今日紹介するのは、<反>哲学教科書 ミシェル・オンフレ。
本は、著者自身が実業高校の生徒たちに対して20年間行った授業をまとめたものです。決して公式の教科書ではない、オルタナティブな教科書(生徒たちが受け入れられ/学ぶべきものを学び易い教科書)です。
私が興味を持てたのは、本全体というよりも、ある章のそれもたった一つの項目だけでした。
ページ数にしたら、わずか130~134ページの5ページ。
紹介する理由は、「考えるためには、何よりもまず当たり前なことに気づくことだ。あれこれの知識を覚えるのも大事だけれど、一番大事なことは当たり前なことに気がつくことなんだ」のとてもいい例だからです。
扱っているテーマは、
なぜ君たちの学校は刑務所みたいに造られているのだろうか?
130 なぜかというと、他のいろいろな場所もそうなのだけれど、この場所では自由が好まれず、また、この場所が自由を抑制し、行動の余地を狭め、制約を突きつけ、できるかぎり制限することに、実に長けているからなんだね・・・自由にしてしまうことは、社会の全体にとっては著しい妨げになってしまう。そのために社会の側は、区画割りを方式とするいくつかの制度を編み出したのだ。区画割りとはつまり、君たちの空間や時間を細かく分割することだ。
131 君たちがごく幼い頃から、君たちを社会生活に適応できるようにするという役割を担ってきたのが学校だ。つまり学校は、君たちにもともとある乱暴な自由を放棄させ、法が定める自由を好むように仕向けてきたのだ。身体と魂は鍛えられ、磨かれ、世界の見方、現実の捉え方、物事の考え方がたたき込まれる。規範を植えつけられるのだ。生徒や学生は、評価を高めることが至上命令だ...平均点を超えること...しかし、これらのすべては、君たちの能力を高めることよりも、教師団からの要請に、君たちがどれだけ忠実で、従順で、素直でいられるかを測ることが主目的。
132 学校内では、君たちの居場所を常に把握していることになっている。時間の区画割りは、時間割によって可能になる。
あまりに「当たり前すぎて」学校のスペースや時間割が、「変だ!」なんて気づく人はほとんどいません。
他にも「当たり前」なことが学校の中にはたくさん充満していますし、学校に充満しているということは、私たちの家庭、地域社会、そして会社や役所をはじめあらゆる組織にも充満していることを意味します。学校だけが「おかしな」場所などと言えるはずがありませんから。
本の著者は、社会レベルの自由について、「社会が自由を好まないのは、自由から秩序や社会の結びつき、有益なコミュニティなどは生まれず、むしろ活動の分散化、個別化、社会の細分化がもたらされるからだ。自由は恐れと不安をかきたてるものだ。
まずそれは個人を不安にする。選択の可能性、つまり責任の重みを受け止める可能性の前に、確信ももてずに立たされる個人は、自分自身に問いかけるしかない。その一方で、自由は社会によって厄介だ。社会は、個人の小グループによって様々な劇が演じられるよりも、そのつど考案される一大プロジェクトの中に人々が統合される方を好むのだ」(130ページ) ←いったい、一大プロジェクトを考え出すのは誰??と書いています。
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