういえが、第2部の『ギャバリング・ブルー』も同じです。)

 確かに、機械化、画一化によって、量と効率化は図れるのかもしれませんが、それによって失われるものの大きさは、考慮されたことがあるのでしょうか?

 これまでにもこのブログで取り上げてきた、おじさん・おばさんが経営する個性的なお店や、生の声によるコミュニケーション、朝早く起き(寝るのも早い)生活などと対局をなす、コンビニ化やスマホ化や24時間化がいま日本全国で急ピッチで進みつつあります。後者は、大量エネルギー消費社会という形で電力会社を儲けさせる(に依存する)社会構造に深く関係しています。

 人間は、果たして進歩しているのでしょうか、それとも退歩しているのでしょうか、考えさせられます。

 もちろん、古いものはすべてよくて、新しいものはすべてが悪い、ということではありませんし、その逆でもありません。それなりのバランスということだと思いますが・・・

 陶芸を含めた工芸の定義もいいです。
 「ひとえに普通の暮らしの中で健やかさと美しさをゆっくりと開花させて行くもの」(33ページ)です。

 それに対して、工業製品の定義はどうなでしょうか?

2013年10月26日土曜日

義務教育、5歳からに引き下げ検討

表題の記事が載っていました。

あなたは、どう思われますか?
これで、教育の質がよくなりますか?

ちなみに、『ギヴァー』のコミュニティでは、12歳で学校を終えると同時に、インターン的に職につきます。ちょっと早すぎますか? ローリーさん、徒弟制度的なものをイメージしていたみたいですね。

これまでもそうですが、教育再生実行会議や臨調などは、制度面をいじることに躍起で、中身を改善しようとしません。おそらく現場の教師たちに聞いたら、この類の制度改革を望む人はいないと思います。他に、やらないといけないより重要事項を山のようにかかえていますから。それらが、この制度改革で消えるかというと、残念ながら消えません。ひょっとしたら、新たに増えるかもしれません。政治家や官僚や有識者(学者)は、自分たちは何か意味のあることをしていますよ、というジェスチャーを示したいあまり、現場レベルで大切にしたいことが見えなくなっているようです。当事者たちから聞く/当事者たちを見る、ということから始めてほしいです。

つい数日前の小学校3年生から英語を必修化、というのも同じです。制度を変えれば、単純に教育内容(質)がよくなると思っているのでしょうか? 過去数十年の歴史を振り返ってみるだけで、それは明らかです。何十回と制度いじりはやってきましたが、一向によくなる気配はありません。それが歴史的事実としてわかっているのですから、アプローチを変えてほしいです。

「小学校高学年には中学校のような教科担任制が効果的だという見方もあり」・・・逆に、中学校の教科担任制は、果たして機能しているのでしょうか? という見方もできるわけで・・・

2013年10月25日金曜日

記憶が叡智をもたらしてくれる

 『ギヴァー』の中での、ギヴァーとジョナスとの会話です。

「叡智なくしては、私はまっとうすることができないのだ、<長老委員会>の求めがあった時に助言を与えるという私の使命をね」(156ページ)
「かれらは痛みについて知りたがらない。助言を求めるだけだ。だから、ただこう忠告したよ。」 ~ 要するには、記憶に残すことなく、痛むこともなく、単に忠告を聞くだけ。これって、軍備拡大(日本の戦争責任回避)路線の人たちがやろうとしていることそのもの?

「あなたが最後に助言を求められたのはいつなんです?」
「覚えているかね、飛行機がコミュニティの上空を飛んだ日のことを」 ~ 本の出だしのシーンでした。
「はい、怖かったです」
「かれらも怯えていた。飛行機を撃ち落とそうとした。だが、撃つ前に私の助言を求めてきたので、私は待つように言った」
「でも、あなたはどうやってわかったんです? パイロットがコースをまちがえたことが、なぜわかったんですか?」
「パイロットのミスがわかったわけじゃない。叡智を使ったのだ。記憶の中からね。私は知りつくしていたんのだよ。過去に何度も ~ 数えきれないほど何度も ~、人々が他の人々を滅ぼしてしまったケースをね。焦り、恐怖にかられて他を滅ぼせば、やがて自らをも破滅させることになる」(158ページ) ~ 要するには、こういう大切な叡智を葬りさろうとしている動き?



