以下は、ある中学校の教育目標です。
教育目標(Aims of the School)
人間尊重の精神を基盤とし、確かな知性と創造性を身につけ、心豊かで実践力のあるたくましい生徒を育成する。
To help students to become rational and considerate , and to foster intellectual and creative growth within an atmosphere of mutual respect.
○ 勉学に励み、新しい文化を創造する人
Encourage students to work hard toward a bright and sustainable
○ 気品ある人間性をそなえ、すすんで社会に貢献する人
Give students a sense of dignity and the desire to contribute to society.
○ 心身ともに健やかで、たくましく生きる力を持つ人
Help students to grow in body , mind and health.
全国的に、公立小中学校の教育目標は、知・徳・体のバリエーションで書かれています。
「考える子、思いやる子、鍛える子」です。 (私学も、基本的には変わりありません。)
さすがに、中学校ともなると、それがかなり発展的な形で書かれることが上の例からも分かります。
しかし、ご自分の中学時代や現状を考えて、これらの目標は実現可能な目標なのでしょうか?
要するに、日本の学校の教育目標は、何年後かに(子どもたちにとっては、卒業するまでに)達成することが求められているようなシロモノではなくて、単なる「願望」や「願い」を表したものにすぎません。教師にとっては、子どもたちがそれをしっかり身につけない限りは卒業できない/させないようなものでもないわけです。
となると、いったいこの「教育目標」の価値は、何なのでしょうか?
単なる「お飾り」?
なんと言っても、『ギヴァー』のことが常に頭から離れない私にとっては、上の3つのポイントを読んだ時に、思い出してしまったのはジョナスの行動でした。1番目に関する記述は弱い感じがしますが、2番目と3番目に関しては、みごとなぐらいの行動で示してくれていましたから。
そのジョナスは、13歳ぐらいでした。ちょうど、中学生の年代です。
日本の中学生たちも、状況、環境、機会さえ提供されれば、結構ジョナスと同じようなことはやってくれる気はしないではありません。その状況、環境、機会を提供するのは、いったい誰なのでしょうか?
『14歳からの哲学』(池田晶子著)の中に、こんなふうに書いてあったのをぜひ思い出してください。
「言葉こそが現実を作っている。言葉を大事にするということが、自分を大事にするということなんだ」(36ページ)
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