 もちろん、著者のローリーさんは、日本のことを念頭において、これを書いたわけではありません。主には、アメリカの読者が対象です。でも彼女は、ブッシュ息子(およびその一派)があんなアホなことを約7年後に仕出かすとは想像できたでしょうか? あまりにも叡智のない判断としか言いようがないわけですが、悲しいかな、それが西部劇の国であり続けるアメリカの一大特徴です。

2013年10月24日木曜日

フラタニティー

  大学時代の選考/評価の関連で

フラタニティーという名称を聞かれた方は少ないと思いますが、学生が自主管理・運営する寮のことです。
男子の場合がfraternity(ラテン語で「兄弟」という意味)で、女子の場合はsorority(ソロリティー)です。私が入った頃から男女混合のものがボチボチでき始めていました。
  もちろん、大学が管理・運営する寮もあります。学生側に選択肢を提供しているわけです。もちろん、自分でアパートを探すこともできます。でも、依然とし て、アメリカの大学の場合は、前の2つがほとんどではないでしょうか? 主な理由は、大学にコミットする時間が、日本の学生の比ではないからだと思いま す。

  自主管理・運営のフラタニティーは、建物自体は先輩たちが保有しています。そこに家賃を払う形で住まわせてもらう関係です。もちろん、それで「住」の問題 は解決しますが、「食」の部分は自分たちでコックを雇って、何を作って出させるかは自分たちが決めます。おいしく豪華な食事を希望すれば、寮費は自ずと上 がりますし、そうでない選択をすると安く済ませることもできるというわけです。どんな社会活動をするのかや、大学の行事等に参加するのかも、自分たちで決 めていきます。お昼も、寮に戻れば温かなものが食べられますが、戻れない場合は前夜までにサンドイッチを予約しておけば、朝もって出られます。

 ここで私は3年半生活したわけですが、一番面白いのは誰を仲間として選択し、入ってもらうかという選択のプロセスです。
 大学に入学が決まった生徒に関しての情報が、大学側から提供されます。すでに入学1年ぐらい前から決まり始めます。
  私が入っていた寮は基本的にスポーツ好きの学生が多かったのですが、とにかく候補になると思う生徒に連絡をとって、事前に大学を見に来るときは泊まっても らうように誘いをかけます。まずは、知ってもらうことからスタートです。冬休みや夏休みに寮生が実家に帰ったときは、近くで会える生徒(相手は、まだ高校 3年生)にできるだけ会って、大学のことや寮のことを紹介します。

 そして、大学が始まる前の週がrush week(新入生勧誘ウィーク)です。ウィークとは言っても、実質は週末の2泊3日です。(9月の第一週の月曜日は、祝日です。)この期間に、在校生側 は、新年度に新たに寮に加わってもらう新入生を厳選し、50~60人の候補の中から8~10人に絞り込んでbid(公式な勧誘)をします。それに対して、 新入生の側にもどこに入りたいかという選択がありますから、自分が入りたいところからbidをもらったら、pledge(正式な受け入れ)します。もちろ ん、受け入れないという選択肢ももっています。

 在校生は、金曜の夜、土曜の夜、日曜の夜は、新入生を寝せたあとに、夜遅くまで/朝早くまで、誰にbid を出すかの喧々諤々の話し合いが行います。在校生の中に一人でも、「あいつはダメだ」という人がいたら、他の何人がいいと言ってもbidが出されることは ありません。2年、3年一緒に暮らしていくわけですから、最初から馬が合わないと言っているのに、「しばらく経てば慣れるだろう」はないわけです。
 初日の夜は、確実に入ってもらいたい5~6人ぐらいを決めて、土曜日にbidが出されます。
 2日目の夜は、次のグループ5~6人を決めて、日曜日にbidが出されます。
 これらの中から、年度にもよりますが、3~5人は他のフラタニティーや大学運営の寮を選んだりしますから、3日目の夜は、追加の数人を選んで、月曜日にbidを出します。
 なお、このbidは、rush week期間中だけ有効なのではなく、新入生が在学期間有効というものです。ですから、私が住んでいた寮でも、3年生になってpledgeして移ってきた学生がいました。

 以上は、大学での勉強よりも、私にとってははるかに価値のある体験でした。
 まるで、フラタニティーという存在や仕組み自体知らずに飛び込んだにもかかわらず。

  『ギヴァー』 のコミュニティでは、12歳で仕事を始めますから、こういう生徒がたむろするスペースはなさそうです。小さい時から同級生全員のことを知った状態で、ずっ と上がってきますから、ある時点になってお互いを選び合うという行為自体、あまり意味をなさないと思います。その意味でも、自分の職が決まるというのが一 大イベントであるというのは、わかる気がします。


 私の父は茨城出身で東京にある「水戸塾」に入っていたのですが、基本的には同じようなプロセスで選考していた、と言っていました。調べてみたら、なんと、今も運営されています!! 他県にも、同種のものがあるはずです。アメリカの場合は、これが各大学毎にたくさんあるとイメージしてください。MITの場合は確か30近くあったように記憶をしています。
http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_MIT_fraternities,_sororities,_and_ILGs


★★ rush weekの前の4~5日は、在校生が建物の中を金ピカに掃除をして、磨きます。少なくとも、その週だけはいい印象を与えるために。ほとんどのフラタニティーの規模は30~40人です。従って、毎学年8~10人ぐらいの出入りがあります。

2013年10月22日火曜日

テストというか評価の問題



テストにまつわる報道が、ここ2日ばかり続いています。
この問題からは解放されないのが、日本という国の宿命なのでしょうか?

昨日は、「説明責任か序列化か」

今日は、「センター試験廃止へ」

昨日のだけでは、とても書く気になりませんでしたが、今日のを見て・・・
両方とも、教育現場(小学校~高校)を無視したというか、配慮にかけることをやり続けていることは同じです。

昨日、書く気になれなかった理由?
そもそも、してはいけないことの尻拭い論議ですから。
有識者というぐらいなら、はっきりと「学力テストを廃止すべき」と文科省に言ってあげないと、役割を果たしていません。
そもそも、価値のないものに、あたかも価値を与えるような議論をしていること自体が、極めておかしな話なのです。
それによって、教育現場に混乱を招いている、という意識すらありません。
評価のことが全くわかっていない数人の官僚、政治家、研究者に振り回されている状況を維持しているだけです。

今日の記事もまったく同じで、そろそろテストで人を測れるのは20分の1、よくて10分の1ぐらいの能力に過ぎないことをわきまえないとまずいです。

個人的な例ですが、私はたまたまラッキーで、高校を卒業と同時にMITに入れたのですが(もう40年以上前のことです!)、理由は、テストのウェートが極めて低かったからです。もしテストだけだったら、到底入ることなどできなかったと思います。テスト以外に(というか、テスト以上に)考慮されていたのは、①高校時代の成績、②推薦書(確か3人)、③インタビュー(私の場合はOBの卒業生と日本でやりました)、④自分の作文などです。★★

これらを、学内に教授、事務、在学生の代表からなるチームをたくさん作って、選考プロセスを展開していきます。★★★
一発のテストよりは、はるかに時間がかかりますが、プロセスを大切にしています。
評価というのは、そういうことではないでしょうか?
自分たちも、よくなるための手段なのですから。
また、評価は、「客観的ではあり得ない」ということもわかっている気がします。
あるいは、客観性を突き抜けたところでするものが真の評価ではないか、と。

少なくとも、『ギヴァー』のコミュニティでも、テストに重きを置いているとは思えません。長老たちの日々の観察等が最優先されているようです。評価は、頻繁に盗み見ているだけでなく、おそらく関係者へのインタビューなども踏まえられている、と。



★このことと、テストに変わる「人を伸ばす多様な評価の方法」を紹介したくて書いたのが『テストだけでは測れない!』(NHK生活人新書)でした。テストは、所詮、選別の手段です。1割以下の勝ち組と、多くの負け組をつくるための。それ以外に達成していることはあるのでしょうか? 大学生や教員対象の研修で、「どんな時によく学べるか?」を尋ねることが多いのですが、テストのための準備で学ぶと答える人は皆無です。所詮、それが忘れる運命にあることを誰もが知っていますから。
★★ すでに、4、50年前から、テストへの幻想を捨て去っている、ということを意味します。それに対して、日本は相変わらず「テスト信仰」というか「テスト崇拝」の中にあります。
★★★ この辺のことは、企業等の入社のプロセスにも参考になるのではないでしょうか? プロセスの中で自分たちのアイデンティティを見直し、そして創っていく作業をしている感じです。何よりも、関係者すべてを巻き込んだ体制がいいです。つまり、会社等の組織の場合は、人事担当者だけがやるんじゃない、ということです。


2013年10月21日月曜日

『若い読者のための世界史』




丸谷才一が『思考のレッスン』という本の中でエ ルンスト・H・ゴンブリッチの本を紹介していて、その本は見つからなかったのですが、『若い読者のための世界史』をタイトルに誘われて読みました。とても 好感が持てた本です。これは著者が25歳の1935年に書かれた本を50年後に復刊したものです。従って、最後に「50年後のあとがき」がついています。 日本の教科書(日本史や世界史)もこういう形式で書かれたら、読む方にとってはありがたい気がしました。


 スタートのところから、記憶に関することです。ある意味では、本全体が。(数字は、ページ数です。)
 それにしても、世界に占める日本の割合の少なさを痛感させられます。まさにヨーロッパにとっては極東もいいところ。端の端にポチンとある感じなんでしょう。中央に影響を及ぼすことはない・・・・ あっちにはあっちの、そしてこっちにはこっちの世界観がある。そのズレが面白くもあり、また怖くもあるわけです。


3 「昔、むかし」からスタート
 ふたつの鏡の間に自分の身を置いてみるようなもの ~ 鏡に映るきみの姿がどこまでも続く。「昔、むかし」は、これと全く同じこと。
 「はじまり」にとどくことはけっしてない。

57~8 アテナイ → 74~7 哲学、医者、詩人、美術、建築

74~5 ブッダの悟り
    中国は、象形文字。儒教。老・荘。
85  アレキサンダー大王とアリストテレスの関係
95  図書館
108 新しいものをつくるものこそ、古いものを知る必要がある

148 中世 ~ 教会の時代

203 都市と市民、貨幣の誕生  ~ 騎士や教会の力の弱まり ← 人間関係の築き方が変化し始める。

213~221 ルネサンス 1420年~ フィレンツェ
   中世が星夜なら、ルネサンスは夜明け
 → 『異端の数 ゼロ ~ 数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念』チャールズ・サイフェ、早川書房、96ページ ~ ゼロと無限はルネサンスの中心にあった。たとえば、絵画の消失点  物の見方・捉え方・価値観が根本的に変わりだした。
 しかし、その後、1500年代後半以降、バカな戦争の繰り返しでもある! バカな戦争の繰り返しから、人間は逃れられない宿命なのか? (そういえば、ルネサンスの間中も戦争は続いていた!)

222 世界史 = 多分に地中海周辺の歴史


2013年10月18日金曜日

『ギヴァー』に関連のある本 96



 前回、95として紹介した いせひでこさんの別な絵本です。
文章を書いたのは長田弘さん。
 絵本のタイトルは、『最初の質問』。
 でも、「とてもいい質問群」という感じの内容です。

 どれも、ギヴァーのコミュニティではされない質問だろうな~、と思ってしまいます。
 ということは、日本社会でも、されなくなりつつある質問??

 たとえば、
     今日、あなたは空を見上げましたか。
     空は遠かったですか、近かったですか。
     あなたにとって、いい一日とはどんな一日ですか。
     「ありがとう」という言葉を、今日、あなたは口にしましたか。
     樫の木の下で、あるいは欅の木の下で、立ちどまったことがありますか。
     樹木を友人だと考えたことがありますか。
     このまえ、川を見つめたのはいつでしたか。
     「うつくしい」と、あなたがためらわず言えるものは何ですか。
     夜明け前に啼きかわす鳥の声を聴いたことがありますか。
     ゆっくりと暮れてゆく西の空に祈ったことがありますか。
     何歳のときの自分が好きですか。
     上手に歳をとることができるとおもいますか。
     世界という言葉で、まずおもいえがく風景はどんな風景ですか。
     問いと答えと、いまあなたにとって必要なのはどっちですか。
     これだけはしないと、心に決めていることがありますか。
     いちばんしたいことは何ですか。
     人生の材料は何だとおもいますか。
     あなたにとって、あるいはあなたの知らない人びと、あなたを知らない人びとにとって、幸福って何だとおもいますか。

2013年10月17日木曜日

『ギヴァー』と関連のある本 95



  記憶で思い出した「いい絵本」です。
それは、いせひでこ作・絵の『チェロの木』。
『ルリユールおじさん』と『大きな木のような人』を上回る(?)いい作品。

ある意味で、『ギヴァー』のコミュニティの真逆をいくようなストーリー。
 おじいさん、おとうさん、そしてわたしへと受け継がれた木=チェロ=記憶。

 でも、ロイス・ローリーが言いたかったことは、ひょっとすると、この絵本に書いてあるようなことだったのでは、とも思うのです。『ギヴァー』誕生のきっかけを聞けば。

 そういえば、『ルリユールおじさん』も過去/記憶がテーマ?

 他に、記憶をテーマにした本や絵本をご存知の方は、ぜひ教えてください。

2013年10月16日水曜日

戦争体験者の記憶②



  久田さんの戦争体験の続きです。

362 私が言いたいのは、こんな戦争なぜ始めたのか、それは天皇の命令があったからだろう。山下(大将)は、「天皇の忠実な下士官」でしかかなったから、自分の判断で(フィリピン・ルソウ島での)戦闘をやめる決断さえできなかった。山下や本間(中将)を無理に処刑したのは、やはり戦勝国の裁判という面を否定できない。私はこの戦争で最も被害にあったフィリピン民衆、それと無理やり戦争に駆り出され、ぼろきれのように死んでいった兵隊たち(日本の民衆)の立場から、真の戦争責任の追及をする必要があると考えています。

363 勝者の裁判だからとこれを非難するあまり、フィリピン(等)でやった日本軍の行為をまるごと正当化する傾向もありますからね。

415 1950年代は「体験」が、70年代からの「証言」の時代を経て、90年代から「記憶」の時代が始まるとされる。おそらく戦争体験者(世代)の生物学的生存の限界問題とも関わって、これからは「記憶」を軸にして、どのような可能性があるのかが問われてこよう。 ~『「戦争経験」の戦後史』成田龍一著

 
  戦争大好き(?)の中曽根さんは、久田さんと比較したら戦争を体験したとはとても言えないそうです。「戦争をさせる体験はした」と言えるかもしれませんが。あるいは、「同時代を生きていた」とは言えても。それぐらい質的な違いがありすぎるようです。

2013年10月15日火曜日

戦争体験者の記憶 ①



 記憶絡みで、『戦争とたたかう ~ 憲法学者・久田栄正のルソン戦体験』水島朝穂著を読みました。(数字は、ページ数です。)

45 思考停止、判断停止を要求した。自分で判断できる兵隊では、命令を聞かなくなるという不安が帝国軍隊にはあった。つまり、これは本質的に民衆を信頼していない者の発想です。知識や判断能力は将校が独占する。兵隊はただ命令を聞くロボットに等しい。「俺命令する人」「お前命令される人」という構図が極端なまでにおし進められたのが帝国軍隊です。 → 今も行われ続けている教育、学校という制度??? そこを通過して、みんな社会人になっている。
46 内務班では、とにかく均質化、同質化が重視され、ちょっとでも違うことをやるとバーンと殴られた。 → 『ギヴァー』 そして、日本の学校そして社会。

 水上勉の『兵卒の鬣(たてがみ)』の中で(123~4ページ)、「おれは思うんやが、軍隊というところは、地方人(一般社会人)の権威をぜったいにととめんな。つまり、わしらは、シャバでは教師や課長や職長やという威張っておあれても、軍隊へくると一兵卒になる。入隊した日からつまり、地方で育ててきた生活の自信みたいなもんを、徹底的に破壊させてくれよる。この破壊は、上官の使命でもあって、またわしらは、都合よく、その指示に便乗して、心の中から破壊してしもた。もう、くたくたになった。そこがつけ目や・・・」
「地方人」を改造するメカニズムというのは、実によくできていたと思います。
 内務班は、「社会のドロを洗い流す場」なんていってましたからね。
 均質人間の製造工場 
 人間個人は一人ひとり顔が違うように、性格も嗜好も思想も多様である。その多様な個々人を均質的な製品に仕上げる「改造工程」は、それ自体、徹底した規則優先・管理主義を特徴とする。生活者としての人間個人のすべての側面(頭の毛から足の先まで、食べること、寝ること、排便、セックスに至るまで)が徹底機的に規則化・規格化される。 ← まさに、『ギヴァー』以上のことがやられていた!!!

49 内務班と現代の「校則」
 規則なんてもんじゃない。細かいだけでなく、無内容なことが実に詳細に規定化されている。人間は「考える葦」といわれるが、軍隊の内務班教育というのは、この考えるという人間の最も大切なことを奪ってしまう。何から何まで管理されると、人間は無気力になってくる。いわれたことをやるだけになる。これが、命令に絶対服従の人間を作るのに効果的だったんですね。
50 人間として扱っていない。

54 人間よりも物(兵器)を大切にせよという思想は帝国軍隊特有のものです。

2013年10月14日月曜日

慰安婦問題



先の参議院選挙前に、橋下さんの発言が例によって国際的な話題を呼んだ件です。

昨日の新聞の見出しでも、「慰安婦問題の拡大阻止 92~93年、東南アで調査せず」

この辺に関しては、安倍さんを含めて自民党の多くの方々も同じ路線です。

過去・記憶の扱い方の問題は、『ギヴァー』のテーマと丸ごとつながっています!!

2013年10月13日日曜日

私たちにギヴァーは必要?


 インタビューの中で、ローリーは、「なぜ、ギヴァーの存在が必要なのか? なぜ、記憶(過去)が大切なのか?」と聞かれます。


「そういう質問には答えられないわ。それこそ本が問いかけていることでしょう」と答えます。
 でも、ヒントはくれています。「私たちの周りに探せばいるんじゃない、そういう人。」


 過去と記憶があるから、現在も、そして未来をよりよく生きられるんじゃないのか?

 現在だけが続くのでいいのか?

 現在の視点から、過去/記憶は書き換えてしまっていいのか?


 少なくとも、ジョナスのアクションは、過去/記憶がもたらしたもの?